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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第二章「王都の病は数字に宿る」

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第9話 悪役令嬢、数字を読む

ランツ子爵との面談は、午前十時に設定されていた。


場所は財務局の庁舎ではなく、王都北区にある書記官組合の閲覧室だった。財務局の正式な記録を外部に持ち出すことはできないが、信頼できる人間であれば組合の閲覧室で閲覧できる、という運用上の抜け穴——正確には、法的にグレーではなく白であるが、実務上あまり使われない手続き——を、ランツ子爵は今回のために選んだ。


「非公式、という言葉を使いましたが、これは正規の手続きです」


子爵は閲覧室の入り口で、レオノーラにそう言った。小柄で眼鏡をかけた男だった。几帳面な人間特有の、書類の整理のような言葉の選び方をする。


「存じています」とレオノーラは答えた。「ありがとうございます、子爵。お時間をいただいて」


「いいえ。私にできることが、これしかありませんでしたので」


ランツ子爵は一度眼鏡の位置を直した。それから、閲覧室の扉を開いた。


──────


閲覧室の机の上には、すでに何冊もの綴じられた冊子と、書類の束が並んでいた。


「財務局の医療関連予算について、過去五年分の拠出記録を用意しました。王都医療組合への支出項目が含まれるものと、それ以外の医療関連支出の二種類です」


「南区診療所への補助金は、どちらに含まれますか」


「前者です。医療組合を通じた間接的な補助金として処理されています」


レオノーラは椅子を引いて座り、最初の冊子を開いた。ランツ子爵が隣に立って、ページを指した。


「この欄をご覧ください。医療組合への拠出総額は、五年前からほぼ横ばいです。微増こそしていますが、減額はされていない」


「……しかし、診療所への支給は昨年六月から減額された」


「その通りです。財務局からの拠出総額は変わっていないのに、組合から個別施設への支給が減額されている」


「差額がどこへ行ったか、財務局の記録に記載はありますか」


「それが」子爵は少し声を落とした。「ないのです。正確には——あるのですが、おかしい」


レオノーラは顔を上げた。


「見せてください」


──────


子爵が示したのは、医療組合の内部支出の明細だった。財務局からの拠出と、組合からの支出の差額は、「施設整備積立金」という名目で処理されていた。


「施設整備積立金」


「はい。表向きは、将来的な診療所の設備更新のための積立という説明がついています。しかし——」


「しかし、積立が始まったのが昨年六月で、診療所の補助金減額と同時期」レオノーラは静かに読みながら言った。「積立先の口座は」


「医療組合の管理口座、とだけ記載されており、具体的な口座番号は財務局の記録には残っていません。組合の内部管理に委ねられている形です」


「医療組合の管理口座の監査は、財務局は行っていますか」


「……行う義務はあります。しかし、直近三年で監査が実施された記録は、ここには——」


子爵は記録をめくった。


レオノーラはその手を止めた。


「なかった、ということですわね」


「……はい」


部屋に、少しの間だけ静かさが降りた。


レオノーラは手元の書類に目を戻し、数字を指でなぞった。一年分の差額。それが十二ヶ月積み重なった額。その行き先が、「管理口座」という記載一行で処理されている。


(偶然の見落としにしては、この数字の隠し方はあまりに計画的すぎますわ。追跡を断念させるためのノイズの配置——実務家として、極めて趣味の悪い仕事です)


「子爵、もう一つ確認させてください。医療組合の監査を担当する部署は、財務局の中のどこですか」


「公共支出監査課です。そこに任されています」


「その課の担当官の名前を、非公式にでも教えていただけますか」


ランツ子爵は少し躊躇した。


「……教えることはできます。ただ、直接接触されるのであれば、注意が必要かと」


「どういう意味ですか」


「公共支出監査課は、昨年度に担当者が一人異動しています。その後任として入った人間が——財務次官補を経由して入ってきた、という話を聞いています」


「財務次官補」


「ブロッサー財務次官補です。王都の不動産関連の予算案に、何度かその名前が出てくるお方で」


レオノーラはその名を、記憶の引き出しに収めた。まだ確かめるべきことが複数ある。ここで飛びつくのは早い。


「わかりました。今日教えていただいたことは、私の中だけで扱います。子爵のお名前は出しません」


「……ありがとうございます」子爵は静かに言った。「侯爵令嬢、一つだけよいですか」


「どうぞ」


「これは、かなり深いところまで繋がっているかもしれません。南区の診療所一件ではなく——財務局の、ある特定の流れがずっと見て見ぬふりをされてきた、そういう話になる可能性があります。私は数字を扱う人間ですから、こういう歪みが生じると、何年も気持ちが悪かった。しかし私一人では、どこから手をつければいいかわからなかった」


