第4話 悪役令嬢、動かす
ランツ子爵からの返事は、翌朝七時四十八分に届いた。
レオノーラは書類の整理を終えていた。紅茶はすでに二杯目だった。
「お嬢様、ランツ子爵より文が参りました」
マリアが差し出した封書を開けると、中には一枚の紙が入っていた。几帳面な筆跡で、短くこう書いてある。
「数字が合いません。本日午前中にご連絡を」
「やはり」
レオノーラは紙を折り畳み、机の引き出しに入れた。
「オットー、ランツ子爵に十時で都合がよいか確認しなさい。場所はここではなく、宮廷財務局の近くの茶館にしてください」
「茶館でございますか? 侯爵家の方が——」
「財務局の数字の話をするのに、ヴァレンシュタイン侯爵家の屋敷に呼びつけたという事実だけで、周囲に余計な憶測を与えます。あの方の立場を考えなさい」
「……御意でございます」
オットーは一礼して部屋を出た。廊下に出た後、彼は小さく息をついた。
(相手の立場を考える、とおっしゃるのですよ、お嬢様は。自分が悪女だとおっしゃりながら)
老執事は、この矛盾をもはや驚きとは呼ばなかった。日常と呼んでいた。
──────
午前十時、王都中心部の茶館「銀の葉」の奥まった席で、ランツ子爵はレオノーラの向かいに座り、懐から折り畳んだ紙束を取り出した。
「侯爵令嬢、これをご覧ください。穀物協定の交渉に関連した財務局の内部試算書です。正式な書類ではなく、あくまでも担当官が手元で管理しているものですが……」
レオノーラは紙を受け取り、黙って読んだ。三分間、彼女は一言も発しなかった。
「……関税免除を要求している品目が、六種類から九種類に増えていますわね。三ヶ月前の記録と比べると」
「はい。私も昨日気づきました。もともとの交渉条件には含まれていなかった品目が、いつの間にか追加されています。しかも、追加のタイミングが——」
「帝国王太子殿下の来訪が決まった直後、ですわね」
ランツ子爵は静かに頷いた。
「誰が追加したか、わかりますか」
「担当官の名前はこちらに」子爵は別の紙を差し出した。「ただ、この方は……少々複雑な立場でして」
レオノーラは名前を見た。
「フォン・ブレナー財務次官」
「王太子殿下の側近筋と、深い繋がりがございます」
沈黙。
レオノーラは紅茶を一口飲んだ。カップを置く音だけが響いた。
(なるほど。王太子の周辺が穀物協定を壊そうとしている……いいえ、必ずしもそうとは限りませんわ。善意による失策である可能性もある)
「ランツ子爵、一つ伺います。この財務次官は、無能な方ですか」
「いいえ。優秀です。だからこそ……」
「わかりました」
優秀な人間が、帝国の受け入れられない条件を追加した。しかも来訪直後という絶妙なタイミングで。これは無知でも失策でもない。意図がある。
「この書類は、私が預かってよろしいですか」
「それを持ってこちらに参った理由がそれでございます」
子爵は頭を下げた。レオノーラは書類を丁寧に折り、袖口の内側へ収めた。
「ランツ子爵、あなたはこれからしばらく、この件についてご存じないという体で動いてください」
「……私が関わっていたことは、消すのでございますか」
「消しません。ただ、表に出すタイミングを私が決めます。その前に動いていただくと、かえって話が複雑になりますわ」
「御意に」
子爵はまた頭を下げ、茶館を後にした。
──────
問題は、フォン・ブレナー財務次官をどう動かすか、だった。
正面から指摘すれば、相手は身構える。王太子側近との繋がりを盾にされれば、表向きの解決は難しくなる。かといって、放置すれば協定交渉は来月には完全に決裂する。帝国側がすでに離席を検討し始めているという情報も、オットーが掴んでいた。
(直接動くより、気づかせる方が早いですわね)
レオノーラは屋敷に戻りながら、頭の中で整理をした。
財務次官が意図を持って条件を追加したとしても、それが「王国の正式な立場」として定着していなければ、まだ修正の余地がある。問題は、この条件が正式な交渉文書に反映される前に動けるかどうかだ。
