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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第一章「帝国の王太子は誤解しなかった」

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第5話 悪役令嬢、理由を聞く

朝の王都は、霧がかかる時間帯が短い。


日が昇れば石畳は乾き、市場には人が溢れ、馬車が行き交う音が路地まで満ちる。レオノーラはそういう朝が嫌いではなかった。世界が動いているという実感があるからだ。


王都財務局から二本裏に入った茶館「琥珀の燭台」は、官僚や財界人が好んで使う店だった。主人は余計な話をしない。それが理由だろう、とレオノーラは思っている。


「お嬢様、財務次官殿はすでにお見えです」


オットーが低く告げた。


「時間通りですわね。有能な方です」


彼女は入口で一度だけ手袋を直し、店の奥へ向かった。


──────


フォン・ブレナー財務次官は、窓際の席で紅茶を前にしていた。随行員はいない。それはレオノーラへの、ある種の意思表示だと受け取った。


「お待たせしました」


「いえ」と次官は立ち上がり、形式的に頭を下げた。「こちらこそ」


二人は向かい合って座った。マリアは入口近くのテーブルで待機させた。オットーは外だ。


最初の一分間は、互いに何も言わなかった。


財務次官が先に口を開いた。


「侯爵令嬢は、私が何者か、もうお調べになりましたか」


「ある程度は」


「では単刀直入に申し上げます」次官は紅茶のカップを指でゆっくりと回した。「私が関税免除の品目を追加したのは、協定を壊すためではありません」


「存じています」


次官はわずかに目を細めた。


「……ご存じだった?」


「最初からそう思っていましたわ。あなたは優秀な方だ。帝国の交渉官が見抜けない根拠を、わざわざ使うはずがない。つまり、見抜かれることを前提にして動いていた。そうでしょう?」


沈黙。


次官はカップを置いた。


「……侯爵令嬢は、交渉の場では怖い方だと聞いていましたが」


「怖い方ですわ」レオノーラは即答した。「ただ、今日は交渉ではなく確認に参りました。あなたの本当の目的が何か、聞かせていただきたいのです」


「聞いてどうなさるので?」


「判断材料にします」


「何の判断ですか」


「あなたが王国のために動いているのか、別の誰かのために動いているのかの判断ですわ。前者であれば、私はあなたの味方ができます。後者であれば、できません」


財務次官は長い間、レオノーラを見た。試すような目ではなかった。値踏みする目でもなかった。何か、別のものを確かめているような眼差しだった。


「……侯爵令嬢は、なぜ私を敵と判断しなかったのですか。あの夜会で」


「理由がなかったからですわ」


「それだけですか」


「それだけです。あなたが有能であることは知っていた。有能な人間が、壊すだけの行動を取るとは考えにくい。何かを守ろうとしているか、あるいは何かを引き出そうとしているか。どちらかだと思いました」


次官はそこで初めて、かすかに笑った。苦い笑いだった。


「……侯爵令嬢の評判は、悪女だと聞いています」


「そうですわ」


「なぜそういう方が、私の事情を慮るのですか」


「慮っているわけではありません」レオノーラは静かに言った。「ただ、事実を確認したい。それだけのことです」


──────


フォン・ブレナー財務次官が話し始めたのは、それから少しの沈黙の後だった。


「侯爵令嬢は、王都西地区の穀物集荷組合をご存じですか」


「知っています。小規模農家が中心の組合ですわ」


「今回の帝国との穀物協定が成立した場合、輸入穀物との価格競争が生じる。大規模農家は耐えられる。しかし西地区の小農家は——」


「生産コストが合わなくなる可能性がある」


「そうです」次官は頷いた。「宮廷の公式試算では、協定はプラスとされています。しかし私が独自に計算した数字では、西地区に限って言えば、三年以内に離農者が相当数出る見込みがある。そうなれば王都への人口流入が加速し、別の問題が起きる」


レオノーラは黙って聞いていた。


「私が要求した免除品目のうち、追加した三種は、その西地区で主に栽培されているものです。帝国側が拒否すれば、それを口実にして協定条件全体の再検討を求めることができる。協定を壊したいのではなく——」


「交渉テーブルをもう一度、引き直したかった」


「……そういうことです」


沈黙。


レオノーラは窓の外を少し見た。石畳を馬車が通り過ぎていく。


「次官殿、一つ確認させてください」


「どうぞ」


「その懸念を、王太子殿下にはお伝えになりましたか」


「……殿下は、協定成立を望んでいらっしゃいます。私の計算を持ち込めば、協定推進の妨害と受け取られる恐れがあった」


「直接話していない、ということですわね」


「はい」


レオノーラはそこで少しだけ目を伏せた。


(善意の王太子と、独自に動く側近。ここにも同じ構図がありましたわ)