レオノーラは少し考えてから、言った。


「子爵、あなたは今日、正しい手続きで正しい情報を示してくださいました。それで十分です」


「……それだけで、いいのですか」


「あなたにできることを、あなたはしました。次は私がやることです。それだけのことです」


子爵は眼鏡の奥の目を、少しの間細めた。


(誰もが権力に怯えて見過ごしてきたこの歪みを、この方は『ただの作業』として片付けていく。数字に誠実であれ、と自分に言い聞かせ続けた年月が、ようやく報われる気がした)


彼はゆっくりと、深く頭を下げた。


「……御意にございます」


──────


閲覧室を出たのは、正午を少し過ぎた頃だった。


外は晴れていた。オットーが馬車の傍で待っていた。


「いかがでしたか」


「思っていたより、根が深い」


「そうですか」


「財務局の監査体制に、意図的な空白がありますわ。監査が行われていないのではなく——監査が行われない状況が、作られている可能性がある」


オットーは少し眉を上げた。「それは……組合の内側だけの話ではなく」


「ええ。財務局内部にも関係者がいる可能性を否定できません」


二人は馬車に乗り込んだ。マリアが書類を受け取りながら、小声で言った。


「……お嬢様、大丈夫ですか」


「何が、ですか」


「なんか……大きな話になってきたな、と思って」


「大きいかどうかは、まだわかりません。ただ——」


「ただ?」


「おかしい数字には、必ず出所がある。出所を辿れば、動かした人間に行き着く。それはどんな規模でも変わらないことですわ」


マリアはそれを聞いて、少し口を引き結んだ。


──────


屋敷に戻ったのは昼過ぎだった。


レオノーラは執務室の机に南区の診療所から持ち帰った書類と、今日の閲覧室での書き付けを並べ、整理を始めた。


わかっていることと、わかっていないことを、紙に分けて書く。これは彼女が複雑な案件に取り組む時の、最初の手順だった。


わかっていること。


医療組合への財務局からの拠出は、減っていない。しかし診療所への支給は減額されている。差額は「施設整備積立金」という名目で処理されているが、行き先の口座の詳細は財務局の記録に残っていない。医療組合への監査は、少なくとも三年間実施されていない。監査担当の公共支出監査課に、ブロッサー財務次官補の人脈から後任が入っている。診療所の建物はランドルフ商会の所有で、医療組合の運営委員にランドルフ商会の関係者がいる。


わかっていないこと。


「施設整備積立金」の実際の行き先。ランドルフ商会と医療組合の関係の具体的な形。ブロッサー財務次官補の関与の有無と範囲。これが南区だけの問題なのか、王都全体の公共予算に同じ構造が存在するのか。


レオノーラはそのリストを眺め、短く息をついた。


(「施設整備積立金」の行き先を確かめることが、最初の鍵ですわ。そこを突ければ、残りは動く)


「オットー」


「はい」


「医療組合の過去三年の事業報告書を手に入れなさい。公開されている資料で構いません。それと——南区の他の公共施設について、同じ名目の積立金が設定されていないか、確認できますか」


