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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第二章「王都の病は数字に宿る」

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第8話 悪役令嬢、現場を見る

王都南区は、朝の早い街だった。


 市場が開くより前から荷車が動き、子どもたちが路地を駆け抜け、洗濯物が窓から下がっている。賑やかというより、雑然とした活気だった。贅沢な賑やかさではなく、生きるための忙しさ、とでも言えばいいか。


 レオノーラは馬車の窓からそれを見て、短く言った。


「人口密度は資料の数字通りですわね」


「……はあ」とマリアが答えた。「確かめに来たんですか、それを」


「確かめるべきことが他にもありますわ」


 馬車が路地の入り口で止まった。ここから先は徒歩だ。オットーが先に降り、あたりを一度見回した。


「南診療所は、この路地を抜けた先でございます」


「参りましょう」

──────

 南区診療所は、外から見ると特別に貧しい建物ではなかった。ただ、くたびれていた。壁の漆喰が所々剥がれ、看板の文字が雨に滲んでいる。建て替えや大がかりな修繕が、ずいぶん長いこと後回しにされてきた建物の顔だ、とレオノーラは思った。


 入口に事前の連絡はしていない。オットーの調整で「侯爵家が視察に来る」という情報は一切流さなかった。レオノーラが見たいのは、準備を整えた現場ではなく、ありのままの現場だからだ。


 扉を開けると、待合の長椅子に七、八人が座っていた。


 老齢の女性。小さな子どもを抱いた母親。包帯を巻いた男。


 受付には若い女性が一人いた。レオノーラたちを見て、一瞬表情が変わった。上等な服装の人間が、ここに来るのは珍しいのだろう。


「どのようなご用件でしょうか」


「診療所の院長にお会いしたいのですが」レオノーラは静かに言った。「ヴァレンシュタイン侯爵家のレオノーラと申します。事前に連絡しなかったことはお詫びしますが、現場をそのままの状態で拝見したかったもので」


 受付の女性は少し躊躇した後、奥へ消えた。


 待合室で、子どもを抱いた母親がこちらをそっと見ていた。レオノーラはそれに気づき、小さく頷いた。母親は戸惑ったように目を逸らした。


(子どもは熱があるようですわね。頬が赤い)


 それを見て見ぬふりをするつもりはなかったが、今すぐ何かができるわけでもなかった。レオノーラは視線を戻し、待合室の内装を静かに観察した。


 薬棚。患者の記録台帳。備品の棚。


 棚の中身が、少ない。

──────

 院長のエドガー・グリム医師は、六十に近い年齢の人物だった。白髪交じりの髪と、疲れた目をしていた。ただ、その目には芯があった。くたびれてはいるが、折れてはいない目だ、とレオノーラは判断した。