「オットー、宮廷の交渉日程を確認しなさい。次の正式会合はいつですか」
「来週の火曜日でございます」
「四日ありますわね。充分です」
「何をなさるおつもりで?」
「まず財務次官と話をします。ただし、直接ではなく」
「……間接的に、でございますか」
「今夜、アレクサンドラ伯爵夫人の小夜会がありますわね。財務次官も出席するはずです」
「確かにございます。ただ、お嬢様は今月の夜会は全てお断りになるとおっしゃっていましたが——」
「予定が変わりましたわ。出席の旨を連絡しなさい。遅い時間で構いません」
マリアが控えめに手を挙げた。
「あの……お嬢様、アレクサンドラ伯爵夫人のご夜会には、王太子殿下もいらっしゃると聞いたのですが」
「知っています」
「それでもよろしいのですか?」
「むしろ好都合ですわ」
マリアとオットーは、互いにちらりと視線を交わした。このお嬢様が「好都合」とおっしゃる時は、たいてい話が大きくなる。
──────
アレクサンドラ伯爵夫人の小夜会は、名称こそ「小」とついているものの、実態は中規模の社交の場だった。こういう席に出席する貴族は多く、主催者の伯爵夫人が社交界の情報の要所に位置していることもあって、様々な立場の人間が集まる。
レオノーラが到着したのは夜も更けた時刻だった。多くの客が食事を終え、歓談の時間に入っていた。
入室した瞬間、空気が変わった。それはいつものことだったが、今夜は少し様子が違った。視線の向き方が、普段の「悪役令嬢を見る目」ではなく、何かを警戒する目だった。
(帝国王太子と密会したという噂が広まっているせいですわね。面倒なことです)
レオノーラはそれを完璧に無視し、アレクサンドラ伯爵夫人に挨拶した。夫人は五十代の社交界の重鎮で、レオノーラを一見して微笑んだ。
「ヴァレンシュタイン令嬢、いらっしゃるとは思っておりませんでしたわ」
「少し話したい方がいらっしゃいましたので」
「まあ。誰かしら」
「夫人もご存じの方ですわ。ただ、特別な夜ではなく、何気ない席でお話しできればと思っていますの。夫人のお席にご一緒させていただいてよろしいかしら」
伯爵夫人は少し瞳を細めた。この令嬢が「何気ない席で」と言う時は、何かを仕掛けている。長年の社交界経験がそう告げていた。
「もちろんですわ」
夫人は笑顔で答えた。
──────
王太子カールは部屋の中央で、いつものように温かく人々に囲まれていた。
レオノーラと目が合った。彼はわずかに表情を固くした。この二人は仲が悪いわけではない。ただ、お互いの存在が「面倒なもの」であることを、双方が熟知していた。
しばらくして、カールがこちらに近づいてきた。礼儀として話しかけないわけにはいかない立場だったのだろう。
「ヴァレンシュタイン令嬢、今夜は珍しいですね」
「夜会は嫌いではありませんわ。ただ、必要のない時は出ないだけのことです」
「今夜は必要があって?」
「ええ」
レオノーラは短く答えた。カールはその答えを受けて、少し考えるような顔をした。この令嬢は無駄なことを言わない。「ええ」の一言で話を終わらせたということは、それ以上話す気がないということだ。
「……帝国王太子殿下と話したそうですね」
「噂を信じているのですか、殿下は」
「信じているわけではありませんが、気になりはします」
「では正式に確認なさいませ。私は隠すつもりがありませんもの」
カールはしばらくレオノーラを見ていた。
「……なぜいつも、そんなに面倒なのですか」
「私が面倒なのではなく、殿下が回り道をなさるのですわ。正面から聞けば正面から答えます。それだけのことです」
カールは一度目を伏せ、それから静かに言った。
「穀物協定の件、ですか」
レオノーラは少し驚いた。気配には出さなかったが。
「……殿下も、知っていらっしゃるのですね」
「フォン・ブレナーが条件を追加していることは聞いています。ただ——」彼は少し声を低くした。「私には、止める権限がない」
