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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第一章「帝国の王太子は誤解しなかった」

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第6話 悪役令嬢、場を作る

金曜日の朝は、雨だった。


石畳を叩く雨音が、侯爵家の執舞室まで届いた。レオノーラは窓を一瞥し、それから手元の書類に視線を戻した。


雨が降ろうと、今日の予定は変わらない。


「オットー、フォン・ブレナー次官から連絡は?」


「本日の朝七時に、資料の準備が整った旨の伝言が参りました」


「予定通りですわね。午後の場は?」


「王城の小会議室を手配済みでございます。王太子殿下のご承認も取れております」


「結構。では午前中に書類を片付けますわ」


マリアが湯気の立つ紅茶を置きながら、おずおずと口を開いた。


「お嬢様……今日は、うまくいくでしょうか」


「うまくいく、とはどういう意味ですの」


「その……財務次官殿も、王太子殿下も、ちゃんとわかり合えるか、って」


レオノーラは羽根ペンを置き、少し考えた。


「『わかり合う』を目標にしていたら、たいてい失敗しますわ。今日の目標は、事実を同じ部屋にいる全員が確認すること。それだけです」


「事実を確認するだけで、解決するんですか」


「解決はしません。解決の土台ができるだけです。それで十分ですわ」


マリアはそれを聞いて、なぜか少し安堵した顔をした。


レオノーラにはその理由がわからなかったが、問うても答えが返ってくるとは思えなかったので、黙って書類を開いた。


──────


午後二時、王城の小会議室。


席についているのは四人だった。


王太子カール。財務次官フォン・ブレナー。そしてレオノーラ。それから、カールの側近として同席を求められた若い文官が一人、隅に控えていた。


帝国側の出席はない。これは王国の内部の話だ——少なくとも、今日のところは。


フォン・ブレナー財務次官は、分厚い資料の束を卓上に置いた。手が、わずかに震えていた。レオノーラはそれに気づいたが、何も言わなかった。


「殿下、本日はお時間をいただき、ありがとうございます。私が、穀物輸入協定の交渉において不適切な手続きを取ったことは事実です。その点については、まず深くお詫び申し上げます」


カールは静かに端切った。事前にレオノーラから話を聞いていたため、表情は穏やかだった。


「続けてください」


「はい。こちらが、私が独自に作成した西地区農家の影響試算です。協定が現行条件で成立した場合、三年以内に離農者が——」


次官が数字を読み上げるあいだ、部屋は静かだった。


カールは資料に目を落とし、眉をわずかに寄せた。文官はせわしなくメモを取っていた。


レオノーラは何もしなかった。聞いていた。それだけだ。


五分ほどで次官の説明が終わった。


「……この試算は」カールが静かに言った。「財務局の正式な試算とは異なりますね」


「はい。公式の試算は、全国の農家を平均値で計算しています。私の試算は西地区の実態に即して組み直したものです。中央が好む『綺麗な平均』は、時に地方の『泥臭い実態』を完全に消し去ってしまいます」


カールは息を呑んだ。突きつけられた数字の重みが、自身の視野の狭さを示していた。彼はわずかに隣のレオノーラを盗み見た。彼女は微動だにせず、ただ淡々と書類を眺めていた。この『現実』を王太子に突きつけるタイミングを、最初から測っていたのだ。


