第3話 悪役令嬢、交渉する
帝国王太子アドリアンの王都滞在は、当初の予定では三日間だった。
それが五日間に延びたのは、帝国側からの申し出による。理由は「王国の文化施設の視察」とされていたが、オットーがもたらした情報によれば、実態は帝国使節団内部での意見調整らしかった。
レオノーラには関係のないことだった。
少なくとも、侯爵家の執務室に一通の書簡が届くまでは。
「帝国王太子殿下より、ヴァレンシュタイン侯爵令嬢に面談のご要望が届いております」
オットーが封蝋を指でなぞりながら言う。蝋の紋章は帝国の双頭の鷲だ。
レオノーラは書類から目を上げなかった。
「私に? 何の用ですの」
「理由は明記されておりません。ただ、今日の午後二時に王城の小会議室をご用意いただけるか、という打診でございます」
「私が会議室を用意する義務はありませんわ。王城の手配は宮廷側がすることです」
「おっしゃる通りでございます。ただ、殿下はわざわざお嬢様の個人宛に送ってこられた。宮廷を通さずに、です」
レオノーラはそこで手を止めた。
(宮廷を通さない……なるほど、表に出したくない話があるということですわね)
彼女はしばらく考え、書類の束を脇に寄せた。
「オットー、今日の午後の予定を確認しなさい」
「二時から四時の枠でしたら、王都西地区の医療組合との面談が入っております」
「一時間ずらして三時にしなさい。医療組合側には私からお詫びの文を出します」
「かしこまりました。では帝国側には?」
「二時で構いません、とお伝えして。ただし三十分で終わる話であることを前提にする、とも添えなさい」
オットーはほんの一瞬だけ目をしばたたかせた。
「……帝国王太子殿下に対し、時間制限を設けるのでございますか」
「三十分で済む話なら三十分で十分でしょう。長引かせる必要のある話なら、最初からそう書いてくるはずですわ」
「御意でございます」とオットーは言い、これ以上は問わなかった。
──────
王城の小会議室は、外交儀礼に使う大広間とは別の棟にある。装飾は控えめで、長机と椅子が六脚。秘密の多い話をするための部屋だ、とレオノーラは以前に聞いたことがある。
アドリアンはすでに着席していた。随行員は一人もいない。
レオノーラは入室し、式典の時と同じ角度で礼をした。
「お時間をいただきありがとうございます、ヴァレンシュタイン侯爵令嬢」
「三十分で済む話とお見受けしましたので参りました。それ以上かかるようでしたら、先にお断りしておきます」
アドリアンはかすかに笑った。式典の夜と同じ、抑制された笑いだ。
「十五分で済ませます」
「では五分の余裕ができますわね。座ってよろしいかしら」
「どうぞ」
レオノーラは長机の向かい側に腰を下ろした。マリアは扉の外で待機させてある。
アドリアンは両手を卓上で組み、静かに口を開いた。
「帝国は、ヴァルティア王国との間で穀物の輸入協定を結ぼうとしています。現在進行形で宮廷側と交渉中です」
「存じています。三年越しの交渉ですわね」
「そこに、問題が生じました」
「どのような?」
アドリアンはレオノーラを見た。この令嬢が情報を漏らさないという確信があるのか、あるいは漏れても構わない情報なのか。彼女はどちらの可能性も排除しなかった。
「王国側の交渉担当が、協定の条件として帝国側に特定の品目の関税免除を要求しています。その品目に、帝国の重要産業と競合するものが含まれている」
「それは王国側の失策ですわね」
アドリアンがわずかに眉を上げた。
「そう思いますか」
「帝国が受け入れられるはずのない条件を、なぜ出すのか。三つの可能性があります。担当者が無知か、わざと交渉を壊したいか、あるいは別の取引のための交渉材料にしようとしているか。いずれにせよ、穀物協定の本筋とは別の動きが王国内部にありますわ」
沈黙。
アドリアンは組んだ手をほどかずに言った。
「……侯爵令嬢は、その担当者が誰か、ご存じですか」
「ご存じですか、と問われたということは、殿下はすでにご存じということですわね」
「そういうことになります」
「でしたら私に答える必要はありません。殿下が知っていることを私が知っているかどうか確認するために、わざわざ時間を取らせたのではないでしょう。本題は何ですか」
アドリアンは今度こそ、はっきりと笑った。
「本題は、侯爵令嬢がこの件に関心を持ってくださるかどうかの確認です」
──────
レオノーラはしばらく考えた。
帝国王太子が、宮廷を通さず、随行員も連れずに、ヴァレンシュタイン侯爵令嬢を呼んだ。穀物協定の問題を話した。王国内部の不審な動きを匂わせた。そして「関心があるか」と問うた。
(おかしな話ですわ。帝国王太子が王国の内政問題を、なぜ私に持ち込む?)
