第68話 悪役令嬢、五度目の水曜日に余白を見る*
――――――
水曜日の朝、レオノーラは、書斎の窓を、先に開けた。
空は、澄んでいた。昨日の薄い雲は、どこにも残っていなかった。
(――五度目の水曜日ですのね)
(月、火、そして、水)
(一週間の、真ん中ですのよ)
冊子の水曜日のページを、開いた。『見えている真ん中』『動かない真ん中』『幹になった真ん中』、そして、あと一つ。
(――「真ん中」ばかり、並んでいますのね)
(水曜日は、いつも、真ん中の話ばかりしてきましたのよ)
(今日は――どうでしょう。違う青に、会いたいですのね)
そう思った自分に、少し、驚いた。
(――「会いたい」ですのね)
(以前は、「見つける」と言っていましたのに)
窓から、風が入ってきた。紙の端が、小さく、揺れた。
――――――
朝の茶を、オットーが運んできた。
「――お嬢様。文官から、視察に提出する記録の写しの件で、確認が参っております」
「どのような」
「診療所の記録は、先生方のほうで写しを作られるとのこと。お嬢様ご自身の、周縁部と温室の記録につきましては、いかがなさいますか、と」
レオノーラは、少し、考えた。
(――わたくしの、紙の束)
(三十七枚の、あの紙)
「お見せするものではありませんのよ。あれは、わたくしの手元の、控えですもの」
「左様でございますか」
「ただ――視察の方が、周縁部のことを、お尋ねになったときのために、整えておくべきかもしれませんのね」
オットーは、静かに頷いた。
「では、本日は、書斎で、お整えになりますか」
「ええ。今日は、診療所へも行きませんわ。……全部、読み返してみますのよ」
老執事は、深く、一礼した。
(――読み返す、と仰った)
(お嬢様が、ご自分の記録を「読み返す」ために一日を使われるのは、初めてでございますよ)
――――――
書斎の机の上に、紙を、全部、広げた。
懐に入れて持ち歩いてきた、折り目だらけの紙が、三十七枚。日付の順に、並べた。
端から、ゆっくり、読んでいった。
最初の頃の紙は、字が、固かった。数字と、結論だけが、短く並んでいた。
「――高さ、約八ミリ。葉、一枚。異常なし」
それが、少しずつ、変わっていった。
『今日の光、〇〇』という一行が、加わった。「わからない」という言葉が、出てきた。杭を置いたこと。名前をつけないこと。
(――文章が、変わっていきますのね)
(わたくしの、書き方が)
三十七枚を、全部読み終えて、レオノーラは、ふと、気づいた。
(――どの紙にも、右側の端が、空いていますのね)
数えてみた。三十七枚、全部だった。記録は、いつも、紙の左寄りに書かれていて、右の端に、指二本ぶんほどの余白が、残っていた。
(――なぜ、こうなっていたのかしら)
(意図して、空けた覚えは、ありませんのよ)
記憶を辿った。最初の一枚目を、書いたときのことを。
(……そう)
(あの頃は、書くことが、少なかったのですのね。数字を書いて、終わり。紙の右側は、使わなかった)
(それが、癖になって――いつの間にか、わたくしは、右側を、空けて書くようになっていましたのよ)
右端の余白を、指でなぞった。
(――何も、書かれていない場所)
(でも、毎日、そこに、紙が、あったのですのね)
――――――
昼前に、書斎の扉が叩かれた。マリアが、昼食のトレイを持って立っていた。
「お嬢様、今日は、こちらでお召し上がりですか。……わあ、紙が、すごいですね」
「ええ。読み返しているのですのよ」
マリアは、トレイを置いて、机の上の紙を、そっと覗き込んだ。
「これが、全部、お嬢様の記録ですか」
「ええ」
「……読んでもいいですか」
「どうぞ」
マリアは、一枚を手に取って、ゆっくり、目を通した。
「なんか、お嬢様の字、あったかいですね。最初の頃は、もっと、きりっとしてたのに」
「そうですのね。自分では、気づきませんでしたけれど」
