第69話 悪役令嬢、五度目の木曜日に受け取る
――――――
木曜日の朝、レオノーラは、いつもより長く、窓の前に立っていた。
空は、高く、白かった。雲は、細く引き伸ばされて、遠くへ流れていた。
(――五度目の木曜日ですのね)
(視察まで、あと六日)
数えてしまう自分に、小さく、苦笑した。
(数えても、何も変わりませんのに)
冊子の木曜日のページには、『繋がる気配』『歩き出した絆』、そしてほかの二つの青が並んでいた。「渡す」日、とオットーは言っていた。
(――今日は、何を、渡す日でしょうね)
窓を離れて、机に向かった。
(……それとも、誰かが、何かを、持って来る日かしら)
理由のない予感だった。それでも、不思議と、悪い気はしなかった。
――――――
朝の茶を運んできたオットーが、盆を置いて、一拍、止まった。
「――お嬢様。診療所の先生から、また、使いの者が」
「今日は、何ですの」
「お嬢様に、お会いしたい方がおいでだそうです。西区の、お母様と、お子様が」
レオノーラは、カップを持つ手を止めた。
「……西区の」
「はい。西区の先生を通じて、お礼のお言葉をお寄せくださった方かと存じます。どうしても、直接、お渡ししたいものがある、と」
「わたくしに、ですの」
「はい」
レオノーラは、しばらく、黙っていた。
(――お礼を、言われますのね)
(受け取るのは、あまり、得意ではありませんのよ)
「……行きますわ。午前のうちに」
「かしこまりました」
老執事は、わずかに、目を細めた。
(――先に「渡す」ことは得意でも、「受け取る」ことは、まだ、お慣れでない)
(今日は、そちらを、学ばれる日かもしれませんな)
――――――
診療所の待合室の隅に、その親子は、座っていた。
母親は、三十代半ばほどで、よく手入れされた、けれど、飾り気のない服を着ていた。膝の上に、小さな布包みを載せている。隣には、六つか七つの男の子が、足をぶらぶらさせていた。
レオノーラが入っていくと、母親は、慌てて立ち上がった。
「あの――突然、申し訳ありません。先生にお願いして、お取り次ぎいただきました」
「構いませんのよ。どうぞ、お座りになって」
母親は、座らなかった。代わりに、深く、頭を下げた。
「西区の、リーナと申します。この子の、母親です。先日、西区の先生が、私の言葉を、お手紙に添えてくださったと伺いました。ですが、それだけでは、どうしても、足りない気がして」
男の子が、母親の袖を、つんつん、と引いた。
「かあさん、このひと、おひめさま?」
「こら、失礼でしょう」
「構いませんのよ」レオノーラは、男の子の目の高さに、少し身を屈めた。「お姫様では、ありませんの。……お名前は」
「トーマ」
「トーマ。……ええ、いい名前ですのね」
男の子は、にっと笑って、母親の布包みを、指さした。
「あれ、ぼくがかいたの」
母親が、布包みを、そっと、解いた。中から、一枚の絵が、出てきた。
――――――
厚手の紙に、色鉛筆で、描かれた絵だった。
大きな建物。それは、おそらく、診療所だった。屋根は赤く、窓は四角く、扉の前に、小さな人が立っている。その人は、手に、何かを持っていた。
「これは」
「せんせいの、ノート」
トーマは、胸を張って言った。
「せんせい、ぼくのこと、ぜんぶ、ノートにかいてくれたの。ぼくがね、おなかがいたいとき、なにたべたか、とか。いつから、いたいか、とか。かあさんがね、それをよんで、ないてたの」
母親が、少し、慌てた。
「トーマ」
「でもね、かなしくてじゃないって、いってたの。うれしくて、ないてたの」
レオノーラは、絵を、見た。
建物の隣に、もう一人、描かれていた。背の高い、銀色の髪の、女の人だった。手には、紙を持っている。
「……この方は」
「おひめさま」
トーマは、当然のように、言った。
「ノートのつくりかたを、せんせいにおしえた、おひめさま。かあさんが、そういってた」
レオノーラは、言葉を失った。
(――わたくしが、描かれていますのね)
(会ったことも、ないのに)
(「ノートを作った人」として)
母親が、小さな声で言った。
「……お会いしたことがないのに、勝手に、この子が、描いてしまって。お気を悪くされたら、申し訳ありません。でも、この子が、どうしても、お嬢様に見せたいと」
「いいえ」
声が、少しだけ、掠れた。
「いいえ。……ありがとう、ございます」
――――――
レオノーラは、絵を、受け取った。
紙は、思っていたより、軽かった。けれど、手に載せた途端、不思議な重さがあった。
母親が、続けた。
「実は、私、お礼の品を、お持ちしようと、迷ったのです。でも、お嬢様のような方に、何を差し上げれば、いいのか、分からなくて。結局、この子の絵だけ、持って来ました。……お礼って、渡すことだと思っていたんです」
母親は、トーマの頭に、手を置いた。
