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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第一章「帝国の王太子は誤解しなかった」

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第7話 悪役令嬢、終わらせる

正式会合の当日は、晴れていた。


 王都では珍しいことではないが、レオノーラにとってはどうでもよかった。天気が会議の結果を左右するわけではない。


「オットー、帝国使節団はすでに王城に入りましたか」


「本日の朝八時に到着されたとの報告が入っております」


「定刻通りですわね。有能な使節団です」


 レオノーラは鏡の前でグローブを着けながら、今日の段取りを頭の中で一度走らせた。


 午前十時、正式会合開始。王国側からは王太子カールが主席。帝国側はアドリアン王太子が直接出席する——これは当初の予定にはなかった。昨夜届いた帝国側からの連絡によれば、「修正案の内容に鑑み、直接確認が適切と判断した」とのことだった。


(アドリアン殿下が直接出席する。それは修正案を受け入れる意思の表れか、あるいは直接突き返す意思の表れか。どちらの可能性もある)


「お嬢様、今日もご出席されますか」レオノーラの正式会合への出席はあくまで「陪席」扱いだった。マリアが確認するように言った。


「出席します。ただし、私の役割は今日に限って言えば、話を聞くことですわ」


「話すことではなく?」


「準備は終わっています。あとはカール殿下とフォン・ブレナー次官が動く番です。私が余計なことをすれば、かえって邪魔になる」


 マリアは少し首を傾げた。「でも……何かあったら?」


「何かあれば、その時に考えますわ。今から心配しても、まだ起きていないことです」


──────


 王城の大会議室は、小会議室の倍の広さがあった。長い机を挟んで王国側と帝国側が向かい合う形式は、それだけで既に外交の圧力を帯びていた。


 レオノーラは王国側の末席に控えた。表向きは侯爵家の代理として出席する体裁だった。


 帝国側の席にアドリアンの姿を認めたのは、着席して一分も経たない頃だった。


 帝国王太子は、相変わらず静かだった。感情を表面に出さない種類の静けさで、室内を一度だけ見渡してから席についた。その視線がレオノーラの席の方向を通り過ぎた——ように見えた。確認する必要はなかった。


 カールが開会の言葉を述べた。やや緊張した声音だったが、それは仕方のないことだった。この席で何が決まるかを、彼は充分に理解している。


 最初の三十分は、これまでの交渉の経緯確認と条件の整理に費やされた。退屈な作業だったが、必要な作業だった。レオノーラは黙って聞いていた。


 そして、フォン・ブレナー財務次官が立ち上がった。


「王国側より、修正条件の提示をいたします」


 室内の空気が変わった。


 次官は資料を配りながら、西地区の農家影響試算の概要を簡潔に説明した。数字は正確で、説明は明快だった。先週の小会議室で見せた手の震えは、今日はなかった。


「以上の試算データを踏まえ、王国側は協定発効後五年間、特定品目の輸入量に上限を設ける猶予期間条項を修正条件として提示いたします。これは永続的な保護を求めるものではなく、農家の生産転換に必要な時間的猶予を確保するための期限付き移行措置です。王国側は帝国との穀物協定を誠実に推進する意思を有しており、今回の修正は協定破棄を意図したものではありません。この点を、帝国側にご理解いただけますよう申し上げます」


 沈黙。


 帝国側の交渉官たちが資料を確認する、紙のめくれる音だけが室内に響いた。


 レオノーラはその沈黙の中で、アドリアンの表情を一度だけ確認した。彼は資料を読んでいた。読みながら、僅かに顎を引いた——それだけだった。


(読んでいる。数字を見ている。それで十分ですわ)


──────


 帝国側が協議のために一時退席を求めたのは、次官の説明から二十分後だった。


 王国側の人間だけが残った室内で、カールは小さく息をついた。


「……フォン・ブレナー、よくやった」


「殿下……」


「数字は正確だった。説明は明快だった。それで十分です」


 次官は深く頭を下げた。


 カールがレオノーラの方を見た。


「令嬢は、帝国側の返答について、何か読めることはありますか」


「一つだけ」レオノーラは静かに言った。「アドリアン殿下は、試算データを最後まで読んでいました。途中で資料を置く、あるいは随行員に回すことなく。それは、数字を自分で検証する意図があるということです」


「それが……良い兆候ということですか」


「判断材料として提示されたものを、感情ではなく数字で確認しようとしている。それは誠実な交渉者の行動ですわ。結論はまだわかりません。ただ、拒絶を前提に動いているわけではないと、私は見ています」