「ヴァレンシュタイン侯爵令嬢がわざわざ……失礼ながら、何の目的で」


「書類を拝見したいのです」


 グリム医師は少し眉を上げた。


「書類、とは」


「診療所の収支記録。補助金の支出記録。それから、備品の発注記録と実際の在庫です」


「……それを、なぜ」


「医療組合から緊急の連絡を受けました。来月の閉所の可能性があると。数字を見れば、何が起きているかわかります」


 グリム医師はしばらくレオノーラを見た。試すような目ではなかった。何を信じていいか迷っている目だった。


「……侯爵令嬢は、私どもの味方ですか」


「まだわかりません」レオノーラは即答した。「数字を見てから判断します」


 その答えが、かえって効いたらしかった。医師は少し息をついてから、立ち上がった。


「こちらへ」

──────

 院長室の机には、何冊もの帳面と綴じられた書類の束があった。グリム医師がそれを広げ始めると、レオノーラは椅子を引いて座り、最初のページから静かに確認し始めた。


 マリアが控えに立つ。オットーが入口に立つ。


 部屋の中は、紙のめくれる音だけがした。


 わずかな沈黙の後、レオノーラが口を開いた。


「グリム先生、一つ確認させてください。昨年の六月から、補助金の月次支給額が変わっていますね」


「……ええ。減額されました」


「王都医療組合の予算配分の変更として通知が来たはずです。その通知文書は保管していますか」


「あります」医師は別の棚から一枚の文書を取り出した。レオノーラはそれを受け取り、素早く読んだ。

「……通知から施行まで一ヶ月。事務手続き上の瑕疵を通り越して、もはや悪意ある設計ですわね。診療所に代替案を考えさせる隙も与えない、卑怯なやり方ですわ」


「そうです。私どもは何度か医療組合に問い合わせましたが、『予算の都合』としか説明がなく」


「その問い合わせの記録は」


「こちらに」


 グリム医師が出した紙の束を、レオノーラは一枚一枚めくった。問い合わせの写し、返答の写し。返答の多くは定型文だった。


(問い合わせを六回。返答はいずれも『予算の都合による見直し』。具体的な根拠が何もない)


 彼女はそこで一度、手を止めた。


「先生、この補助金は王都医療組合から支出されていますが、組合の予算の原資は王国の財務局からの拠出金ですわね」


「はい」


「では財務局の予算書を確認すれば、組合への拠出総額がわかる。もし財務局からの拠出が減っていないのに、組合からの支給が減っているのであれば——」


「その分が、どこかへ流れているということですか」


 レオノーラは答えなかった。まだ断言する段階ではない。ただ、数字の歪みがどこにあるかは、輪郭として見えてきた。


「先生、お願いがあります。ここにある記録の写しをいただけますか。収支記録、補助金の支給通知、問い合わせの往復文書、全て。私が確認します」


「……本当に、調べてくださるのですか」


「数字がおかしい。おかしい数字は正さなければなりませんわ。それだけのことです」


 グリム医師はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと頷いた。


「……わかりました。写しを用意させます。少し時間をいただけますか」


「構いません」


 医師が部屋を出た後、マリアが小さな声で言った。


「お嬢様、やっぱり何かおかしいんですか」


「おかしいですわ。ただ、まだ全体が見えていません」


「誰かが、わざと補助金を減らしたということ?」


「そう断言するには材料が足りない。財務局の予算書と照合してから判断します」


「……でも、もしそうだったら」


「その時に考えます。まだそこではありませんわ」


──────

 写しの準備を待つあいだ、レオノーラは待合室に戻った。


 先ほどの、子どもを抱いた母親がまだそこにいた。順番待ちが長いのだろう。子どもは母親の肩にもたれて眠っていた。熱のある眠り方だ、と、レオノーラはわかった。


 受付の女性が困ったような顔で、こちらを見た。どうやら、患者の数に対して医師が今日は一人しかいないらしかった。


 レオノーラは受付に歩み寄った。


「今日の診療担当は何名ですか」


「本日はグリム先生お一人です。もう一人の先生が先週から体調を崩されていて」


「常時の担当医は二名ということですね。二名体制で、今日の待合患者は」


「午前だけで十三名、です」


「一名の医師で午前中に十三名を診る。それが常態ですか」


「……最近は、よく一人になりますので」


 レオノーラは少し考えた。


「わかりました」


 それだけ言って、彼女は視線を待合室の母親に移した。少しの間そちらを見てから、受付に戻った。


「あの方の次の番を、早めることはできますか。子どもの状態が、診療の優先順位を決定するファクトになり得ますわ」


 受付の女性が驚いたような顔をした。


「え……あ、はい、できます。少しお待ちいただければ」


「私の判断で、ではなく、医療上の判断でお願いします。私はただ、状態の観察を申し上げただけです」

「……はい」


 受付の女性は少し戸惑いながらも頷いた。

──────

 写しを受け取ったのは、一時間ほど後だった。


 グリム医師が丁寧に整えて束にした書類を、レオノーラはオットーに持たせながら言った。


「先生、もう一点だけ確認させてください。この診療所の建物は、誰の所有ですか」


「……賃借しております。建物の持ち主は、ランドルフ商会です」


 レオノーラはその名前を聞いて、内心で一度だけ記憶を引いた。


(ランドルフ商会。王都の不動産と商業に関わる中堅の商会。単独では特に目立たないが、医療組合の運営委員の一人がランドルフ商会の関係者だという話を、以前書類で見た記憶がありますわ)


