第67話 悪役令嬢、五度目の火曜日に預ける
――――――
火曜日の朝、レオノーラは、窓の外の空より先に、冊子を開いた。
月曜日のページには、五つの青が並んでいた。その隣、火曜日のページには、四つの青があった。
『頼れる青』『確かめなくなった青』――そして、あと二つ。
(――今日が、五つ目ですのね)
(昨日は、迎えられる日でしたのよ)
(今日は――どんな日になりますかしら)
窓の外を見た。空は、昨日より少しだけ、低く見えた。雲が薄く重なって、その隙間から、淡い光が落ちていた。
(――まだ、名前は、来ませんのね)
(それで、いいのですのよ。来るまで、待てばいいだけですのね)
冊子を閉じた。
(「待たれる」を知った翌日は、「待つ」から始めますのね)
(昨日の続きのようで、ちゃんと、違う朝ですのよ)
――――――
朝の茶と一緒に、オットーが文官の報告書を運んできた。
「――お嬢様。診療所の先生から、使いの者が参りました。本日、お時間のある折に、お寄りいただけないか、と」
「何かありましたの」
「いえ。急ぎではない、と。ただ――記録について、ご相談したいことがある、とのことでございます」
レオノーラは、少しだけ、考えた。
(――視察の前日ではなく、一週間前に)
(相談、ですのね)
「行きますわ。午前のうちに」
「かしこまりました。馬車の手配をいたします」
老執事は、深く、一礼した。
(――「相談したい」と、お嬢様のほうから呼ばれるのではなく、先生のほうから言い出された)
(これも、一つの変化でございますね)
――――――
診療所の奥の小部屋に、先生は、記録の束を広げて待っていた。
机の上には、二十二枚の記録と、その横に、見慣れない一枚の紙があった。
「――これを、見ていただきたいのです」
先生が差し出したのは、新しい様式の見本だった。
日付、症状、対応、経過。そこまでは、いつもの記録と同じだった。その下に、見慣れない欄が、一つ増えていた。
「――『わからなかったこと』」
レオノーラは、その欄の名前を、読み上げた。
「はい。視察の方が見える前に、直しておこうと思いまして。良いことばかり並べた記録より、うまくいかなかったことも、わからなかったことも、そのまま残してある記録のほうが、信用していただける気がするのです」
先生は、少しだけ、照れたように笑った。
「……お嬢様が、周縁部の記録に、『色はわからない』とお書きになっていたのを、拝見しました。あれが、ずっと、頭に残っておりまして」
(――わからない、と書くことが)
(診療所の記録にまで、渡っていましたのね)
「先生」レオノーラは言った。「この欄は、とても、良いと思いますのよ」
「本当ですか」
「ええ。わたくしが渡したのは、型だけのつもりでしたけれど――それを、先生が、先生の言葉に直してくださいましたのね。これは、もう、わたくしのものではありませんわ」
先生は、しばらく、何も言わなかった。それから、静かに、頭を下げた。
(――渡したものが、返ってきたのではなく)
(渡した先で、育って、少しだけ、形を変えていましたのね)
二十三枚目の記録の端に、レオノーラは、小さく書き加えた。
「――『わからなかったこと』欄、新設。診療所の先生の発案」
――――――
診療所を出る前に、受付の机の上に、一通の封筒が置かれているのに気づいた。
「それは」
「西区の先生から、昨日届いたものです。記録の様式の件で、お礼を、と」
先生が、封筒を開けて、短い紙を見せてくれた。
『子どもの母親が、記録を見て、泣いていました。何が書いてあったのか、と尋ねたら、「ここに、うちの子の、昨日が書いてある」と。それだけです。先生方のおかげで、記録というものが、誰かの昨日を残す手になりました』
レオノーラは、その紙を、しばらく、見た。
(――「誰かの昨日を残す」)
(わたくしは、数字を残しているつもりでしたのよ)
(でも、読む人にとっては――昨日が、そこにあったのですのね)
紙を、丁寧に、先生へ返した。
「この一通は、視察の方にも、お見せくださいな」
「よろしいのですか。記録ではなく、お礼の手紙ですが」
「ええ。数字の隣に置いておくと、数字が、誰のものか、わかりますのよ」
先生は、深く、頷いた。
――――――
昼前、周縁部へ向かった。
名前のない金色の八重の花は、五日目を迎えていた。外側の花弁が、さらに白く透けて、中心の重なりは、まだ、固く締まったままだった。
(――外から、ほどけていきますのね)
(中は、まだ、ちゃんと、閉じていますのよ)
しゃがんで、花の根元を見た。蕾だった頃に支えていた細い茎が、少しだけ、傾いていた。
(――花の重さで、傾いたのですのね)
周囲を見渡した。近くに、細い棒が一本、落ちていた。いつか、誰かが置いていった杭の残りのようだった。
(――添えますかしら)
(でも――添えたら、わたくしが決めた向きに、育ってしまいますのね)
長く、考えた。結局、棒は、花の傍らに、寄せて、立てかけただけにした。
(「支えます」ではなく、「必要なら、使ってください」ですのよ)
(花に、選んでもらいますのね)
紙に、一行、書いた。
「――茎、わずかに傾く。杭、傍らに置く。どう使うかは、花に任せる」
