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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第一章「帝国の王太子は誤解しなかった」

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第2話 悪役令嬢、崇拝される

翌朝、ヴァレンシュタイン侯爵家の朝食室には、静かな混乱が漂っていた。


正確に言えば、レオノーラは至って平常通りだった。問題は、彼女の周囲にいる人間たちである。


「お嬢様、昨夜の件ですが——」


オットーが朝刊を持ったまま、言葉を濁した。


「昨夜の件とは」


「帝国王太子殿下との……その、ご歓談でございますが」


「歓談ではありませんわ。ワインの補充が滞っていると指摘しただけです」


「はい、その通りでございます。ところが——」


オットーは朝刊を静かに卓上に広げた。


社交欄の見出しが、二段組みで躍っていた。


『ヴァレンシュタイン令嬢、帝国王太子を魅了か? 異例の長時間会談に各方面が注目』


「……五分間の会話が長時間会談になっていますわね」


「社交欄の記者は誇張が職業でございますので」


「削除させなさい」


「誠に恐れ入りますが、既に六紙に掲載されております。また、帝国使節団の宿舎に早朝より、ヴァルティア王国の貴族令嬢方から多数の文が届いているとのことで……」


「私に何の関係がありますの」


「その文の大半が、殿下とのご縁を結ぼうとする令嬢方からのもので……。お嬢様への、抗議文でございます」


レオノーラはトーストをひと口食べた。


「抗議? 私が帝国王太子と結婚でもすると思っているのかしら」


「そのような憶測が広まっているようで」


「馬鹿馬鹿しい。私はただワインの話をしたのですよ」


「はい。ですが——」


「わかっていますわ。どうせ誰も信じないのでしょう。ならば放置します。わざわざ否定して注目を集めるほど暇ではありませんもの」


オットーは深く頷き、朝刊を回収した。三十年近く侯爵家に仕えてきた老執事は、この令嬢のこうした返答に、もはや驚かない。


驚かないだけで、内心の心労は絶えないのだが。


──────


午前中、レオノーラは執務室に籠もった。


侯爵家の次期当主として処理すべき書類は常に山積みであり、今日は特に王都の貧困地区への医療支援に関する予算書の査定があった。彼女はこういう作業を厭わない。むしろ好む。数字は嘘をつかないからだ。


侍女のマリアが紅茶を持って入ってきたのは昼前のことだった。


「お嬢様、少しよろしいでしょうか」


「話しながら働きますわ。どうぞ」


「昨夜のことなのですが……」


「オットーと同じことを言うつもりなら省略してください」


「違うんです。その……レオノーラお嬢様って、本当にすごいなと思って」


マリアは少し頬を赤くしながら言った。


レオノーラの手が止まった。


「……何がですの」


「昨夜、給仕の不備を直されたこと。帝国の方々に失礼がなかったのは、お嬢様のおかげです。私、後でちゃんと気づいたんですよ。お嬢様がいなければ、あのまま東側は空のグラスのままで、帝国の随行員の方に笑われていたと思います」


「気づいたなら、なぜその場で動かなかったのですか。あなたにも目はあるでしょう」


「す、すみません……」


「謝罪は求めていません。次から動きなさいということです。私が代わりに動いたのは、あなたに動く意思がないからではなく、私の方が先に気づいたからですわ。ただそれだけのことです」


マリアはしばらく沈黙し、それからぽつりと言った。


「……お嬢様は、いつもそうですね」


「何がですの」


「自分のことを、全然偉いとか思っていないんですね」


「当然でしょう。できて当たり前のことをしたまでですわ」


マリアはまた少し目を潤ませた。


レオノーラは書類に視線を戻しながら、小さく眉を寄せた。


(なぜ泣くのかしら、この子は。褒めたわけでもないのに)


──────


問題が起きたのは午後だった。


正確には、問題というより「来訪者」だ。


「ヴァレンシュタイン侯爵令嬢にお取り次ぎを」


玄関先でそう名乗ったのは、王立学院の制服を着た少女だった。年はおそらく十五、六歳。目が腫れていた。


「……どちら様ですか」と応対したオットーに、少女は涙をこらえながら言った。


「シャルロッテ・ド・モンテヴェルデと申します。侯爵令嬢にどうしても直接お礼を申し上げたく」


応接室に通された少女は、レオノーラの前でいきなり頭を下げた。


「先月の学院の試験のことです! 令嬢が試験問題の不正を指摘してくださらなければ、私は不正をした生徒たちと同じグループだとみなされ、学院を追われていたはずです。本当にありがとうございました」


レオノーラは少女をまじまじと見た。


「不正の指摘は、私の義務でしたわ。監督委員である以上、見て見ぬふりはできません」


「でも……先生方に何度も呼び出されて、嫌がらせまで受けたと聞きました。それでも曲げなかったと」


「不正を見逃した教師を庇う理由が私にはありませんもの」


「お嬢様は怖くなかったんですか。あの先生方は、いろんなお家とつながりがあって——」


「怖い、と思う必要があるのはむしろ彼らの方でしょう。私はヴァレンシュタインの令嬢ですわ。権力でものを言うのは好みませんが、彼らが権力を笠に着るなら、こちらも同じ土俵に上がるだけのことです」