「それに」マリアは、紙の端を、指で示した。「この右側、空いてますよね。何か、書き足せそうな感じがします」
レオノーラは、思わず、マリアの顔を見た。
「……マリア。それ、今、わたくしも、気づいたところですのよ」
「え、そうなんですか」
「ええ。三十七枚、全部、空いていましたの」
マリアは、少しだけ、考えた。
「うちの実家のカレンダーも、そうなんです。日付の下に、少しだけ、何も書かない空きがあるんです。母さんが、わざとなのか、癖なのか、分からないですけど。で、そこに、誰かが、気づいたことを、書くんですよ。『隣のおばさん来た』とか、『屋根、直した』とか。母さんは、何も言わないんですけど、書いてあると、嬉しそうなんです」
「……書く人は、決まっていますの」
「決まってないです。気づいた人が、書くんです。父さんのときも、弟のときも、私のときもあって。だから、カレンダーって、母さんの字だけじゃなくて、家族の字が、混ざってるんです」
(――空けておいた場所に)
(誰かが、書き込む)
(それは、「空白」ではなく――「招き入れる」ための場所ですのね)
「――マリア」レオノーラは言った。「今日の空は、『あけておいた青』ですのよ」
マリアは、目を丸くして、それから、嬉しそうに、笑った。
「やった。……あ、でも、お嬢様、また私の話で」
「ええ、あなたの話からですのよ」
「光の名前は――三十四、ですよね」
「ええ。三十四ですのね」
マリアは、紙の右端を、もう一度、指でなぞった。
「……私も、書いていいですか。いつか」
レオノーラは、少しだけ、間を置いた。
「ええ。いつでも、どうぞ。……そのために、空いていたのかもしれませんのね」
――――――
午後、オットーが、書斎に、紅茶を持ってきた。
机の上の紙を、見て、静かに言った。
「――三十七枚、お揃いでございますね」
「ええ。……オットー。この紙の右端、気づいていましたの」
「はい」
即答だった。レオノーラは、顔を上げた。
「いつからですの」
「十枚目を超えた頃かと存じます。お嬢様の記録は、いつも、右が空いておりました」
「何も、言いませんでしたのね」
「申し上げるほどのことでは、ございませんでした。ただ――」
オットーは、紅茶を置いて、少しだけ、間を置いた。
「――私は、お嬢様の記録に、一度も、書き足したことはございません。それは、お嬢様の記録でございますから。ですが、もし、あの空白に、一言だけ許されるなら、と、時折、思っておりました」
「……何を、書きたかったのですの」
「たいしたことでは、ございません。『本日も、よく眠れておられた』、程度のことでございます」
レオノーラは、思わず、笑った。
「それは、記録に、必要ですかしら」
「必要かどうかは、存じません。ただ、お嬢様の昨日を、誰かが見ていたという印には、なるかと」
(――「誰かの昨日を残す」)
(昨日、診療所の手紙にあった言葉と、同じですのね)
紅茶に、手を伸ばした。
「オットー。――書いてくださいな」
老執事は、わずかに、目を見開いた。
「……よろしいのですか」
「ええ。いちばん新しい三十七枚目の、右端に。一言だけ」
オットーは、ペンを受け取り、紙の端に、そっと、短く、書いた。
『本日、紅茶をお出しした。お嬢様は、笑っておられた』
レオノーラは、その一行を、じっと、見た。
(――記録に、わたくし以外の字が、混ざりましたのね)
(それなのに、少しも、乱れませんのよ)
(むしろ、紙が、少し、あたたかくなりましたの)
「……ありがとう、オットー」
老執事は、深く、一礼した。
(――ようやく、書かせていただけました)
(お嬢様。この三十七枚目の右端は、私にとって、大切な、一行でございます)
――――――
夕方、温室に戻った。
二つの芽が、そこにあった。
エーデルローゼの芽は、葉が、五枚になっていた。
(――増えましたのね)
しゃがんで、定規を当てた。
「――高さ、約四十七ミリ。葉、五枚」