「権限が、ない?」
「財務次官の任命権は父王にあります。私が口を出せば、越権になる。しかし放置すれば協定が壊れる。どうすればよいか……正直、わかりません」
レオノーラはカールを見た。この王太子は善意の人間だ。問題は善意だけでは動けない仕組みにある、と彼女は改めて思った。
「殿下、一つだけ確認させてください。フォン・ブレナー財務次官は、殿下の意向で動いていますか」
「……違います」カールは明確に言った。「彼は彼自身の判断で動いています。私は協定を成立させたい。それは本心です」
「わかりました」
レオノーラは短く言い、カールから視線を外した。
(善意の王太子と、独自に動く側近。よくある話ですわ)
「殿下は、今夜ここに留まってください。何もなさらなくて構いません」
「……何をするつもりですか」
「話をするだけです」
──────
フォン・ブレナー財務次官は、部屋の片隅で数人の財界人と歓談していた。五十代の、いかにも有能そうな顔をした男だ。レオノーラは彼のことを以前から知っていたが、直接話したことはなかった。
彼女はアレクサンドラ伯爵夫人と共に、その一団の近くに移動した。夫人の社交力で自然に会話が広がり、三分もしないうちに財務次官も同じ話の輪に入っていた。
「ヴァレンシュタイン令嬢は、経済の話がお得意とか」財務次官が言った。社交的な笑顔だったが、目は笑っていなかった。「帝国との協定にもご興味がおありですか」
「侯爵家の次期当主ですもの。王国の農業事情には関心があります」
「ほう。ではご存じかもしれませんが、帝国との穀物協定は、実は複雑な問題を孕んでいまして。我が国の農業を守るためには、相応の条件交渉が必要なのですよ」
「どのような条件でしょうか」
「関税の問題ですね。特定品目について帝国側に免除を認めれば、長期的に我が国の農家が圧迫される。ですから——」
「先月の時点で、その品目は六種類でしたわね」
財務次官の言葉が止まった。
「今月は九種類に増えているようですが、追加された三品目は、我が国の農家が現在生産していない作物ですわ。関税免除を拒む理由として使うには、少々無理がある根拠かと」
周囲の会話が、自然に遠くなった。伯爵夫人がさりげなく話題を変えて、他の者を引き離していた。
財務次官とレオノーラだけが残った。
「……どこで」
「数字を見れば、誰でもわかることですわ」レオノーラは静かに言った。「次官殿、私はあなたを責めているわけではありません。ただ——」
「なんです」
「あなたの目的が何であれ、この方法では協定を壊すことにしかなりません。そして協定が壊れた場合、最初に困るのは王都の食料価格に直結する庶民層です。あなたはそれを意図していますか?」
財務次官は何も言わなかった。
「もし帝国側の別の条件に不満があるなら、その品目を正面に出すべきです。追加された三種類の品目を交渉材料として使うには、論拠が薄い。帝国側の交渉官は優秀ですから、すぐに見抜きます。見抜いた上で、王国側の信用を問題にしてくるでしょう」
「……令嬢は、帝国の側ですか」
「違います。王国の側です」
彼女は静かに、しかしはっきりと言った。
「王国のためになる協定を成立させたい。ただそれだけです。次官殿にも、同じ目的があるはずだと私は思っています。方法の問題であれば、まだ修正できる。来週の正式会合までに、私に相談してくださいますか」
長い沈黙。
フォン・ブレナー財務次官は、ゆっくりとグラスを持ち直した。
「……ヴァレンシュタイン令嬢は、なぜ私が正面から話せると思うのですか」
「あなたが優秀だからです」レオノーラは即答した。「優秀な人間は、理が通れば動きます。感情ではなく、現実に」
財務次官はまた黙った。それから、ごく小さく息をついた。
「……明後日の朝、財務局近くの茶館でよければ」
「それで十分ですわ」
レオノーラは短く頭を下げ、その場を離れた。
──────
帰り際、廊下でカールが待っていた。
