孤高・烏蕗
「美並」
「なに知千」
翌日の夜、美並が翠葉と話していると、知千がやってきた。知千は美並を外に呼んでから、言った。
「一人、使える奴がいる。おまえに会わせたいから、来い」
「使える奴?」
「そいつは情報をくれるんだ」
「今?」
「あぁ、今だ」
「どんな子だろう」
静まり返った知千の部屋で、時計の針だけが淡々と時を刻んでいた。少年が来るのを待ち始めてから、もう結構な時間が経った気がする。あまりの待ちぼうけに、美並はへにゃっと引き攣った笑みを浮かべながら知千へと視線を向けた。
「ねー知千、私たち、だいぶ、待ってるよね?」
立派な椅子に深く腰掛けた知千は、手元で本をめくりつつ、時折目の前に佇む扉へと目線を送っていた。
「あぁ、だいぶ、待ってる」
美並の言葉をそのまま引用するように、知千は静かに応じる。納得のいかない美並は、さらに言葉を重ねた。
「ねーその子、本当に今晩来るの?」
「……あいつ、今日の夜来いって言ったら、面倒って言ってた」
知千はぽつりと漏らし、少しの間を置いてから「あいつ、やったな」と小さく呟いた。そして、申し訳なさそうに美並を見つめる。
「すまん美並。今晩は来ない。無駄な時間をかけさせた」
知千はしっかりと約束を取り付けていたつもりだった。しかし、少年はただただ「面倒くさい」という理由ですっぽかした。
夜遅くの回廊は静まり返り、足元を照らす小さな灯りだけがぼんやりと浮かんでいた。すっかり暗くなった廊下を、知千は美並の部屋まで送り届けるために並んで歩く。
しんと静まり返った長い回廊を進むなか、美並がふと知千を見上げて尋ねてきた。
「その子、どんな子なの?」
「名は烏蕗。無口、無表情、淡々としている」
「知千よりも?」
「あぁ。俺よりも」
「ふーん。知千よりもなんだ。知千はその子が何か情報をくれるかもって言ってたよね。そういうの得意なの?」
「烏蕗は、王家直属の監察官の家に住み、観察力が高く、情報収集が得意だ。もともと奴は貧しい農家で生まれ、虐待を受けていた。6つの時、親兄弟が皆病死し、孤児になった。そして、賢さと記憶力、直感力が長けていることを見込まれ、王家直属の監察官に引き取られたんだ」
美並王宮の大きな階段を降り、ゆったりと散歩を楽しんでいた美並の目に、ふと風変わりな光景が飛び込んできた。少し離れたところで、数人の文官たちが輪を作り、何かを言い争うように声を荒らげている。その中心に座り込んでいたのは、ひとりの小さな少年だった。文官たちは眉をひそめ、代わる代わる少年に向かって何かを捲し立てているようだ。
「困ります。許可なくこちらへ入られては。君のような身分の者が入るところではない」
「……仕事」
「仕事と言われましても、あなたはどこの所属です?」
「王家直属の情報部」
「……え?いや嘘つかないでください」
「・・・雑用係」
「いや、そういうことではなく……」
美並は足を止めた。
「どうしたの?」
「美並様、この少年が勝手に王都へ入りまして……こんな身分の低い少年が許可もなく入るようなところではない、とさっきから言っているのに、まったく聞かないんです」
周りの文官たちも苦々しい表情でうなずき、少年に厳しい視線を向け続ける。しかし、渦中の少年は咎められても怯せる様子すらなく、ただ面倒くさそうに明後日の方向を眺めていた。
「でも、この子は王家直属のところで働いてるんだよね?」
「それはそうですが・・・」
「じゃあ、ちゃんと仕事で来たんじゃない?」
美並はこの子が勝手に来たと決めつけず、仕事で来たんじゃない?と言ってみる。
少年は初めて美並を見た。
「もしかして、烏蕗?」
「……そうだけど誰...」