「次官殿」


「はい」


「あなたの懸念は正しい。西地区の小農家への影響は、試算より深刻になる可能性もあります」


次官は少し驚いた顔をした。


「侯爵令嬢も、そう思われますか」


「ええ。ただ——」彼女は指を一本立てた。「方法が間違っていましたわ。あなたが問題を隠した形で動いたことで、協定全体への不信を帝国側に与えてしまった。帝国の交渉官があなたの意図を見抜いたとしても、その上で『王国は交渉を誠実に行う気がない』という判断を選ぶ可能性がある。そうなれば、あなたが守りたい農家は守れません」


「……では、どうすれば」


「正面から交渉しなさい」


レオノーラは静かに、しかしはっきりと言った。


「西地区の試算データを持って、王太子殿下と帝国側の両方に提示する。協定を壊したいのではなく、農家を守りたいのだ、と。それを言える場を、私が作ります」


「……侯爵令嬢が、ですか」


「私はヴァレンシュタイン侯爵家の次期当主です。その程度の場を作る力はありますわ。ただし——」


「条件があるのですか」


「あなたが正式な形で、西地区の試算を資料として提出すること。私の名前を使って動くのではなく、財務次官として正面に立つこと。それだけです」


次官は長い間、テーブルの上に視線を落としていた。


「……私が正面に立てば、王太子側近としての立場が、複雑になります」


「わかっています」


「それでも、そう言うのですか」


「あなたが作った問題は、あなたが正面に立って解かなければ、本当には解けませんわ」


また沈黙。


レオノーラは紅茶を一口飲んだ。ぬるくなっていた。それには特に何も言わなかった。


次官はやがて、ゆっくりと頭を上げた。


「……承知しました。資料は明日中に整えます」


「それで十分です」


「しかし侯爵令嬢、一つ伺ってもよいですか」


「どうぞ」


「なぜ、私の話を信じたのですか。私は協定妨害の疑いをかけられていた人間です。あなたには、私を排除する方が簡単だったはずです」


レオノーラはしばらく考えた。


「信じたわけではありませんわ」


「では——」


「正しい可能性がある、と判断した。それだけのことです。信じるというのは感情の話です。私は判断の話をしています」


財務次官はまた黙った。それから、ごく小さく息をついた。


「……侯爵令嬢は、本当に変わった方ですね」


「よく言われますわ。では、明日中に資料をお送りください。場は金曜日の午後に設けます」


「金曜は——正式会合の前日では」


「だから金曜なのです。前日に資料が出れば、正式会合の議題に組み込む時間的余裕がある。ぎりぎりですが、不可能ではありませんわ」


次官は一拍おいてから、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます、侯爵令嬢」


「お礼はまだ早いですわ。金曜日が終わってからにしてください」


レオノーラは立ち上がり、軽く頭を下げた。


「では失礼します。午後に王太子殿下とお話しする約束がありますので」


「……王太子殿下と?」


「前日に資料が出るということを、事前にお伝えしておく必要があります。殿下が驚いて場を混乱させると、収拾が面倒ですもの」


次官は一瞬、言葉を失った様子だった。


「……それは、私が話すべきことでは」


「最終的にはそうなりますわ。ただ、最初の衝撃を和らげるための一手は必要です。それが私の仕事になります。あなたが正面に立つために、土台は整えますわ」


彼女はそう言い残して、茶館を出た。


──────


外でオットーが待っていた。


「お嬢様、いかがでしたか」


「想定通りですわ。ただ、思っていたよりも、あの方は誠実でした」


「誠実な方だったのですね」


「誠実だからこそ、問題を複雑にしてしまったのですわ。正直な人間が裏から動くと、かえって話が歪む。よくある話です」


オットーは静かに頷いた。


「次は、王太子殿下にご連絡を?」


「ええ。午後に時間をいただけるよう、宮廷側に打診しなさい。正式な謁見ではなく、非公式な面談で構いません。三十分いただければ十分ですわ」


「かしこまりました」


馬車が動き出す前に、マリアが控えめに言った。


「お嬢様……次官殿、最後に少し、目が赤くなっていませんでしたか」


「気づいていましたわ」


「それは……」


「見て見ぬふをするのが、今の場面では適切でしたわ。あの方のご苦労は本物です。それを指摘する理由が私にはありませんもの」


マリアは少し目を潤ませた。


レオノーラは窓の外に目をやりながら、小さく眉を寄せた。


(なぜこの子は、毎度泣くのかしら。本当に理解できませんわ)


──────


午後、王城の一室でカールと向き合ったレオノーラは、財務次官の事情を簡潔に伝えた。要点だけを、感情を排して、事実として。


カールはしばらく黙っていた。


「……フォン・ブレナーが、西地区の農家を守ろうとしていた」


「そういうことです」


「私は、彼が協定を潰そうとしていると思っていた」


「殿下がそう思われるのは無理のないことですわ。行動だけ見れば、そう見えます」


「では、なぜ令嬢はそうは思わなかったのですか」


「なぜかしら」レオノーラは少し考えた。「動機を、考えたからですわ。有能な人間が愚かな手段を使う時は、たいてい愚かなのではなく、他に方法がなかったのです。だから、なぜその手段を選んだかを考えた。それだけのことです」