しかし同時に、彼女には答えが見えていた。
(この方は、協定を壊したくないのですわ。穀物協定は帝国にとっても必要な取引だから。でも、王国内部に妨害しようとしている者がいる。それを宮廷正式ルートで動けば、余計に拗れる。だから……)
「殿下は、私がヴァレンシュタイン侯爵家の次期当主として、王国内部に相応の影響力を持っていると判断なさったわけですね」
「判断しました」
「それは正しい判断です。ただ——」レオノーラは指を机の上で一本立てた。「私がこの件に動く理由を、帝国の利益のためではなく、王国の利益のためにする必要がありますわ。外国の王太子に頼まれて動いた、などという話になれば、私の信用が損なわれる」
「その通りです」とアドリアンは即座に言った。「私は侯爵令嬢に、帝国のために動いてほしいと頼んでいるのではありません。王国の穀物協定が正常に機能すれば、両国が得をします。それを妨げようとしている者がいるなら、それは王国にとっての問題のはずです」
「きれいな言い方ですわね」
「事実です」
レオノーラは彼を見た。嘘ではない。ただし、全てを話しているわけでもない。
(まあ、外交の場で全てを話す人間はいませんわ。それはそれで正常なことです)
「一つだけ確認させてください」
「どうぞ」
「殿下は、私が妨害者を特定し、排除することを期待していますか? それとも、交渉条件を軌道修正することを期待していますか?」
アドリアンはすぐには答えなかった。
それが答えだった。
「……両方、ということですわね。状況によって」
「侯爵令嬢の判断に委ねます」
「それはつまり、私が何をしても帝国側は文校を言わない、ということですか」
「私は文句を言いません。王国宮廷がどう動くかは、私には制御できませんが」
レオノーラは静かに息をついた。
(随分と大きな話をさらりと言いますわね、この方は)
──────
十五分が経った。
レオノーラは立ち上がった。
「わかりました。私が適切と判断した範囲で動きます。ただし、私のやり方に帝国側が口を挟まないことが条件ですわ」
「承知しました」
「それから——」彼女はアドリアンを真っ直ぐに見た。「殿下がこの件を私に持ち込んだという事実は、どこかで利用される可能性がありますわ。それは殿下もわかっていますよね」
「わかっています」
「でしたら、その時のために一つお願いがあります」
「何でしょう」
「私が動いた結果について、殿下は事実をそのままお話しください。私が帝国の利益のために動いたのではなく、王国の問題を整理しただけだということを。それだけで構いません」
アドリアンはしばらくレオノーラを見ていた。
「……それは、自分の評判を守るためですか」
「評判には興味がありませんわ」レオノーラは淡々と言った。「ただ、事実でないことが事実として流通すると、後の判断を誤らせます。私が帝国の手の者であるという誤解が広まれば、次の交渉で王国側が正しい判断をできなくなる。それは王国にとって損失です」
沈黙。
アドリアンはゆっくりと立ち上がり、わずかに頭を下げた。
「承知しました。事実をそのままお伝えします」
「それで十分です。では失礼しますわ。医療組合との面談が三時から入っていますので」
「医療組合……また別の案件ですか」
「常に複数の案件が走っていますわ。王国には問題が多いので」
レオノーラは扉へ向かいながら、振り返りもせずに付け加えた。
「殿下、一つだけ個人的な感想を申し上げてよろしいかしら」
「どうぞ」
「あなたは、私が断ると思っていましたか」
少しの間があった。
「……正直に言えば、五分五分だと思っていました」
「正直なことです」レオノーラはようやく少しだけ口元を動かした。「私は引き受ける義理がない案件でも、放置すると後で大きな問題になると判断した場合は動きます。損得ではなく、処理の順序の問題ですわ」