「でも、先生から、お聞きしました。お嬢様は、いつも、渡す側で、受け取るのは、あまり、お得意ではない、と。……だから、思ったのです。受け取っていただけて、初めて、私たちは、渡せたことになるのだな、と」
(――受け取っていただけて、初めて)
(渡せたことに、なる)
レオノーラは、絵を、胸の前に、そっと、抱えた。
(わたくしは、これまで――)
(型を渡し、記録を渡し、毎日を渡してきましたのよ)
(でも、渡したものが返ってきたとき、いつも、少し、身構えていましたのね)
(「ありがとう」と言われると、どこかで、「いいえ、当然のことです」と、言い返したくなって)
それが、「渡す」ことの、もう一つの半分を、拒んでいたのかもしれなかった。
「……リーナさん」
「はい」
「この絵、いただきますわ。大切にします」
母親の目が、じわりと、潤んだ。
「ありがとうございます」
「いいえ。……ありがとう、ございます。受け取らせて、いただきますのよ」
言い直した自分に、少し、驚いた。
トーマが、満足そうに、頷いた。
「おひめさま、やっと、うけとった」
「こら、トーマ」
先生が、扉の陰で、笑いをこらえていた。
――――――
二人が帰ったあと、レオノーラは、二十四枚目の記録を開いた。
「――『わからなかったこと』欄に、本日の分」
先生が、横から、そっと言った。
「何か、ございますか」
「ええ」
ペンを取って、書いた。
「――受け取るとは、どういうことか。わたくしは、まだ、よくわからない」
先生は、その一行を、静かに、見た。
「……よろしい欄ですね」
「ええ。先生が作ってくださった欄ですもの」
絵を、記録の束の一番上に、重ねた。
(――視察の方にも、お見せしますかしら)
(それとも――見せないまま、持っていようかしら)
(決めなくて、いいのですのね。今は)
――――――
昼前、周縁部へ向かった。
名前のない金色の八重の花は、七日目を迎えていた。
花の、茎が、傾いて、昨日置いた杭に、ほんの少し、触れていた。結ばれてもいない。寄りかかっているわけでもない。ただ、触れているだけだった。
(――使ったのですのね)
(選んだのですのよ、あなたが)
しゃがんだまま、しばらく、動けなかった。
(わたくしが決めたのではなく、あなたが決めた距離)
(それを、わたくしは、見ているだけ)
(……これも、受け取る、ということなのかしら)
紙に、書いた。
「――茎、杭に触れる。結ばず、寄りかからず、触れるだけ」
風が吹いた。花が、少し、揺れた。杭は、動かなかった。
――――――
昼食の時間、マリアが、トレイを置いて、にやにやしながら、言った。
「お嬢様。今朝、お戻りになったとき、お顔が違いました」
「そうですかしら」
「はい。いつもより、ちょっと、柔らかかったです。……何かありましたか」
レオノーラは、胸の絵のことを、思い出した。
「ええ。絵をいただきましたのよ。小さな男の子が、描いてくれた絵」
「え、見たいです」
見せると、マリアは、ぱあっと、目を輝かせた。
「この、銀色の髪の人、お嬢様ですよね。絵の中のお嬢様、ちょっと笑ってます」
「……わたくしは、笑っていますかしら」
「はい。トーマくん、よく見てますね」
マリアは、絵を、大切そうに、持ち上げて、窓の光に透かした。
「お嬢様。……この絵、すごく、あったかい色ですね」
「ええ」
「昨日までの青と、ぜんぜん違います」
その言葉に、レオノーラは、窓の外を、見た。
白く高い空が、そこにあった。けれど、確かに、今日の空は、昨日までと、違っていた。
「――マリア。今日の空は、『受け取った青』ですのよ」
マリアは、息を止めた。
「……今回は、私の話じゃなかったですけど」
「ええ」レオノーラは、少し笑った。「今日は、トーマが、名前をくれましたのね」
「トーマくんが」
「ええ。それから、あなたが、気づかせてくれましたのよ。絵が、あったかい色だ、と」
マリアは、嬉しそうに、肩をすくめた。
「えへへ。私の話じゃなくても、名前に、ちょっとだけ、入れてもらえるの、嬉しいです」
「光の名前は、三十五種類ですのよ」
「三十五……」
マリアは、指折り数えて、それから、ふっと、息を吐いた。
「……なんか、もう、数えきれないくらい、あったかいですね、お嬢様の冊子」
――――――
午後、オットーが、書斎に、紅茶を運んできた。
机の上の絵を、見て、足を止めた。
「……お嬢様。その絵は」
「トーマという子が、描いてくれましたの」
オットーは、しばらく、絵を見ていた。
「……お嬢様が、お笑いになっておられますな」
「マリアにも、言われましたわ」
「描いた者は、見たままを、描いたのでしょう」
「わたくしは、会ったことも、ないのよ」
「ええ。ですが――」
老執事は、静かに、続けた。
「お嬢様が、これまで、積み重ねてこられたものが、あの子のところまで届いている。そこに、お嬢様が、笑っておられるように、見えたのでしょう」