カールは視線を落とした。


「……私は、それができなかった」


「殿下が王太子であるからです」


「どういう意味ですか」


「権力のある立場の方は、動機を考えるより先に、行動の影響を判断しなければならないことが多い。それは仕方のないことですわ。私はその立場にない分、考える時間がある。役割の違いです」


カールはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。


「令嬢は……私を庇っているのですか」


「庇う必要はありませんわ。ただ、正確に言いたいのです。殿下が間違っていたのではなく、情報がなかった。情報があれば、殿下は正しく動けます。それを信じているから、今日こうしてお話しています」


カールは何も言わなかった。しばらくの沈黙の後、静かに言った。


「……令嬢は、私に好意的ではないと思っていました」


「好意的かどうかは、関係ありませんわ」


「関係ない?」


「私は殿下が好きでも嫌いでもありませんもの。ただ、殿下が正しく動けば、王国が良くなる。それは事実です。だから必要な情報をお伝えします。それだけのことですわ」


カールはまた少し沈黙した。


レオノーラは立ち上がった。


「金曜日の午後、財務次官殿が資料をもって正式にお話しにあがります。その場では、殿下は驚かずに聞いてくださいますか」


「……驚かずに、というのは」


「あの方は、勇気を出して正面に立とうとしています。その場で殿下が感情的に反応されると、あの方が萎縮します。あの方の誠実さに、まず耳を傾けてくださればそれで十分ですわ」


「わかりました」とカールは言った。「……令嬢は、フォン・ブレナーのことを信頼しているのですね」


「信頼ではなく、正当な評価をしているだけです」


「……その違いを、令嬢はいつも明確にするのですね」


「言葉は正確に使う方が、誤解が少ないですわ」


レオノーラは礼をして、部屋を出た。


──────


廊下を歩きながら、マリアが小声で言った。


「お嬢様……王太子殿下、最後に少し、目が潤んでいましたよ」


「知っています」


「また気づいていたんですね。それで何も言わなかったのですか」


「言う必要がありませんわ。殿下には殿下のご事情がある。私が触れるべきことではありません」


マリアは少し黙ってから、ぽつりと言った。


「お嬢様って……本当は、すごく優しいと思います」


レオノーラは歩みを止めなかった。


「違いますわ。ただ、必要のないことをしないだけのことです」


「でも——」


「マリア、必要のないことをしない、というのは、別の言い方をすれば、必要なことはする、ということですわ。それ以上でも以下でもありません。過大評価しないでください」


マリアはまた目を潤ませた。


レオノーラはため息をついた。


(この子は、一生そうなのかしら)


──────


その夜、執務室で書類に向かいながら、レオノーラはアドリアンへの簡潔な報告書を書いた。昨日の三行より、今日はもう少し長い——とはいえ、五行だった。


「問題の背景を確認しました。妨害ではなく、農家保護のための独自判断でした。金曜日に正式な資料提出の場を設けます。来週の正式会合には、修正された条件と、農家問題を含む追加議題が提出される見込みです。帝国側の引き続きの待機をお願いします」


オットーがそれを受け取りながら、珍しく少し迷う様子を見せた。


「お嬢様、先日より文が一行増えていますが」


「事実が増えましたから、行も増えましたわ。何か問題が?」


「いいえ、何も」


老執事は一礼して部屋を出た。廊下に出たところで、彼はほんの小さくため息をついた。


(事実が増えれば行が増える、か。全く、この令嬢は)


それは呆れのため息ではなかった。


どちらかと言えば、安堵に近かった。


──────


翌朝の朝刊には、また新しい噂が載っていた。


「ヴァレンシュタイン令嬢、王太子殿下と密談か 帝国との関係に新展開の予感」


レオノーラはそれを一瞥し、トーストをひと口食べた。


「燃やしなさい」


「昨日と同じご指示でございますね」とオットーが言った。


「内容が違っても、対応は変わりませんわ。読む価値がない点は同じですもの」


「ごもっともでございます」


マリアがそっと手を挙げた。


「あの……お嬢様、今日も予定が詰まっていますか」


「午前中は書類の査定。午後は医療組合の予算確認。夕方には金曜日の場の手配を確定させなければなりませんわ」


「……お嬢様って、いつ休んでいるんですか」


「夜に寝ていますわ」


「それだけですか」


「それで十分です」


マリアはまたため息をついた。それからこっそり微笑んだ。


レオノーラ・フォン・ヴァレンシュタインは今日も変わらず、噂を気にせず、人の涙に戸惑い、必要なことを淡々と片付けていた。


金曜日は、もうすぐそこに来ていた。


(第五話 了)

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