「調べてみます。組合の書記が公開している年次報告であれば、写しは手に入るかと」


「今週中に」


「かしこまりました」


彼が部屋を出ようとした時、レオノーラが付け加えた。


「それと、ブロッサー財務次官補という名前を、どこかで見た覚えはありませんか」


オットーは少し足を止めた。


「……あります。穀物協定の件でランツ子爵への連絡を取った際、財務局の内部の組織図を確認したのですが——次官補は、公共インフラ予算の担当を兼任しておられます」


「公共インフラ予算」


「はい。道路、水道、そして公共施設の維持・整備に関わる予算の取りまとめです」


レオノーラはそれを聞いて、少しの間だけ黙った。


「……南区の診療所だけではないかもしれない、というのは、そういうことですわね」


「はい。もしブロッサー次官補が今回の件に関わっているとすれば、その影響は医療分野にとどまらない可能性があります」


「わかりました。引き続き調べなさい」


「御意でございます」


──────


夕方、オットーが一通の書状を持って戻ってきた。


「お嬢様、帝国の使節団から届いております」


レオノーラは筆を止めた。


「使節団から」


「はい。封が帝国の紋章で閉じられております」


彼女はそれを受け取った。封を開けると、一枚の紙が入っていた。


帝国王太子アドリアンの筆跡だった。読み慣れた、無駄のない字だ。


三行だった。


「先日の書簡を受け取りました。南区の件、把握しています。一点だけ申し上げます——ランドルフ商会は、帝国との取引実績がある商会です。詳細は別途。」


レオノーラは、しばらくその三行を眺めた。


(ランドルフ商会が、帝国との取引実績を持っている)


それは、今日の調査の結果とどう繋がるのか。まだわからない。しかし、この情報を持っているということは——アドリアンは、ランドルフ商会という名前が出た時点で、何かを掴んでいる。


「……『詳細は別途』」


レオノーラは思わずその言葉を声に出した。


「何ですか、お嬢様?」とマリアが振り返った。


「いいえ、何でもありません」


彼女は書状を机の端に置き、しばらく考えた。


(これは追加の情報提供ですわ。なぜ、このタイミングで。なぜ、自分から——)


先の会合後に、アドリアンは「次の案件を注視する」と言った。それを実行しているということだ。ただ——注視するだけなら、情報を送ってくる必要はない。


(帝国王太子が、王国の内政問題に関わる情報をこちらへ提供している。これは、何を意味しているのかしら)


前回の書簡で「ただ、記録として」と書いた時の、あの奇妙な感覚を思い出した。あれは、合理的な理由が見つからない行動だった。今度は逆に、アドリアンの側が合理的な理由を説明しない形で情報を寄越している。


公平に考えれば、利害の一致という説明は可能だ。帝国との取引実績のある商会が王国内部の不正に関わっているとすれば、帝国にとっても情報価値がある。


しかしそれだけではない、という感覚が、どこかにあった。


(……今は、これを考えている場合ではありませんわ)


レオノーラは頭の中でその感覚を丁寧に棚の奥に押し込み、机の上の書類に向き直った。


──────


その夜、返信を書いた。


「書簡を受け取りました。ランドルフ商会が帝国との取引実績を持つという点については、当方の調査と照合する必要があります。詳細のご提供をお願いできますか。現在、財務局の予算記録との照合を進めており、来週中に追加の事実が確認できる見込みです。引き続き、記録として」


書き終えて、最後の五文字を見た。


「引き続き、記録として」


前回の「ただ、記録として」に、「引き続き」が加わっていた。それが何を意味するのかは、自分でも正確にはわからなかった。ただ、消す理由も見つからなかった。


(合理的な価値がないことは、わかっていますわ。ただ——)


その先の言葉は、今日は来なかった。


レオノーラは封をして、オットーに渡した。


「帝国の使節団に、明朝届けてください」


「……本日の返信は、何行でしたか」


「四行ですわ」


「前回は六行でございましたね」


「用件が短かったので」


「さようでございますか」老執事は、何も言わなかった。「御意でございます」


彼は一礼して、扉を閉めた。


──────


翌朝、オットーが南区の公共施設の一覧と、医療組合の事業報告書の写しを持ってきた。


「思いのほか、早く手に入りました」


「ありがとうございます」


レオノーラは報告書を開き、最初のページから読み始めた。


五分も経たないうちに、一か所で手が止まった。


「オットー」


「はい」


「事業報告書の第三項——『施設整備積立金』の項目を見なさい」


老執子が覗き込んだ。


「……昨年の積立額が、診療所の補助金の減額分と、ほぼ一致しています」


「一致しています。ぴったりではありませんが、誤差の範囲と見なせる程度の差です」


「では、補助金の減額分がそのまま積立金に回っている、ということですか」


「そう見えます。公金という川の流れを、自分たちのバケツへ強引に引き込んだ、ということですわ。ただ——」レオノーラは次のページをめくった。「この報告書には、積立金の運用方針として『信託運用』という記述があります。信託先の名前は書いていません」


