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記憶喪失した翠葉

 「日没だ。翠葉、よく山で一緒に日没を見たよね。翠葉のお母さんは、私たちが山から帰ってくるのが遅いとぷんぷん怒ってた。でも綺麗だったね、竜の顎(りゅうのおぎの)で見る夕焼け。また翠葉と一緒に見たいな」

「リュウノオギノ?」

 せり出した大きな縁側で、美並と翠葉は並んで立って日没を見ていた。翠葉の方が二つ年上なので、美並よりも背が高い。

 「ほら、川に向かって突き出た岩の形が、まるで竜の口や舌のように見えるから、そう呼ばれてる場所のこと」

 懸空(けくう)山の頂上にある「竜の顎」。人がほとんど立ち寄らない場所。美並は両手でこーんなに大きいんだよ!と翠葉に見せる。

「昔ね、多分5歳の時とかかなぁ?翠葉と一緒に山頂まで行ったんだけど、あそこに近寄るのが怖くて、近寄ったら食べらちゃうんじゃないかって思って・・・そしたら翠葉が私の手を繋いでくれて『大丈夫だよ、一緒に行こう、美並』って言ってくれた。それで翠葉が私に竜の顎の美しい日没を見せてくれた。私たち、何度もそれから日没を見るために行ったね」

 懐かしそうに語る美並に、翠葉は困った顔をした。

「美並、ごめん。何言ってるかわからない。わたしそんなとこ知らない。それ、どこにあるの?」

「・・・どこって・・・覚えてないの?え?二人で沢山遊んだじゃん!じゃっ、山は?流翻族が誇る懸空山は?」

「わたし、懸空山なんて知らない。さっきから美並、何の話しをしてるの?」

 翠葉は不思議そうな、困った顔で美並を見た。

「じゃっじゃぁ、猪肉ときのこの煮物は?翠葉の大好物の!」

 翠葉は首を振る。

 美並は美並の胸の中で、不安がじわじわと滲み出していた。目の前にいる翠葉の瞳に、自分を映す光がない。焦りと恐怖が募り、美並は矢継ぎ早に言葉を捲し立てた。

「おっ覚えてないの……? 嘘でしょ・・・ほら、一緒に遊んだあの川のことだよ! 翠葉がすごく大きな魚を釣り上げた時のこと、覚えてない!? それに、二人で木登りしてて蜂に襲われてさ……二人揃って熱を出して寝込んだことだってあったじゃん!他にもさ、あの時は・・・・・・」

 思いつく限りの、大切な思い出をひとつ残らず引っ張り出し、必死に並べ立てる。どうか思い出してくれと願うように、すがるような視線で翠葉の顔を覗き込んだ。しかし、翠葉はただ困惑した様子で眉をひそめるばかりだった。唐突に投げつけられる自分の知らない話に、何を聞かされているのかさえ理解できていない。

「美並、ごめんね。美並は色々わたしに話してくれるけど・・・わたしは何一つ覚えてないんだ。わたしが美並にとって大切な存在で、わたしにとっても大切な存在なのはわかる。でも、それ以外は......本当にごめん」

 翠葉は悲しそうな顔で俯く。美並は少し沈黙した後、翠葉に歩み寄り、翠葉の頭をそっと抱き寄せる。

「・・・もしかしたら翠葉は、記憶喪失しているのかもしれない。薬の副作用とかかな?大丈夫だよ、翠葉。一緒に治そうね。申し訳ないなんて思わなくていいんだよ。翠葉は翠葉なんだから」

「あのね、わたし、こんなこと、言いたくない。だけど、わからないんだ。美並はわたしにとって、どんな存在なの?どうして美並はわたしにそんなに優しくしてくれるの?助けてくれるの?」

「翠葉は私の家族みたいな、お姉ちゃんみたいな、親友みたいな存在。強くて、カッコよくて、根性があって、頼りになって、優しくて、笑顔が可愛くて...。私は、翠葉が言ってくれるみたいに、優しくなんてできてないよ。翠葉がこれまでいっぱい優しくしてくれたし、今も私を大切に想って、優しくてくれる。助けるのに理由なんかない。ただ私は翠葉にまた笑ってほしい。笑顔の翠葉の横に私はずっといた。だから、これからもずっと一緒にいたい・・・・・・。翠葉、昔のことがわからなくて、不安だと思う。私が必ず翠葉を連れて戻す。治ったら、これからいっぱい数えきれないぐらい思い出作って、一緒に幸せになろう。翠葉がいてくれるなら、私はそれで十分だよ」

 翠葉は美並を離すと、じっと美並を見つめた。小柄で華奢な体つきに、幼い顔立ち。けれど、その佇まいには不思議な存在感があった。向かい合って立つ二人の間を、すっと心地よい風が吹き抜けていく。その風を受けて、美並の明るい茶髪がさらさらと肩のあたりで軽やかに靡いた。揺れる髪の隙間から覗くのは、澄んだ美しい青い瞳。そこには、どんな困難にも折れないような、まっすぐで強い意志が宿っていた。