子爵の庭の薔薇は、茎の先の緑の膨らみが、昨日より、わずかに大きくなっていた。
(――実は、育っていますのね)
新しい紙を、一枚、取り出した。三十八枚目だった。
今日は、書く前に、少しだけ、紙を見た。
それから、書き始めた。左寄りに。いつもの通りに、右の端を、指二本ぶん、空けて。
「――エーデルローゼ。高さ、約四十七ミリ。葉、五枚。子爵の庭の薔薇。緑の膨らみ、昨日よりわずかに大きい。今日の光、『あけておいた青』」
書き終えて、右端を、見た。
(――ここに、誰かが書く日が、来るのですのね)
(それとも、来ないまま、空いたまま、終わるのかしら)
(どちらでも、いいのですのよ)
(空けておくことが、すでに、一つの、書き方ですもの)
紙を折って、懐にしまった。
――――――
夜、書斎で、書簡を書いた。
「今日は、五度目の水曜日でした。三十七枚の記録を、初めて、全部、読み返しましたのよ。そして、どの紙にも、右の端が、空いていることに気づきましたの。意図していたわけではなく、癖のようなものでしたけれど。マリアの実家のカレンダーの話から、その空白を、『招き入れる場所』と呼べることを知りました。オットーが、初めて、右端に一言、書き足してくれましたのよ。『お嬢様は、笑っておられた』と。今日の空は、『あけておいた青』と名付けましたの。あなたの書簡の言葉は、まだ、書き足してくださいと、お願いしておりません。でも、いつか、その空いた場所に、あなたの一行が入る日が来るのかもしれませんのね。そのときは、遠慮なく、どうぞ。――好意として」
書き終えて、封をした。
(――「どうぞ」と、書きましたのね)
(初めて、殿下に、何かを「許す」書き方をしましたのよ)
オットーに渡した。
「――今夜中に」
「かしこまりました」
老執事は、受け取りながら、少しだけ、言った。
「……お嬢様。本日は、よい一日でございました」
「ええ。オットーの一行のおかげですのね」
「お恥ずかしい限りでございます」
「恥ずかしがらなくて、よろしいのですのよ」
老執事は、わずかに、目を細めて、深く、一礼した。
――――――
夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
水曜日のページを開いた。『見えている真ん中』『動かない真ん中』『幹になった真ん中』――そして、新しい一行、『あけておいた青』。
(――「真ん中」ではない名前が、水曜日に、来ましたのね)
(水曜日にも、真ん中ではない顔が、あったのですのよ)
診療所の書簡は、まだ、二十三枚のままだった。
(――今日は、行きませんでしたものね)
(それでも、いいのですのね)
年輪帳を開いた。二つ目の年輪の、水曜日の位置に、小さく印をつけた。
(――月、火、水。三本の枝が、揃いましたのね)
(二つ目の年輪の色は、「あけておく」色かもしれませんのよ)
その言葉を、心の中で、転がしてみた。
(――でも、まだ、決めませんのね)
(空けておくことが、この年輪の、はじまりかもしれませんもの)
冊子を、静かに閉じた。
窓の外に、夜の王都があった。診療所では、先生が、『わからなかったこと』の欄に、最初の一行を、書いているかもしれなかった。周縁部の名もなき花は、傍らの杭に、そっと、茎の先を、触れさせているかもしれなかった。
帝国では、殿下が、「そのときは、遠慮なく」という一行を、どんなお顔で、読むだろう。
(――書いてくださるかしら)
(それとも、書かないまま、空けておいてくださるかしら)
(どちらでも、いいのですのよ)
(明日は、五度目の木曜日ですのね)
(真ん中を過ぎて、渡す日に入りますのよ)
――――――
(第68話 了)
**【次話予告】**
五度目の木曜日。視察まで、あと六日。診療所に、思いがけない来訪者が現れ、レオノーラは「渡す」ことの、もう一つの意味に触れる――。