「なぜ、これを最初から正式に提出しなかったのですか」


次官は少しの間、口を閉じた。


「……殿下が協定の成立を強く望んでいらっしゃることは、存じておりました。この数字を持ち込めば、協定推進の妨害と受け取られると思い……」


「私が、そう判断すると思ったのですか」


「……はい」


カールはしばらく黙っていた。


レオノーラは口を挟まなかった。今は二人の時間だ、と判断した。


「フォン・ブレナー」カールはゆっくりと言った。「私が、正しい情報より協定成立を優先すると思っていたのですか」


「申し訳ありません」


「……私にも、責任があります」カールは視線を落とした。「あなたが言い出しにくい空気を、私が作っていた。それは認めます」


次官が顔を上げた。


「殿下……」


「ただ」カールは続けた。「次からは、言ってください。たとえ私が聞きたくない数字でも、それがあなたの正直な試算なら、私は聞かなければならない。それが私の仕事です」


部屋に、静かな空気が流れた。


文官のペンが止まっていた。


──────


資料の精査に三十分ほどかかった。


カールが数字を確認し、次官が補足説明をした。レオノーラは求められた時だけ口を開いた。三回だった。


一度目は、「西地区の試算に類似した事例として、隣国の農業政策調整の先例があります」と。


二度目は、「協定の猶予期間に関する条項を追加することは、帝国側も受け入れやすい形での修正になり得ます」と。


三度目は、「来週の正式会合に間に合わせるには、今日中に修正案の骨子を文書化する必要があります」と。


それ以外は、黙って聞いていた。


「侯爵令嬢」カールが言った。「猶予期間条項というのは、具体的にどのような形になりますか」


「西地区の農家が生産転換のための時間を確保できるよう、協定発効後五年間は特定品目の輸入量に上限を設けることを帝国側に要請する、という形が現実的かと思います。無期限の保護ではなく、期限付きの移行措置として提示すれば、帝国側も拒みにくい」


「帝国が受け入れるでしょうか」


「アドリアン殿下は、協定の成立を望んでいます。合理的な条件修正であれば、受け入れる可能性は高い。ただし、提示の仕方が重要です。西地区の試算データを誠実に開示した上で修正を求めれば、誠実な交渉として受け取られる。そうでなければ——」


「また疑われる、ということですね」


「そういうことです」


カールは少し考えてから、次官に向き直った。


「フォン・ブレナー、修正案の骨子を今日中に作れますか」


「……はい。夜までには」


「では夜に、もう一度集まりましょう。令嬢も、よろしいですか」


レオノーラはカールを見た。


「一点だけ確認させてください。夜の会合には、私は必要ですか」


「……必要だと思っています。ただ、令嬢のご判断に委ねます」


「財務次官殿が骨子を作り、殿下がご確認になれば、私が居なくとも形にはなります。ただ、帝国側への伝え方については——そちらは私が窓口になった方がいいかもしれません。アドリアン殿下との連絡は、既に私が取っていますので」


「ならば、参加を」


「わかりました。ただし二時間以内で終わらせてください。夜も書類が残っていますわ」


文官が思わず咳払いをした。カールは小さく笑った。


フォン・ブレナー次官は、誰にも気づかないように一度だけ目を伏せた。


レオノーラはそれを見ていたが、何も言わなかった。


──────


夜、再び小会議室に集まった四人は、二時間かけて修正案の骨子を確認した。


正確に言えば、一時間五十三分だった。レオノーラは時計を確認し、七分余ったことを確認した。


「帝国側への連絡は、今夜中にいたします。アドリアン殿下には、明朝の早い時間に使者を立てる方がよいかもしれません」


「わかりました。使者の手配は私が」カールが言った。「……令嬢、一つ聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「アドリアン殿下は、この修正案を受け入れると本当に思っていますか」


レオノーラはしばらく考えた。


「確実なことは言えません。ただ、あの方は数字と現実を見る方です。西地区の試算データは、帝国の交渉官にとっても無視できない根拠になる。そして、協定の破綻よりも修正の方が双方の利益になることは、数字が示しています。それで十分かと」