「知千が言ってた!情報をくれる人って!知り合いなんだね!知千と」
「……あいつ、何言ってんだ」
「昨日来なかったでしょ?」
「面倒だった」
「ええっ!?」
少年は、手足が長くひょろりとした痩せ型だった。キリッとした男顔の知千とは異なり、その少年は癖がなく整った、綺麗な中性的な顔立ちをしていた。文官たちの目から見れば、彼が身につけている装束は到底まともなものには映らなかった。黄色い独特の紋様が施された白い服は、ゆったりとした優美な袖の仕立てこそ伺えるものの、全体がボロボロに引き裂かれ、黒ずんだ汚れにまみれている。そのぶかぶかな袖と衣服は、彼のあまりにも痩せ細った身体に対して酷く不釣り合いで、余計に痛々しさを際立たせていた。整った綺麗な顔立ちをしているというのに、頬や額には煤がべったりとついている。王宮の文官たちからすれば、どこからか迷い込んできた身分の低い浮浪児にしか見えなかったのだ。年齢の割に小柄で、事前に知千から同い年だと聞いてはいたものの、実際の身長は知千よりもはるかに低かった。黒いくりくりとした瞳には、光が宿っていなかった。
文官たちの剣幕などどこ吹く風で、烏蕗は心の中で大きなため息をついていた。口には出さなかったものの、彼には彼なりの事情があった。一応「仕事」でここへ来たというのは本当だ。確かに情報収集の仕事を任され、王都のすぐ近くまでやってきてはいたのだ。しかし、途中でその仕事自体が猛烈に面倒くさくなってしまった。そういえば昨日の夜、知千に『来い』って言われたな……ふとそんなことを思い出し、まあ近いし行ってみるか、と軽い気持ちで足を向けた。王都を固める厳重な警備や固い守りも、容易く潜り抜けて入城を果たしたのだ。……だが、いざ敷地内に入ると今度は「知千のところまで歩いていくのが面倒くさい」という思いが持ち上がってきた。結局、烏蕗はそのへんに適当に腰を下ろし、知千のもとへ向かうこともなくぼぉっと佇んでいた。そして文官たちに捕まった。
「烏蕗、仕事終わったらどうするの?」
「...帰る」
「お腹空いてない...?」
美並は、鮮やかな青色に美しい刺繍が映える服の懐から、紙に包まれた温かい饅頭を一つ取り出した。
「あげるよ、とっても美味しいんだよ」
美並はふわりと柔らかく微笑んだ。
「食べたくなかったら、無理に食べなくてもいいんだよ」
食べることを強要するでもなく、ただ優しく言葉を添える美並に烏蕗の混乱は深まるばかりだった。考え込む烏蕗の手に、美並はそっと饅頭を握らせた。
「またね!」
そう言って、軽やかな足取りで去っていった。
朝方、美並は王宮の中で提供された自室を出る。
「知千は日の出前から毎日剣の稽古してるからなー、すごいなぁ。知千ってすっごい努力してるよね」
美並は朝起きてから、一緒の部屋で寝ている翠葉におはよう、と言って、話した。
・・・翠葉、元気そうだったな。記憶は失っているけど、それにも慣れてきたみたいで、私と話しても、また前のように焦ったりしないで話せてる。翠葉が記憶喪失してるなんて、触れなければ私も忘れてしまうぐらい...。
「知千!おはよう!」
剣術の稽古に没頭していた知千は、激しい動きで熱を持った身体を冷ますため、上半身の着物を肌ぬぎにしていた。首筋から胸元へと伝う汗の滴。そこに、美並の声がしたので、知千の体が小さくビクッとした。
美並は視界に入った知千の素肌と汗の艶やかさに息を呑み、思わずハッとして大きく目を見開く。直後、気まずさと動揺を隠すように、慌ててそっぽを向き、視線を逸らす。
・・・予想してなかった。
「何の用だ」
知千はなぜかキレ気味だ。片眉を吊り上げて、声音がいつも以上にツンツンしている。