シャルロッテは目をぱちぱちとさせてから、また涙をこぼした。


「……やっぱりすごい方だ」


「泣かないでくださいまし。紅茶が冷めますわよ」


「はい、すみません。でも……お嬢様のこと、悪い方だと思っていたんです。学院でも、社交界でも、怖い方だって」


「怖い方ですわ、私は」


「でも全然違います!」


レオノーラは一瞬、返答に詰まった。


こういう局面が最も苦手だった。


(何と言えばいいのかしら。でも否定しても火に油ですわね……)


「……あなたの認識が誤っているというよりも」レオノーラはゆっくりと言葉を選んだ。「私は本当に怖い方ですわ。ただ、あなたに対して怒る理由がなかっただけのことです」


「それって……つまり」


「つまり、不正をした側でなかった、ということですわ。それ以上でも以下でもありません。どうか過大評価しないでください。とても迷惑ですわ」


シャルロッテはなぜかそれを聞いてさらに感激した様子で、帰り際に「一生ついていきます!」と言い残した。


レオノーラは応接室の扉が閉まるのを見届けてから、深々とため息をついた。


「オットー」


「はい」


「私はいったい何と言えばよかったのですか」


「難しいご質問でございます」


「正直に言えば感激され、突き放せばついてくる。どちらに転んでも同じ結末ですわね」


「お嬢様が誠実に振る舞われる限りは、おそらく」


「誠実のつもりはないのですけれど」


「さようにございますか」とオットーは静かに言い、何も付け加えなかった。


──────


夕刻、今度は別の来訪者があった。


ヴァルティア王国宮廷に仕える中堅貴族、エドワード・フォン・ランツ子爵——昨年の汚職事件で職を失いかけたが、レオノーラが実態を暴露したことで「被害者側」と認定された、あの人物だ。


「先日の件についてご報告に参りました。おかげさまで復職が認められ、本日付で宮廷財務局への返り咲きが決まりました。これもひとえに侯爵令嬢のご尽力の賜物と——」


「私は何も尽力していません」


「いえ、あの時お嬢様が調査を——」


「書類の数字が合っていなかったから指摘しただけですわ。調べれば誰でもわかることを、たまま私が先にやっただけのことです。お礼を言う相手を間違えていますわよ。あなたを信じ続けた同僚に言いなさい」


ランツ子爵は目を赤くした。


「……侯爵令嬢は、本当に変わったお方だ」


「変わっていますわ、自覚があります」


「いいえ。変わっているというよりも……正しい」


レオノーラは彼を見た。


「正しい?」


「私のような立場の者が言うのもおこがましいですが……正義とか道理とか、そういう言葉は普通、人が都合よく使うものです。でもお嬢様はそれを、自分に都合が悪くても使う。それが正しいということではないかと、私は思っています」


レオノーラはしばらく黙っていた。


「……詩人めいたことを言いますね」


「社交辞令です」


「そちらの方がまだ信用できますわ。では詩人のくだりはなかったことにして、ご復職のお祝いを申し上げます。これからも数字に正直に仕えなさい」


「御意に」


子爵が去った後、レオノーラはまた書類に向かった。


マリアがこっそり呟いた。「お嬢様、あの方、泣いていましたよ」


「知っています」


「それでよかったんですか?」


「泣かせたかったわけではありませんが、泣き止むのを待つほどの時間もありませんの。書類が残っていますもの」


マリアはまた小さくため息をついた。


それから、ひそかに微笑んだ。


──────


夜、執務を終えたレオノーラが自室に戻ると、母が珍しく部屋の前で待っていた。


ヴァレンシュタイン侯爵夫人は、美しく、穏やかで、そして娘のことを誰よりも正確に理解している人物だった。


「今日もたくさんのお客様でしたね」


「なぜかそうなりましたわ」


「昨日の式典の話、聞きましたよ。帝国王太子殿下に無礼を働いたとか」


「礼儀の問題と実務の問題は別ですわ。給仕の不備は実務の問題です」


「そうね」と母は微笑んだ。「帝国王太子は怒っていなかったのでしょう?」


「笑っていましたわ。あの方は頭がよろしいので、私の言いたいことが理解できたのだと思います」


「頭がいいと思ったの?」


「ええ。珍しい方でした」


母はしばらくレオノーラの顔を見た。


「珍しい、というのは?」


「私を悪女とも聖女とも断じなかった。そのままの私を見ていた、ということですわ」


「それは……」と母は静かに言った。「あなたにとって、どうでしたか」


レオノーラは少し考えた。


「……普通のことだと思いましたわ」


「本当に?」


「本当に、そう思いました。ただ——」


彼女は窓の外を見た。夜空に星が出ていた。


「普通のことが、珍しかっただけですわ」


母はそれ以上何も言わなかった。ただ、娘の肩にそっと手を置き、おやすみなさいと言って廊下を歩いていった。


レオノーラはその背中を少し見つめてから、部屋に入った。


机の上には明日の書類が積んである。


彼女はそれを一瞥し、羽根ペンを取り上げた。


(明日も仕事ですわ)


その夜、ヴァルティア王国では三つの噂が新たに生まれた。


いわく——


「ヴァレンシュタイン令嬢が不正教師を追放した話、聞いた? あれって本当は学院全体の腐敗をひとりで潰したらしいわよ」


「汚職の件も、子爵家を救うために敢えて悪役を引き受けたって聞いたけど」


「帝国王太子だって、令嬢に一目置いているって使節団の人が言ってたって」


どれも事実と少しずつ違った。


レオノーラは当然、一切関知していない。


明日も書類がある。それだけが現実だ。


(第二話 了)

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