「……信託先の名前が、あれば」


「追えますわ。ただ、この報告書には記載がない。公開資料の範囲では、ここまでです」


「非公開の部分を見るには、どうすれば」


「医療組合の内部記録を持っている人間に当たるか、あるいは——」レオノーラは少し考えた。「信託を受けた側から辿るか、ですわ」


「信託を受けた側」


「信託業者は、財務局への届け出が必要です。ランツ子爵に、もう一度お願いできるかどうか確認しなさい。信託業者の届け出記録の中に、医療組合を委託元とするものがないかどうか」


「わかりました。今日中に連絡を取ります」


マリアが眉を寄せながら小声で言った。「……お嬢様、なんかすごく複雑な話になってきてますよね」


「複雑ではありません」レオノーラは書類から目を上げずに言った。「お金が動く時には、必ず記録が残ります。その記録を一つ一つ辿っているだけです。複雑に見えるのは、動かした側が複雑に見えるように作ったからです」


「……なんで、そんなに複雑に作るんですか」


「見えにくくするためですわ。透明であれば、誰でも見られる。見えにくくすることで、気づかれる前に利益を確保できる」


「じゃあ、それを暴けば——」


「暴くだけでは十分ではありませんわ。仕組みを壊さなければ、別の誰かが同じことをする。今週はまず、仕組みの全体像を確かめます」


マリアは少しの間、それを考えていた。それから、目頭が赤くなった。


「……お嬢様」


「何ですか」


「なんでもないです。頑張ってください」


「いつも頑張っていますわ。あなたに言われるまでもありません」


レオノーラはそれだけ言って、次の書類を開いた。


──────


その日の夕方、ランツ子爵から短い返信が届いた。


「信託業者の届け出記録について、確認しました。医療組合を委託元とする信託は、三件登録されています。うち一件が——『ルドルフ・アセット管理組合』という名称の業者です。代表者名を確認しましたところ、ランドルフ商会の二代目当主と同一人物が名を連ねていました」


レオノーラはその一文を二度読んだ。


(補助金の差額が積立金に回り、積立金がランドルフ商会の関係者が代表を務める信託業者に信託されている)


これは、もはや仮説ではない。


構造が見えた。


「オットー」


「はい」


「ランドルフ商会の取引記録について、帝国側からの情報提供を正式にお願いしてください。昨夜の返信で要請は出しましたが、改めて優先度を上げた旨を付け加えた書簡を一通、今夜中に」


「かしこまりました。それと——南区の他の施設についても、同じ名目の積立金を確認しますか」


「確認します。ただし今週は、まず診療所の件の証拠の輪郭を確定させることを優先します。同じ構造が他にも存在するとすれば——それは来週以降の話ですわ」


「了解しました」


老執事は書類を手に取り、部屋を出た。


レオノーラは窓の外に目をやった。


王都の夕暮れが、西の空を染めていた。南区の方向に、小さな灯りが点々と見えた。


(構造は見えた。しかし、証拠はまだ揃っていませんわ。証拠のない仮説は、仮説のままです)


次の一手は、ランツ子爵からの信託記録の詳細を確認した上で決める。アドリアンからのランドルフ商会に関する追加情報も、早ければ明日か明後日には届く。


来週の月曜日までには、動ける材料が揃う見込みが立った。


それで十分だった。


彼女は書類を揃えて机に積み、蝋燭を一本だけ残した。


窓の外の南区の灯りは、今夜も小さかった。しかし確かに、そこにあった。


(まだ終わっていない。ただ——今日は、今日分だけ進みましたわ)


それだけのことが、今日の仕事の終わりだった。


(第九話 了)

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