「賃借料の支払いに遅延はありますか」


「……先月、少し遅れてしまいました。補助金の減額で資金が——」


「わかりました」レオノーラは静かに言った。「先生、もう少しだけ時間をください。調べなければならないことが出てきましたわ」


「……何が見えているのですか」


「まだ輪郭だけです。しかし、輪郭は見えてきました」


 グリム医師はしばらくレオノーラを見た。それから、疲れた目の奥に、何か微かなものが灯った。


「……よろしくお願いします、侯爵令嬢」

「お礼はまだ早いですわ。何かわかれば、またこちらに来ます」

──────

 馬車に乗り込んだところで、オットーが書類の束を慎重に荷の中に収めながら言った。


「お嬢様、ランドルフ商会、とおっしゃいましたが」


「知っていますか」


「以前、財務局絡みの案件で名前を見た記憶があります。直接の案件ではなく、別案件の関係者の欄でございましたが」


「財務局絡み、ですわね」レオノーラは少し目を細めた。「補助金の原資は財務局からの拠出。医療組合の運営委員にランドルフ商会の関係者。診療所の建物はランドルフ商会の所有。この三点が繋がっているとすれば——」


「補助金を減額した上で、診療所を賃料遅延で立ち退かせ、建物を別の用途に転用する、という絵が描けます」


「そういうことですわね。ただし、まだ仮説です」


「財務局の予算書と照合するということは、その仮説を確かめるために」


「ええ。ランツ子爵に連絡を取りなさい。財務局の医療関連予算の正式な拠出記録を見せてもらえるよう手配を。今週中に」


「かしこまりました」


 マリアがそっと口を開いた。


「……あの、診療所の子ども、大丈夫でしたか」


「先に診てもらえるよう手配しましたわ。その後のことは医師の仕事です」


「はい……でも、お嬢様が言ってあげたから」


「受付の方が動いてくれたから、ですわ。私は観察を申し上げただけのことです」


 マリアはまた目頭を熱くしてハンカチを取り出した。レオノーラはため息をついて窓の外に目を向けた。


(どうしてこの子は、些末なことでそう泣くのかしら)


 ただ、窓の外を流れる南区の街並みを見ながら、彼女は静かに考えていた。


 補助金の減額。診療所の疲弊。医師の不足。待合室の母親と、熱のある子ども。


 それらは別々の事実ではない。どこかで、意図的に繋げられた数字の話だ。


(おかしい数字は正す。それだけのことですわ。ただ——)


 この「ただ」の先が、今日はまだ見えていなかった。


──────

 屋敷に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 レオノーラは書類の束を執務室の机に広げ、収支記録から確認を始めた。数字を読むのは嫌いではない。数字は、人間の言葉と違って、意図的に飾ることができない。飾ろうとすれば、必ずどこかで歪みが出る。


 一時間後、彼女は一枚の紙に短いメモを書き付けた。


 補助金の減額幅と時期。問い合わせへの返答パターン。ランドルフ商会の関連情報。財務局予算書との照合が必要な数字の項目。


 そしてその下に、一行。


「組合内部に、意図的に動いている人間がいる可能性、高」


 オットーが紅茶を持って入ってきた。


「お嬢様、ランツ子爵への連絡は今夕にも取れる見込みです」


「結構ですわ。早い方がいい」


「……いかがでしたか、南区は」


「見るべきものは見ました」


「何か」


「数字の歪みが、一箇所ではありませんわ。補助金の流れと、建物の賃貸関係と、医療組合の意思決定——三点が不自然に重なっている。意図がなければ、こうはなりません」


「根は深いと」


「そうですわね。ただ」レオノーラは紅茶を一口飲んだ。「根が深くても、最初の一点を崩せば動く。その一点がどこかを、今週中に特定します」


「……かしこまりました」


 老執事は一礼して部屋を出た。廊下に出てから、彼は小さく息をついた。それは心配のため息ではなかった。


(南区の実態をその目で確かめた上で、翌日には動いている。全く、このお嬢様は)