 カールは頷いた。文官がせわしなくメモを取っていた。


──────


 帝国側が戻ったのは、退席から三十分後だった。


 アドリアンが口を開いた。


「王国側の修正提案について、帝国として回答します」


 室内が再び緊張した。


「猶予期間条項——協定発効後五年間の輸入量上限設置について、帝国は受け入れを検討できると判断します。ただし、いくつかの条件を付記した上でのことになります」


 レオノーラは表情を動かさなかった。ただ、指先が少しだけ静かになった。


「まず、五年の猶予期間中に、王国側は生産転換の進捗を定期的に帝国側に開示すること。これは監視ではなく、協定の趣旨——双方の利益を守るための誠実な情報共有として求めるものです。次に、猶予期間終了後の条件については、五年目に改めて協議の場を設けること。一方的な延長は認めませんが、状況に応じた再交渉の余地は残すということです」


 カールが静かに言った。「理解しました。王国側として、その条件は受け入れ可能です」


「では、修正案を交渉の正式な土台とすることで——」


「合意します」


 その言葉が室内に落ちた瞬間、微かに空気が変わった。


 劇的な変化ではなかった。誰かが立ち上がるわけでも、喝采があるわけでもなかった。ただ、長い膠着が終わったという静かな実感が、部屋の空気に染み込んだ——そういう種類の変化だった。


(終わりましたわ。今日の分は)


 レオノーラは手元の書類を静かに揃えた。


──────


 会合が正式に終了し、双方の参加者が談話に移る中で、レオノーラは早めに席を立とうとした。


 廊下に出たところで、声をかけられた。


「ヴァレンシュタイン令嬢」


 振り返ると、アドリアンが随行員を数歩後ろに残して立っていた。


 レオノーラは一礼した。


「アドリアン殿下、本日はわざわざのご出席、ありがとうございます」


「直接来た方が早いと思っただけです」彼はそう言って、わずかに口元を動かした。「……あなたの書簡は、毎回的確でした」


「事実を書いただけですわ」


「最後のものが七行でしたね」


「事実が増えましたので」


 アドリアンはほんの少し間を置いた。「四話にわたって、三行から七行に増えた。いずれも、予告した通りのことが起きた」


「偶然ですわ」


「そうは思いません」


 レオノーラは答えなかった。沈黙の方が、余計な言葉より正確だと判断した。


「令嬢、一つ確認させてください」アドリアンの声は変わらず静かだった。「今回の件で、あなたは王国のために動いた。帝国の利益のためでなく」


「そう申し上げたはずです。第三話の時点で」


「ええ。ただ、あなたが動いた結果として、帝国側の利益も守られた」


「合理的な条件であれば、双方の利益は必ず重なる部分がありますわ。その重なりを見つける作業をしたというだけのことです」


「……それを『ただの作業』と言える人間が、どれだけいると思いますか」


 レオノーラは少し考えた。


「いないとは思っていませんが、私の周囲では少数派のようですわね。困ったことです」


 アドリアンはまた少し間を置いた。


「次の案件が動き始めているそうですね」


 レオノーラは静かに目を細めた。「……どこでそれを」


「情報が仕事ですから」


「帝国の王太子殿下が、ヴァルティア王国の内政の細部にまで耳を立てていらっしゃるのは、少々過剰ではないですか」


「あなたが関わることは、細部ではないかもしれないと思っているので」


 返答に少しだけ詰まった。これは珍しいことだった。


「……殿下、それは何を意味していますか」


「今の段階では、まだ何も意味しません」アドリアンは真顔で言った。「ただ、もし次の案件でも王国側に問題が生じるようであれば——帝国として、協力できる余地があるかもしれない。その可能性だけ、申し上げておきます」