「美並は、今のわたしには『わたしに必要な、大切な人』としかわからない。妹みたいな、存在っていうのが、わからない...。それでもいいの?わたしにはそれ以上のことが言えない。それでも、美並は、わたしのことを助けてくれるの?記憶を戻してくれるの?」

 美並はにっこりと弾けるように笑った。

「うん!もちろん!翠葉が私を忘れても、私は翠葉を忘れない。大丈夫だよ。絶対治すから」

 

 剣の稽古を終えたあと、知千は王宮の図書室から側近に頼んで取り寄せてもらった歴史書を開き、自室で静かにページをめくっていた。部屋を包む静寂の中、トントン、と規則正しいノックの音が響く。

「誰だ」

彼が視線を本から上げずに短く問いかけると、扉越しに少し緊張した護衛兵の声が返ってきた。

「知千様、美並様がお会いになりたいそうです」

 美並が?と知千は怪訝な顔で一人呟くと、扉を開けた。


「・・・・・・・・・」

 知千が扉を開けると、そこにいたのは、いつも以上に眩しい笑みを浮かべた美並だった。

 ・・・なぜ、こんなに笑っている。

 けれど実は、扉が開く直前までの美並は、「ふーっ」と深く息を吐き出し、心を落ち着かせていたのだ。そして開いた瞬間、一気に口角を引き上げた。

「知千、夜分遅くにごめん。話がある。早急だ」

 知千は部屋に入れる。

「知千、翠葉が記憶を失ったことがわかった。昔の思い出も、山でのことも、全て忘れている。翠葉に山で見た夕焼けが綺麗だったこととか、二人で釣りをして、翠葉が大きな魚を釣って、みんなが驚いたこととか、翠葉が大好きな猪肉ときのこの煮物のこととか、色々あるんだが、思い出せないと言っている。そして翠葉は私のこともよく覚えていない」

 美並が部屋に入るなり、立ったままの姿勢で長くなりそうな話を始めようとしたため、見かねた知千は美並を長椅子へと促して座らせた。自分は、美並の正面にある椅子を引き、そっと腰を下ろした。

「続けろ」

「前の翠葉、病気になる前の翠葉は、私のことを『妹』って言ってくれていた。血は繋がってないが、それでも翠葉はいつでも、そう呼んでくれた。6歳の頃、私の両親が亡くなった時に、自分がなんなのか、どうして一人になっちゃったんだろうって悲しくて考えてたら、翠葉が『美並はわたしの妹だよ、だから、美並が自分がなんなのか、なんのために生きているのかわからなくなった時は、わたしが何回だって、言ってあげる。美並はわたしの妹だよ、私の妹だから、わたしのために生きて。今はそれでいいの』って言ってくれた。それからも何度も翠葉は私のことを妹って言ってくれた。今翠葉は過去のことを忘れているだけではない。私が自分の妹のような存在だったということがわからないと言っている。そして今の翠葉にとって、私は『必要で、大切な存在』と言った」

 知千は静かに話を聞く。

「私は翠葉に、絶対に治すって言った。翠葉を助けたい。力を貸して欲しい」

「王家の歴史に関わる重大な秘密が、今まさに目の前で動いている。歴史書にはいくつか不可思議な点がある。調べる必要がある」

 美並はびっくりした。

「それって、力を貸してくれるってこと?ありがとう」

 じっと知千は美並を見た。

「美並」

「なに」

「始めたらもう後戻りはできない。俺は前から重病のおまえの姉に対して違和感と疑問を抱いていた。そして今日、記憶喪失していることがわかった。胡乱だ。おまえに手は貸してやるが、俺の目的は王族として、自分の国の歴史を知るためだ」

「安心しろ」

 美並はふっと笑う。

「はじめっから、知千に私と同じ目的があるとは思っていない。王族と私とでは育った環境も、生き方も違いすぎる。でも、翠葉を怖いものみたいに考えるのはやめてね」

 知千は何も言わず、美並の首元に揺れる首飾りをじっと見つめていた。

「それから、美並、おまえもだ。会った時から、俺はおまえも胡散臭いと思っている」

「え?胡散臭い?」

 急に自分へ矛先が向き、美並は思わず首をかしげた。一体何の話だと言い返そうとした瞬間、知千の指先が首飾りに触れた。彼はそのまま真剣な眼差しで、細部を観察するようにじっくりと検分し始める。至近距離での視線にどこか居心地の悪さを感じた美並は、自ら首飾りを外して彼に差し出した。

「いいよ。これが気になるのか?どこが胡散臭い?これは流翻族の者みんなが全員つけてるお揃いの首飾りなんだ・・・・・・前から思ってたけどさ、知千って首飾りとか装飾品が好きなの?ほら!その真鍮の耳飾り!かっこいいね!かっこいいなって、見るたびに思ってた。似合ってるよ!」

「・・・・・・やはり、美並のつけている首飾りは他のものと違う」

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