第1話 帝国の王太子と悪役令嬢
社交界の春は薔薇の香りで始まる。
少なくとも、詩人はそう謳う。
だがレオノーラ・フォン・ヴァレンシュタインにとって、春の社交界とは書類と交渉と疲労の季節でしかなかった。
「レオノーラお嬢様、そろそろご出発のお時間でございます」
執事のオットーが恭しく告げる。白髪混じりの温厚な老紳士だが、その目には言いようのない諦観が宿っていた。十七年間、この令嬢に仕えてきた者特有の、深く静かな覚悟である。
「わかっていますわ」
レオノーラは鏡の前でドレスの胸元を一瞥し、小さく鼻を鳴らした。淡いアイスブルーの夜会服。侍女のマリアが三日かけて選んだ一着だ。
「オットー、今宵の式典には何人の外国使節が出席しますの?」
「帝国側の正式な随行員が十二名。非公式の情報収集員が、おそらく三名から五名かと」
「おそらく、では困りますわ。把握しなさい」
「御意。ただ、非公式ゆえ——」
「非公式だからこそ重要でしょう。わかりきったことをわざわざ言い訳に使わないでくださいな、オットー。あなたのそういうところが私は嫌いですわ」
「……肝に銘じます」
オットーは表情ひとつ変えなかった。変えられなかったのではなく、変える必要がないと判断したのだ。レオノーラのこの手の言葉は、叱責ではなく指示である。それを理解するのに一年かかった。
ヴァレンシュタイン侯爵家の馬車が夜の王都を走る。
車窓の外、石畳の街路には等間隔に灯籠が並び、橙色の光が宙に溶けていた。城に近づくにつれ、他家の馬車も増えてくる。どれも紋章を誇らしげに掲げ、この夜の主賓——ルクセリア帝国王太子アドリアン殿下の歓迎に駆けつけているのだ。
「ヴァルティア王国が、帝国に媚びを売る夜ですわね」
レオノーラは静かにそう言い、膝の上に置いた手袋をゆっくりと指に通した。
「外交的配慮、とも申せますが」
「同じことですわ。ただ、相手が賢ければ媚びを媚びと受け取らない。それが外交というものでしょう」
彼女には珍しく、どこか面倒くさそうな、しかし微かに興味深げな声色だった。オットーはそれを聞き逃さなかった。
──────
式典は王城の大広間で行われた。
シャンデリアが無数の光を散らし、白と金の壁面を照らしている。楽団の演奏が広間の端まで満ちていた。貴族たちは思い思いの会話に興じ、互いの衣装と地位を測りながら、今夜の主賓がいつ現れるかを待ちわびていた。
レオノーラが入室した瞬間、周囲が微かにざわめいた。
毎度のことだ、と彼女は思う。
「あれがヴァレンシュタインの……」
「聖女候補を追放したとか」
「王太子殿下を泣かせたのも——」
囁き声が波のように広がる。レオノーラはそれを完璧に無視し、進路上に立ちふさがっていた男爵令息をただの障害物として視線で退かしながら、前に進んだ。
「本当に気にならないのですか?」
隣に並んだ侍女マリアが小声で問う。
「何がですの」
「噂です。ひどいことばかり言われていますよ」
「ひどい、と思うなら否定してもかまいませんわ。でも私は否定する気がない。時間の無駄ですもの」
マリアは小さくため息をついた。幼い頃から知っているこの令嬢は、こういう人間なのだ。
王太子カールが広間の中央で外国使節たちと歓談しているのが見えた。金髪に青い目、柔らかな笑顔。絵に描いたような理想の王太子だ。彼を慕う者は多い。
レオノーラは彼と目が合うと、ごく自然に、しかし明確に、視線を逸らした。
「……またですか」とマリア。
「別に嫌いではありませんわ。ただ、今夜は彼と話す必要がない。それだけのことです」
──────
帝国王太子アドリアンが広間に現れたのは、式典が始まって一時間ほど経った頃だった。
静かに、しかし確実に場の空気が変わった。
背が高く、黒に近い濃紺の礼装。銀糸の刺繍が光を反射している。顔立ちは整っているが、それよりも目を引くのはその瞳だった。何もかもを静かに観察している、冷静な銀灰色の眼。
外交儀礼の笑顔はある。しかしそれは仮面であることが、少し注意深く見ればわかる。
(賢い人間ですわね)
レオノーラは思った。感心ではなく、確認だった。
アドリアンは随行員と共に王太子カールへ挨拶し、型通りの言葉を交わした。その間、彼の視線は広間をさりげなく巡回していた。情報収集の目だ。
そしてレオノーラに止まった。
一秒。
二秒。
彼女は視線を受けて、特に何もしなかった。逃げもせず、笑顔も作らず、ただそこに立っていた。
(見られているのは気づいていますわ。別に構いませんけれど)