 言葉にするには、少し種類の違う感情だった。


──────

 夜、レオノーラはアドリアンへの書簡を書いた。


 穀物協定の件と違い、これは帝国に関わる話ではない。ならばなぜ書くのか、と問われれば、正確には答えられなかった。


 ただ、あの帝国王太子は「次の案件を注視する」と言った。それへの、報告というよりは——記録、に近いものだった。


「本日、王都南区の診療所を視察しました。補助金の減額、建物の賃貸関係、医療組合の意思決定において、複数の数字の歪みを確認しました。財務局の予算記録との照合を今週中に行う予定です。利権の構造については、現時点では仮説の段階ですが、輪郭は見えています。これは王国の内政問題であり、帝国に対応をお願いする性質のものではありません。ただ、記録として」


 書き終えてから、最後の一行を少し眺めた。


(「ただ、記録として」。この六文字が持つ、報告書としての有用性はゼロですわ。)意味のない文字列を付け加えた自分に、レオノーラは指先の冷えを感じた。だが、その一行を消すだけの合理的な理由も、今の彼女は見つけられなかった。


 そのまま封をして、オットーに渡した。


「帝国の使節団に届けてください」


「……本日の分は、何行でございますか」


「六行ですわ」


「昨日は——」


「昨日は書いていません。今日が最初です」


「さようでございますか」


 老執事は一礼して部屋を出た。何も言わなかった。それが、彼なりの配慮だった。

──────

 翌朝、ランツ子爵からの返信が届いた。


「財務局の医療関連予算の拠出記録について、非公式での確認に応じる用意がある。明後日の午前はいかがか」


 レオノーラはそれを読んで、短く言った。


「明後日でいいですわ。返事を出しなさい、オットー」


「かしこまりました。それと——」老執事がわずかに間を置いた。「医療組合の運営委員名簿について、独自に少し調べましたところ」


「ランドルフ商会の関係者が委員に入っていることは把握しています」


「はい。それに加えまして、委員の一名が——王都の不動産業者の組合とも繋がりがある、という情報が出てまいりました。診療所は、氷山の一角に過ぎないかもしれません。南区という街そのものが、特定の誰かの搾取の型にはめられている。そのような薄ら寒さを感じます」


 レオノーラは少しの間、何も言わなかった。


「……診療所だけの話ではないかもしれませんわね」


「そう思われますか」


「南区の診療所は、氷山の一角である可能性がある。確かめなければなりませんわ」


 マリアが少し顔色を変えた。「それって、すごく大きな話になりませんか」


「可能性の話です。まだ確定ではありません」レオノーラは静かに言った。「ただ——」


「ただ?」


「おかしい数字は、一つだけということは稀ですわ。一つあれば、たいてい他にも歪みがある。そういうものです」


 彼女はそう言って、机の上の書類を引き寄せた。


「オットー、南区の他の公共施設——学校、井戸の管理組合、共同炊事場など、予算が組まれている施設の一覧を調べなさい。全部ではなく、まず施設の種類と数だけでいい。今週中に」


「かしこまりました」


「マリア、今日の午前は何が入っていますか」


「書類の査定が二件です。それと——」


「それが終わったら、南区の地図を取り寄せなさい。詳細なものを。施設の位置が入っているもの」


「……はい」


 マリアはそれだけ言って、そっと目頭を押さえた。レオノーラはそれを横目に見て、またため息をついた。


(何がそんなに感動的なのかしら。南区の地図を精査しているだけですわ)

──────

 その日の夕方、書類の査定を終えたレオノーラは、机の隅に昨日南区で書き付けたメモを置いて、少し眺めた。


「組合内部に、意図的に動いている人間がいる可能性、高」


 その下に、今日あらたに一行を足した。


「南区全体の公共予算に、同様の歪みがある可能性。今週中に確認着手」


 ランツ子爵との面談まで、あと二日。


 数字の歪みがどこまで広がっているかは、まだわからない。しかし、最初の一点が崩れ始めれば、連鎖は止まらない。


 レオノーラはそれを確かに知っていた。


(始まりましたわ。これは、穀物協定よりも泥臭い話になりそうですが——)


 彼女は小さく眉を寄せた。それは困惑でも、気後れでもなかった。


 ただの、仕事の始まりを確かめる顔だった。


 窓の外では、王都の夜が静かに広がっていた。


 南区の灯りは、王城の灯りより小さかった。しかし確かに、そこにあった。


(第八話 了)

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