「……なるほど」
「ご滞在中、ご体調にお気をつけて。王国の秋は朝晩が冷えますわよ」
そう言い残して、彼女は部屋を出た。
──────
廊下でマリアが待っていた。
「どうでしたか?」
「仕事が増えましたわ」
「……また増えたんですか」
「仕方がありませんわ。放置すれば穀物協定が潰れる。そうなれば王国の食糧事情に影響が出る。影響が出れば困るのは庶民ですわ。順番に考えればわかることです」
マリアは少し息を飲んだ。
「お嬢様、それって……帝国の王太子に頼まれたからじゃなくて、最初から王国のことを考えて決めたんですか?」
「当然でしょう。人に頼まれたからやる、という理由で動いたことは一度もありませんわ。私がやると判断したからやるのです」
マリアはまた目を潤ませた。
レオノーラは廊下を歩きながら、小さく眉を寄せた。
(なぜ泣くのか、この子は。全く理解できませんわ)
──────
その夜、オットーに今日の経緯を報告したレオノーラは、自室の書き物机の前に座った。
翌日から動き始めるために、整理すべき情報がある。穀物協定の現在の交渉経緯。関税免除要求を出した担当者の素性。その背後にある利害関係。
「オットー、ランツ子爵に明日の朝一で連絡を取りなさい。財務局の正式な書類ルートを通さずに、協定関連の数字を確認したい。あの方は数字に正直ですわ」
「かしこまりました。ランツ子爵に、理由はお伝えしてよろしいですか」
「『数字が合わないかもしれない』とだけ言えば十分ですわ。あの方はわかります」
「御意。……お嬢様、一点だけよろしいでしょうか」
「何ですの」
オットーはわずかに間を置いた。
「今回の件、相当の反発を受ける可能性がございます。協定妨害の関係者は、おそらく王国内の有力者と繋がっている。お嬢様がそこに踏み込めば——」
「知っています」レオノーラは羽根ペンを取り上げた。「でも放置はできません。オットー、あなたは私に、正しいとわかっていても難しいからやめろ、と言うつもりですか」
「……いいえ、そのような無駄なことは申しません」
「ならばそれでよろしい。懸念があるなら対策を考えなさい。それがあなたの仕事です」
「御意でございます」
老執事は深々と頭を下げ、静かに部屋を出た。
扉が閉まる音を聞きながら、レオノーラは書類に向かった。
(妨害しようとしている者が誰かは、おそらく三日でわかりますわ。その後の処理は……状況次第ですわね)
窓の外、夜風が木の葉を揺らしていた。
彼女はそれに気づかず、書き続けた。
──────
翌朝の社交欄には、また新しい噂が載っていた。
「ヴァレンシュタイン令嬢、帝国王太子と密会 両国の交渉に隠された意図か」
レオノーラは朝食のスープを一口飲み、朝刊を閉じた。
「燃やしなさい」
「他に九紙が同様の記事を掲載しておりますが」
「では全部燃やしなさい。読む意味がありませんわ」
「お嬢様……」マリアが少し心配そうな顔をした。「密会って書かれて、本当に気にならないんですか」
「気になりませんわ。事実は十五分の実務会談です。それ以上でも以下でもありません」
「でも外からはそう見えなくて……」
「外からどう見えるかに構っている時間があるなら、今日の仕事を一つ片付ける方が有益です。さ、片付けましょう。ランツ子爵からの返事はまだですか」
「八時には届くかと……」
「では七時五十分に確認しに来なさい。それまでに書類の整理を終わらせますわ」
マリアはため息をついた。それから、ひそかに微笑んだ。
レオノーラ・フォン・ヴァレンシュタインは今日も変わらず、評判を気にせず、人の感謝に戸惑い、必要なことを必要だからやっていた。
そしてそれが、また誰かを救うことになるとは、本人は今のところ考えていない。
(第三話 了)