「……それは、今日の会合の成果を踏まえての、ということですか」


「ご判断にお任せします」


 レオノーラはアドリアンを見た。読めない。感情が表面に出てこない種類の人間は、たいてい読みやすいか読めないかの両極端だが、この帝国王太子は後者だった。


「殿下、帝国は今、ヴァルティア王国の内政問題にどこまで関与する意思がおありですか」


「協定が成立した王国が安定することは、帝国の利益になります。それ以上でも以下でもありません」


「合理的な回答ですわね」


「あなたに褒められるとは思いませんでした」


「褒めていません。ただ、正確だと言っています」


 アドリアンはそこで初めて、はっきりと笑った。声には出さない種類の笑い方だったが、それでも確かに笑った。


「では、令嬢の次の案件の動向を、引き続き注視させていただきます」


「……ご自由に、としか申し上げられませんわ」


「それで十分です」


 帝国王太子は一礼し、随行員の元に戻った。


 レオノーラはその背中を一瞬見送り、それから廊下を歩き始めた。


──────


 馬車の中で、マリアが珍しく口を閉じていた。


 しばらく経ってから、おずおずと言った。


「……お嬢様、アドリアン殿下と何をお話しになったんですか」


「次の話をしていましたわ」


「次の話?」


「今日の会合が終わった後のことですわ。それだけのことです」


「……でも、お嬢様の顔が、少し」


「少し、何ですか」


「……いつもより、考えていらっしゃるような顔でした」


 レオノーラは車窓に目をやった。


「いつも考えていますわ。それは変わりません」


「そうなんですけど、なんか……その……」


「マリア、意味のない言葉は発言しないようにしなさいと、以前から言っています」


「はい……すみません」


 マリアはしゅんとした。


 レオノーラは視線を窓の外に固定したまま、静かに考えていた。


(帝国王太子が次の案件を把握している。それが情報収集の結果なのか、それとも別の意図があるのか——今日の段階では判断材料が足りませんわ)


 ただ、一つだけわかっていることがあった。


 アドリアンは自分を「細部ではない」と言った。その言葉の重さを、レオノーラは正確に受け取っていた。受け取った上で、どう処理するかが決まっていなかった。


 それは、レオノーラにとって珍しいことだった。


──────


 屋敷に戻ると、オットーが書状を一通手に持って待っていた。


「お嬢様、医療組合より緊急の連絡が参りました。王都南区の診療所に関する予算問題が、思っていたより深刻な状況との由」


「どの程度ですか」


「来月には閉所の可能性があると」


 レオノーラは書状を受け取り、素早く読んだ。


「……なるほど。診療所の閉所は、南区の低所得層に直接影響が出ます。単なる予算問題ではなく、背後に利権の問題がありそうですわね」


「そう思われますか」


「数字の動きがおかしい。ここを見なさい」彼女は書状の一箇所を指した。「この時期に補助金が減額されているのは、偶然ではないと思います」


「どちらかに動かれる方が」


「まず現場を見ます。明日、南区の診療所に行きなさい。事前の連絡は不要です。何も準備させない方が、実態がわかりますわ」


「かしこまりました」


 マリアが少し心配そうに、けれどまた目頭を熱くして口を開いた。


「お嬢様、また南区の貧しい人たちのために、そこまで……」


「勘違いしないでちょうだい、マリア」


 レオノーラは冷淡に、机の上の書状を一瞥した。


「私は慈善事業をしているわけではありません。国が組んだ予算というシステムの中に、おかしな数字が紛れ込んでいるのが不愉快なだけですわ。美しくないものは排除する。それだけのことです」


(……そうおっしゃりながら、一番に動かれるのです、お嬢様は)


 マリアはまた胸を熱くしてハンカチを握りしめた。レオノーラは内心で深いため息をついた。


(この子の涙腺と、その翻訳フィルターは、一生理解できない気がしますわ)


「マリア、一つだけ言いますわ」


「はい」


「南区の診療所が閉まれば、具合の悪い子どもを連れた母親が、遠い診療所まで歩いて行かなければならない。それは、私には関係のないことですか」


 マリアはゆっくりと首を横に振った。


「……関係ある、と思います」


「ならば、やることはわかりますわ」


 レオノーラはそれだけ言って、書類を開いた。


──────


 その夜、執務室の窓から王都の灯りを眺めながら、レオノーラは一枚の紙の余白に短い書き付けをした。


 案件名。関係者。現状と課題の骨子。それだけの、事務的なメモだった。


 穀物協定は着地した。だが王国の問題は、それひとつではなかった。


(そうですわ。これは仕事の終わりではありません。ただ、次の仕事の始まりです)


 オットーが部屋を覗いた。


「お嬢様、そろそろお休みになられた方が」


「もう少しだけ」


「…………」


「何ですか、オットー。言いたいことがあるなら言いなさい」


「……いいえ、何も」老執事はかすかに口元を動かした。「ただ、今日は本当に——」


「オットー」


「はい」


「明日のために、休みなさい。あなたも仕事があるでしょう」


「……御意でございます」


 老執事は一礼して扉を閉めた。廊下を歩きながら、彼は一度だけ目を細めた。


(本当に、このお嬢様は)


 それは困惑でも、呆れでもなかった。


 言葉にするには、少しだけ種類の違う感情だった。


──────


 王都は夜もいつもと変わらなかった。


 馬車の音。遠い宿場の灯り。石畳の上の影。


 ヴァレンシュタイン侯爵家の執務室では、蝋燭がひとつ、長い時間をかけて燃え続けていた。


 帝国との穀物協定は、ひとまず着地した。


 それはよいことだった。それだけのことだった。


 次の仕事が、もうそこにあった。


(第七話 了)


※  ※  ※


第一章「帝国の王太子は誤解しなかった」 了

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