「いや、キレるなよ。勝手に肌ぬぎしたのはそっちだろ!」
美並が突っ込む。知千の側近の一人が怒鳴る。
「美並様、知千様に対して無礼だ。しかも呼び捨てなどと!」
知千が手で制する。
「許せ。美並に悪意はない」
「知千!稽古中に邪魔してごめん!ちょっとこっちきて!お願い!」
稽古場を見下ろす遠くの階段の上。登りきった場所にある柱の横から、美並が「こっちに来て」と言うように、手を振っている。
「面倒だな」
「・・・・・・と言って行くのですよね、若様は」
側近は去っていく若の背中を見て面白そうな顔をした。
「若様はやけにあの小娘を気に入ってらっしゃる」
訝しげな顔をしながら知千はこっちにきてくれる。美並は知千に耳打ちする。側近の者たちの目には、その二人の姿が微笑ましい光景として映っていた。背の高い知千が、一回りも小さく年下の美並に耳打ちさせようと、わざわざ腰を落として目線を下げてやっている。美並は美並で、小さな身体で精一杯に背伸びをし、一生懸命に知千の耳元へ言葉を届けようとしていた。側近は静かに見守っていた。
「若様は優しいお方です」
「あのね、今日のお昼か、稽古終わった後とかでいいんだけど、翠葉が知千と話したいって。知千が大丈夫な時でいいよ。翠葉が話したいって言ってるから。お願い」
「わかった。俺の方から翠葉の部屋に行けばよいか?」
知千はつべこべ言わずに、その場で受け入れてくれる。知千はこう見えて意外に心が広い。美並はホッとした。
「うん!お願い!ありがとう。翠葉も喜ぶよ」
そして美並は知千の耳元から離れると、知千、と手を掴む。知千は自分の素肌に触れる指先の感触に目を落とし、「なんだろう」と思う。知千はただ不思議そうに、美並の顔を見つめ返した。美並は優しく微笑んでいる。
「何だ」
・・・まだ他に用があるのだろうか。
他の用、と考えていると、にこにこの笑顔で美並は言った。
「お稽古頑張ってね!私応援してるよ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
・・・え?
美並の満面の笑み。そして真っ直ぐな言葉。その一瞬で、知千の胸の奥がドクンと跳ね上がった。これまでどんな厳しい戦いや稽古でも冷静さを失わなかった知千が、生まれて初めて平常心を根こそぎ持っていかれ、激しく動揺する。
・・・え?
思わずその場から逃げ出そうと一歩後ろへ引いた。
「……無視?」
美並がすっと悲しそうな表情を浮かべ、知千を見つめてきた。その青い瞳に射抜かれた知千は、完全に言葉を失ってしまう。
・・・まて、本当に想定外なんだ。何なんだ、この娘。
引き止めるようなその表情に頭が真っ白になりながらも、知千は喉の奥から言葉を絞り出した。
「……っ、感謝する」
少し離れた場所からそのやり取りを見守っていた側近たちは、普段の冷静沈着な知千からは想像もつかない狼狽ぶりに、微笑ましく感じた。
美並は烏蕗と一緒に王都の背後にある、近くの山に来ていた。烏蕗とはあの日以来も数回王都内で出会した。美並が友達になろう!と言って、烏蕗を狩りに連れてきた。
「烏蕗っ今日は一緒に狩猟しようっ!!ここの山では鴨や雉、兎、鹿がよく獲れるんだっ!!私たちでいっぱい獲って、一緒にご飯作ろうね!烏蕗は狩りとかしたことあるの?私は山民族・流翻族だから、毎日幼い頃から狩りをしてきた。最初に自分一人で獲ったのは、小鹿だった。ちょっと心が痛んだけど、だけど自分で獲物を捕まえられたっていう達成感は大きかった!」
烏蕗は答えないけど、美並は全然気にならない。喋らなくても、烏蕗は話を、一つ一つの言葉を聞いてくれていることがわかる。
「気をつけて、足元は険しい」