「令嬢は、殿下のことを信用しているのですか」


「信用ではなく、判断しています」


「……その違い、令嬢はいつも明確ですね」


「言葉は正確に使う方が、誤解が少ないですわ」


カールはそれを聞いて、少し苦笑した。以前にも同じ言葉を聞いた気がした。


「……令嬢は、最初から今日こうなると思っていましたか」


「いいえ」レオノーラは即答した。「こうなればいいと思っていましたが、こうなると確信していたわけではありません。人が関わることに、そこまでの確信は持てませんわ」


「正直ですね」


「必要のない嘘をつく習慣がないだけです」


会合はそこで終わった。


廊下に出ると、フォン・ブレナー次官がレオノーラに一歩近づいた。


「侯爵令嬢」


「何ですか」


「……ありがとうございます。今日、私が正面に立てたのは、あなたがいてくださったからです」


レオノーラは少し間を置いた。


「私は何もしていません。あなたが自分で資料を作り、自分で殿下の前に立ちました。私がいなくても、あなたはいずれそうしたはずです」


「……そうでしょうか」


「少なくとも、そう判断しています」


次官はまた黙った。それから、静かに頭を下げた。


「御意に」


彼は廊下の向こうへ歩いていった。


マリアが小声で言った。「お嬢様……次官殿、目が赤かったですよ」


「知っています」


「今回は見て見ぬふりをしなかったんですか?」


「しましたわ。彼の涙腺の緩みは、本日の議題である穀物輸入協定の修正案とは一切因果関係がありませんもの。無関係なノイズは視界に入らない仕様になっておりますの」


「……(やっぱりお嬢様は、次官殿のプライドを傷つけないためにあえて……っ!)」


マリアはまた目頭を熱くして、ハンカチを握りしめた。レオノーラは内心で深いため息をついた。


(この子の涙の閾値と、妙な翻訳フィルターは一生理解できない気がしますわ)


──────


その夜、レオノーラはアドリアンへの書簡を書いた。


今日はいつより少し長い——七行だった。


「本日、王国内部にて農家影響試算を含む修正条件の骨子が確認されました。西地区の実態データを正式な交渉材料として使用する方向で調整しています。協定発効後の猶予期間設置を条件追加として提示する予定です。明朝、王太子殿下より正式な使者をお送りします。来週の正式会合において、誠実な交渉を行う準備が王国側で整いつつあります。帝国側の引き続きのご協力をお願いいたします。なお、今回の経緯は王国の内政問題として整理されるべきものです。その点についても、事前にご確認いただけますようお願い申し上げます」


オットーが受け取りながら、今日も一言だけ言った。


「今日は七行でございますね」


「事実が増えましたから」


「御意でございます」


老執事は一礼して部屋を出た。廊下でまた、ほんの少しため息をついた。それはやはり、呆れではなかった。


書き物机に向かいながら、レオノーラは今日のことを静かに整理した。


フォン・ブレナー次官は正面に立った。カールは聞いた。修正案の骨子は形になった。来週の正式会合には間に合う。


(全て終わったわけではありませんわ。来週の会合で帝国側が修正案を受け入れるかどうか、それはまだわからない)


しかし、今日できることは今日やった。それで十分だった。


窓の外の雨は、いつの間にか上がっていた。


濡れた石畳に、王城の灯りが映っていた。


彼女はそれに気づかず、明日の書類を開いた。


──────


翌朝の朝刊には、珍しく何も載っていなかった。


レオノーラはそれを一瞥し、スープを一口飲んだ。


「今日は噂がありませんわね」


「昨日の件はまだ表に出ていないようで」とオットーが言った。


「そうですわね。表に出ないまま解決できれば、それが一番いい」


「……お嬢様、一点だけよろしいですか」


「何ですの」


「今回の件、相当な手間をおかけしました。アドリアン殿下への対応から、夜会での次官殿とのやり取り、王太子殿下との面談、昨日の会合……全て、お嬢様お一人で段取りをつけられました」


「大袈裟ですわ、オットー。私はただ、点在していた未処理のタスクを一本の動線に繋ぎ直しただけです。それに——」


「それに?」


「あなたも動いていましたわ。ランツ子爵への連絡、会議室の手配、使者の調整——あなたがいなければ動かなかった話が複数あります」


「それは私の仕事でございます」


「私がやったことも、私の仕事ですわ」


オットーはしばらく黙った。


「……そうですね、お嬢様」


それだけ言って、彼は一礼した。


マリアがそっと手を挙げた。「お嬢様、今日の予定は?」


「午前中は書類の査定が三件。午後は医療組合の予算確認の続きですわ。それが終わったら、来週の正式会合に向けた帝国側の反応待ちの間に、次の案件の下調べを始めます」


「次の案件、ってもう動いてるんですか?」


「常に複数の案件が走っていますわ。王国には問題が多いので」


マリアはため息をついた。それからこっそり笑った。


レオノーラ・フォン・ヴァレンシュタインは今日も変わらず、噂を気にせず、感謝に戸惑い、必要なことを順番に片付けていた。


来週の正式会合まで、あと六日あった。


それは彼女にとって、六日分の仕事があるということを意味していた。


ただそれだけのことが、今日も彼女の朝の始まりだった。


(第六話 了)

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