アドリアンはやがて視線を外した。
──────
ヴァルティア王国の貴族たちは、帝国王太子の歓心を買おうと次々に彼の周囲に集まった。娘を紹介しようとする父親、外交上の接近を試みる家臣、ただ有名人を間近で見たい好奇心旺盛な若者たち。
アドリアンはそれらを一通り捌いた。微笑み、頷き、適切な返答をした。王族として徹底的に訓練されていた。
そして気がつくと、彼は広間の隅に移動していた。
そこには白ワインのグラスを片手に、壁際の彫刻を興味なさそうに眺めている女性がいた。
「ヴァレンシュタイン侯爵令嬢」
アドリアンが声をかけた。周囲の貴族たちが一斉にこちらを見る。
「……これは帝国王太子殿下」
レオノーラは振り向き、ごく形式的な礼をした。深くも浅くもない、侯爵家令嬢として適切な角度の礼だ。
「噂はかねがね」とアドリアンは言った。
「そうでしょうね。私の噂話はこの王国では尽きませんから」
「王太子号泣事件。聖女候補追放事件。汚職貴族失脚事件」彼はまるでリストを読み上げるように言った。「それだけでも三件。実に興味深い経歴ですね」
「お楽しみいただけて光栄ですわ」
レオノーラの声は完璧に平坦だった。皮肉ではなく、本当に心底どうでもよさそうな口調。アドリアンはそれを聞いて、かすかに表情を動かした。
「ひとつ伺っても?」
「どうぞ」
「あなたは、自分が悪役だと思っていますか?」
場が静まり返った。
周囲の貴族たちは固唾を飲んだ。これは侮辱ではないか。令嬢が怒鳴り出すか、あるいは泣き出すか。あるいは場面を丸く収めようとするか——
「思っていますわ」
レオノーラは即答した。
「私は傲慢で、毒舌で、自分が正しいと思ったことしかしません。それが誰かを傷つけても、理不尽だと思えば反省しません。これを悪役と言わずに何と言うのか、私には見当もつきませんわ」
完璧な沈黙。
アドリアンは彼女を見た。嘘はない。計算もない。ただの事実認識だ。
「……なるほど」
彼は低く言い、グラスを口に運んだ。
「では、あなたはなぜ聖女候補を追放したのですか」
「それを知りたいのなら、正式に外交文書で問い合わせてくださいまし。今夜は初対面の挨拶をする場であって、尋問を受ける場ではありませんわ。殿下のご出身国では外交礼儀が違うのかしら?」
今度こそ周囲が凍りついた。
帝国王太子への発言としては、異例どころか前代未聞だった。
しかしアドリアンは——笑った。
ほんの少し、しかし確かに、口の端が持ち上がった。
「……失礼しました、ヴァレンシュタイン侯爵令嬢。おっしゃるとおりです」
「いいえ。それよりも殿下、今宵の式典での給仕の配置に問題がありましてよ。東側のワイン補充が滞っているのに誰も気づいていない。もし帝国側随行員の方々に行き渡らなければ、我が国のもてなしが疑われます。それはどちらにとっても益のないことでしょう」
「……今それを私に言いますか」
「他に動ける人間が見当たりませんので」
レオノーラはそう言って、空になったグラスをそっとテーブルに置いた。
「では、失礼しますわ」
彼女は軽やかに歩み去り、給仕長を呼び止め、何事か短く告げた。三分後、東側のワインは補充されていた。
アドリアンはその一連の動作を、広間の中央から静かに見ていた。
(性格は、確かに悪い)
彼は思った。
(だが信用できる)
──────
夜が更けて人が散り始めた頃、レオノーラは馬車に乗り込んだ。
オットーが御者台に上がる前に、ふと振り返る。
「お嬢様、帝国王太子殿下とお話しになっていましたね」
「ええ。不思議な方でしたわ」
「と、申されますと?」
レオノーラは少し考えた。馬車の灯りが彼女の顔を橙色に照らす。
「私を悪女と断じなかった。かといって聖女だとも思っていない。ただ——」
彼女は窓の外を見た。
「ただ見ていた。それだけですわ」
「……それは、珍しい方ですね」
「そう。珍しいことです」
馬車が動き出す。石畳を踏む蹄鉄の音が夜に響いた。
レオノーラは背もたれに身を預け、目を閉じた。
今夜のことはすぐに噂になるだろう。帝国王太子に無礼を働いた悪役令嬢。あるいは——帝国王太子を手玉に取った狡猾な女。
どちらでもかまわない、と彼女は思う。
評判というものは、他人が作るものだ。自分には関係がない。
ただ、あの銀灰色の瞳だけが、少しだけ記憶に残っていた。
(まあ、どうでもいいことですわ)
レオノーラは心の中でそう呟き、翌日の仕事の段取りを頭の中で整理し始めた。
(第一話 了)