山を案内しながら、あの木にはこんな実がなるんだよ、とか、この植物はこんな薬草に使えるんだよ、とかいろいろお喋りする。烏蕗はキョロキョロと辺りを観察する。
「烏蕗、今日はここら辺で狩りをしよう。私が狙うのは熊だ。烏蕗は、好きなの狙ってね。もし獲物が危険で、危ない時は、私に合図してくれたらいつでもいく」
幼い子に言い聞かせるような優しい声で「いい?」と問いかけると、烏蕗は小さく、こくりと頷く。
美並は早速、約150メートル離れた場所にいる熊を発見した。風下に立ち、足音を消しながら慎重に木々の枝から枝へと静かに跳び移り、距離を少しずつ縮めていく。その巨大な体躯と力強い骨格から、あの大きさは雄グマだな、と分かった。ようやく、あと約10メートル。美並は腰の剣を静かに抜いた。古くから伝わる熊狩りの確実な手法「急襲による一撃必殺」である。熊は強靭な皮膚と厚い脂肪、そして硬い骨格に覆われているため、適当に斬りつけても致命傷にはならず、反撃を受ける危険が高い。狙うべきはただ一つ、頸椎か、あるいは眉間から脳へと至る一点のみ。美並は息を潜め、樹上から熊の頭上へと一気に飛びかかった。重力と落下速度をすべて剣先にのせ、熊が異変に気づいて振り向く間すら与えない。剣と一体化するかのような尋常ではないスピードで技を繰り出し、正確無比に狙いを定めた一撃は、吸い込まれるように熊の頸椎を一瞬で断ち切った。咆哮をあげる暇すらなく、巨体はどさと力なく地面に崩れ落ちた。
「仕留めた・・・・・・烏蕗っ!!仕留めたよー!!!ってここからじゃ聞こえないか」
自分が約150メートル離れた地点にいることを思い出す。さっさとその場で熊を解体していると、カサッと背後の茂みが揺れる。
「あれ、烏蕗?ついてきてたの?」
茂みから葉っぱまみれになった烏蕗が出てきた。ブルっと動物のように頭を振り、身体についた葉っぱを払い落とした。
「なになに・・・何か仕留めたのか?」
そして茂みの奥へ消えた。
「ついてきてってことなのかな」
美並が行ってみると、そこには五匹の鹿の死体があった。どの鹿も身体が大きく毛並みも優れていたが、傷口を確かめてみると、すべて脳天を一撃で弓矢によって射抜かれていることに気づく。美並は驚いた。
「す、すごぃっ!!!全部烏蕗が仕留めたのかっ!!しかも弓で獲ったのか!?すごいっ!!烏蕗すごいぞっ!!こんな大きな鹿を五匹も一つも外さずに弓で射止めるなんて・・・すごい。烏蕗、よくやったね」
初めて褒められた烏蕗は、何が起きているのか、わからない。自分のやったことを初めて肯定してくれた人。胸の奥に戸惑いが波のように押し寄せてくる。いつも通りの淡々とした顔。目元も口元も微動だにせず、完全に無表情のまま。
「烏蕗、よくやったね……すごいよ。おいで」
美並が両手を広げる。
「……?」
烏蕗は、その意味が分からないのか、じっと美並を見る。
「こうやったらね、ちょっとだけ、心が落ち着くんだよ」
美並はそう言って、自分から烏蕗をそっと抱き寄せた。
「……あったかいでしょ?」
烏蕗は答えなかった。
ただ、美並の腕の中でじっとしていた。
「嫌だったら、言ってね」
そう言って、美並はそれ以上強く抱きしめなかった。
人に抱きしめられることも、優しく撫でられることも、温かい言葉をかけられることも、すべてが人生で初めての経験だった。年齢の割に幼い外見で、中性的な童顔。黒いくりくりの瞳には、相変わらず何の感情も宿っていなかった。何が起きているのか完全には理解できないままだったが、烏蕗は胸の奥で、それが決して嫌なことではないのだと感じていた。美並に優しく頭をぎゅっと抱き寄せられ、確かな温もりを感じた。