「……終わりましたか」
「取り掛かりが終わっただけですわ」
「フォン・ブレナーと話しましたね。彼は……」
「明後日、改めて話します。うまくいけば、来週の正式会合には修正された条件で臨めるかと思います」
カールは少し息を飲んだ。
「どうやったのですか」
「話しただけです。数字と、現実の話を」
「それだけで……」
「殿下、人は責められると守りに入ります。でも、理が通れば動きます。フォン・ブレナー次官は有能な方です。問題は彼の能力ではなく、目的の設定の誤りにあった。それを伝えただけのことです」
カールはしばらくレオノーラを見ていた。
「……あなたは、なぜそれができるのですか」
「何がですの」
「責めずに、ただ事実を見る。それが」
「人を責めることに意味がないからです」レオノーラは淡々と言った。「責めても過去は変わりません。変えられるのは、これからだけです。それだけのことですわ」
カールは何も言わなかった。言葉が出てこないようだった。
「では失礼します。書類が残っていますので」
レオノーラは歩き出した。背後でカールが静かに呟いたのを、彼女はおそらく聞いていない。
「……本当に、わからない人だ」
──────
馬車の中でマリアが、珍しく興奮した様子で言った。
「お嬢様、さすがです! 財務次官があんなに早く……それに王太子殿下も!」
「さすが、とは何ですの」
「うまくいったじゃないですか、全部!」
「まだ何もうまくいっていません。明後日の話し合いが本番ですわ。今夜は、話し合いの場を設けられたというだけのことです」
「でも……」
「マリア、一つ覚えておきなさい。物事は最後まで終わらなければ終わっていません。途中で喜ぶのは、終わってからにしなさい」
「……はい」
マリアはしゅんとしたが、すぐにまた口を開いた。
「でも、お嬢様は絶対にうまくやると、私は思っています」
「……その根拠は何ですか」
「お嬢様が、いつもそうだからです」
レオノーラは少しの間、返答に詰まった。褒められる、という局面は、何度経験しても慣れなかった。
「……根拠になりませんわ。では明後日に備えて休みなさい」
「はい!」
馬車が夜の石畳を走る。
レオノーラは車窓に目をやり、今夜の会話を頭の中で整理した。フォン・ブレナー次官の動機は、まだ完全には見えていない。明後日の話し合いで明らかになるだろう。カールが本当に協定を望んでいることは確認できた。それは使える事実だ。
(あとはアドリアン殿下に、状況を簡単に伝えておく必要がありますわね。帝国側がこちらの動きを知らないまま離席の判断をしてしまうと、すべてが無駄になる)
彼女は羽根ペンを取り出し、車内の揺れの中でも乱れない文字で、簡潔な書簡の草稿を書き始めた。
「お嬢様、揺れますが……」
「慣れていますわ」
マリアはため息をつき、それから小さく微笑んだ。
──────
翌朝、帝国使節団の宿舎に一通の書簡が届いた。
宛名は「アドリアン殿下 親展」。差出人はヴァレンシュタイン侯爵令嬢。
内容は三行だった。
「問題は特定しました。来週の正式会合までに修正される見込みです。帝国側には現時点での離席を控えていただけますよう、お願い申し上げます」
アドリアンはその書簡を読み、しばらく考えた後、随行員を呼んだ。
「離席の準備は一時保留にしておけ」
「よろしいのですか? 王国側の動きが——」
「信用できる情報だ」
随行員は首を傾げたが、口には出さなかった。
アドリアンは書簡を折り畳みながら、かすかに口元を動かした。
(三行で事足りる、か。確かに、それ以上の言葉は要らない)
窓の外で、ヴァルティア王国の秋の朝日が、王都の石畳を金色に染めていた。
その頃、ヴァレンシュタイン侯爵家の執務室では、レオノーラがすでに今日の書類の一枚目を開いていた。
傍らに積まれた書類の山は、昨日より少しだけ低くなっていた。
ただそれだけのことが、彼女にとっては今日の仕事の始まりだった。
(第四話 了)