レオノーラは、紅茶を、一口、飲んだ。
「……オットー」
「はい」
「受け取るのは、難しいのですのね」
「左様でございますね」
「渡すより、難しいですわ」
「それでも、本日、お嬢様は、お受け取りになりました」
老執事は、深く、一礼した。
(――三十年かかりましたが、ようやく、でございますな)
(お嬢様。その絵は、ずっと、お手元に置かれますよう)
――――――
夕方、温室に戻った。
二つの芽が、そこにあった。
エーデルローゼの芽は、葉が、五枚のまま、背を伸ばしていた。
しゃがんで、定規を当てた。
「――高さ、約四十九ミリ。葉、五枚のまま」
子爵の庭の薔薇の、緑の膨らみは、昨日より、少し、色が濃くなっていた。
新しい紙を、取り出した。三十九枚目だった。
左寄りに、書き始めた。右の端を、指二本ぶん、空けて。
「――エーデルローゼ。高さ、約四十九ミリ。葉、五枚のまま。子爵の庭の薔薇。緑の膨らみ、色が濃くなる。今日の光、『受け取った青』」
書き終えて、右端を、見た。
そこに、書きたくなった。
ペンを、少し、持ち上げて、止めた。
(――自分で、書いてしまっては、「空けておく」意味がありませんのね)
(でも、今日だけは)
長く、迷った。それから、ごく小さく、右端に、書き足した。
「――トーマの絵、受け取る」
(……わたくしの字が、わたくしの右端に、入りましたのね)
(でも、これは、わたくしが書いたのではなくて――トーマが書かせたのですのよ)
紙を折って、懐にしまった。
――――――
夜、書斎で、書簡を書いた。
「今日は、五度目の木曜日でした。西区の母親と、六つの男の子が、診療所に来てくださいました。男の子は、わたくしの絵を描いてくれていましたのよ。会ったことも、ないのに。その絵の中のわたくしは、笑っていました。母親が言いました。『受け取っていただけて、初めて、私たちは、渡せたことになる』と。わたくしは、これまで、渡すことばかり考えてきましたけれど、受け取ることも、渡すことの、もう半分だったのですのね。今日の空は、『受け取った青』と名付けましたの。名前をくれたのは、トーマですのよ。あなたの書簡を、いつも、受け取っています。それが、どれほど、わたくしを支えているか、あなたに伝えられているかしら。もし、まだなら、今日、書いておきます。ありがとう。――好意として」
書き終えて、封をした。
(――「ありがとう」を、そのまま、書きましたのね)
(以前なら、「感謝しております」と、書いたはずですのに)
オットーに渡した。
「――今夜中に」
「かしこまりました」
老執事は、書簡を受け取って、少しだけ、間を置いた。
「……お嬢様。明日は、五度目の金曜日でございますね」
「ええ」
「視察の前の、最後の金曜日になります」
「ええ、そうですのね」
「……何事も、ございませんように」
レオノーラは、顔を上げた。
「オットー、何か、聞いていますの」
「いえ。ただの、老いぼれの、勘でございます」
(――珍しいですのね)
(オットーが、「勘」と言うのは)
――――――
夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
木曜日のページを開いた。『繋がる気配』『歩き出した絆』、ほかの二つの青のあとに、新しく一行、加わっていた。
『受け取った青』。
(――五つ、揃いましたのね)
その隣に、トーマの絵を、そっと、立てかけた。
赤い屋根の診療所。ノートを持った人。そして、銀色の髪の、笑っている人。
(――わたくしは、この絵を、ずっと、見ていたいですのね)
診療所の書簡は、二十四枚になっていた。
年輪帳を開いた。二つ目の年輪の、木曜日の位置に、小さく印をつけた。
(――月、火、水、木。四本の枝が、揃いましたのね)
(二つ目の年輪の色は、「受け取る」色かもしれませんのよ)
冊子を、静かに閉じた。
窓の外に、夜の王都があった。西区では、トーマが、母親の隣で、もう眠っているかもしれなかった。診療所では、『わからなかったこと』の欄に、先生が、今日の自分の言葉を、書いているかもしれなかった。周縁部の名もなき花は、杭に、茎の先を触れさせたまま、夜風の中にいるはずだった。
帝国では、殿下が、今夜、「ありがとう」の二文字を、どんなお顔で読むだろう。
(――見られないのが、やはり、少し、惜しいですのね)
(でも、いいのですのよ。受け取ってくださると、信じていますもの)
(明日は、五度目の金曜日ですのね)
(オットーの「勘」が、外れますように)
窓を閉めた。
絵の中の自分は、まだ、笑っていた。
――――――
(第69話 了)
**【次話予告】**
五度目の金曜日。視察まで、あと五日。予告より早く、一人の来訪者が、診療所の扉を開ける――。