風が吹いて、花が、少し揺れた。杭は、動かなかった。
――――――
昼食の時間、マリアは、トレイを置くなり、言った。
「お嬢様、聞いてください。さっき、厨房で、変な話を聞いたんです」
「変な話、ですのね」
「はい。うちの隣の家、昔、旅行に出るとき、いつも、うちの母さんに、家の鍵を預けて行ったんです。で、母さんは、その鍵を、裏の棚に、そっと入れておくだけなんです。見張るわけでもなく、毎日見に行くわけでもなく」
「それで」
「それで、何かあったときに、『あの鍵はうちにある』って、ちゃんと、母さんは知ってる。それだけなんです。でも、隣の人は、旅行先で、一度も、家のことを心配しなかったそうです。『鍵は、あの人のところにあるから』って」
マリアは、指を折って、少し、数えた。
「……預けるって、誰かに、全部任せるのとは違う気がするんです。ただ、ここに置いておくから、って、渡しておくだけで。預けられたほうも、特に、何もしないんです。でも、置いてある、っていうことだけで、持ってる人が、安心できる、というか」
(――「ここに置いておく」)
(今朝、診療所の先生が、記録の欄を、自分で足されたこと)
(さっき、花の傍らに、杭を置いてきたこと)
(どちらも――預けた、のですのね)
(手放したのではなく、置いておいた、のですのよ)
「――マリア」レオノーラは言った。「今日の空は、『預けた青』ですのね」
マリアは、目を、ぱちぱちさせた。
「え、鍵の話で、ですか」
「鍵の話で、ですのよ」
「……なんか、母さんが聞いたら、笑うと思います。ただ棚に入れてただけなのに、って」
「ええ。でも、その『ただ』が、一番、確かなところですのよ」
マリアは、頬を、少し、赤くした。
「光の名前は――三十三種類、ですよね」
「ええ。三十三ですのね」
「……増えるの、嬉しいですね。数字が増えるたびに、お嬢様の冊子が、うちの台所みたいに、あったかくなる気がします」
レオノーラは、小さく、笑った。
――――――
午後、書斎で、書類を整えていると、オットーが、一通の書簡を運んできた。
「――お嬢様。帝国から」
レオノーラは、顔を上げた。
(――今日、来ましたのね)
封を開けた。
「レオノーラ。四度目の金曜日から、名前のない日曜日までの手紙を、続けて読みました。あなたの手紙は、いつも、その日の終わりに書かれているのに、読む私には、なぜか、一日の始まりのように思えます。王都で、あなたの記録が、視察を受けるそうですね。私にできることは、何もありません。ただ、一つだけ。私は、昔、あなたに、『期限を守れるかどうか』で、仕事を測っていました。今は、『期限がなくても、続けているかどうか』を、見ています。あなたの記録は、後者です。それが、私の、一番の自慢です。誰にも、言いませんが。――好意として」
レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。
(――「誰にも、言いません」)
(わたくしにだけ、言ってくださいましたのね)
(アドリアンが、「自慢」という言葉を、使いましたのよ)
胸の奥が、静かに、温かくなった。
(――三十年前の彼は、人に、自慢するということを、しなかったはずですのに)
窓の外を、見た。薄い雲の向こうに、淡い光があった。
(――「預けた」ですのね)
(彼も、わたくしに、預けてくださいましたのよ。自慢という、小さな、鍵を)
――――――
夕方、温室に戻った。
二つの芽が、そこにあった。
エーデルローゼの芽は、葉が四枚のまま、わずかに背を伸ばしていた。
しゃがんで、定規を当てた。
「――高さ、約四十五ミリ。葉、四枚のまま」
子爵の庭の薔薇は、咲いていた花が、全て、散っていた。茎の先に、小さな緑の膨らみが、一つ、残っていた。
(――実になる、のですのね)
(咲いて、散って、次に、実を結ぶ)
(散るのは、終わりではなく、預けるための、準備でしたのよ)
懐から紙を取り出した。三十七枚目を開いた。
「――エーデルローゼ。高さ、約四十五ミリ。葉、四枚のまま。子爵の庭の薔薇。花、全て散る。実の兆し。今日の光、『預けた青』」
書き終えて、三十七枚の紙を、ぱらぱらと、めくった。
(――数字が、また、増えましたのね)
(でも、昨日より、紙が、軽く感じますのよ)
(預けたものが、増えたからかもしれませんのね)
紙を折って、懐にしまった。
――――――
夜、オットーが書斎に来た。
「――お嬢様。本日も、一日、お疲れ様でございました」
「ええ。……オットー」
「はい」
「今日は、三つ、預けましたのよ。先生に、型を。花に、向きを。……そして、殿下に、わたくしの毎日を」
老執事は、少しだけ、目を細めた。
「三つ目は、以前から、預けておられたかと存じます」
「そうでしたかしら」
「はい。ただ、本日は、お嬢様のほうから、お気づきになられた、ということかと」
レオノーラは、少し、黙った。
(――そうですのね)
(預けていたのに、気づいていなかったのですのよ)
「――書簡を、書きますわ」
「かしこまりました」
机に向かい、筆を取った。
「今日は、五度目の火曜日でした。診療所の先生が、記録に、『わからなかったこと』という欄を、自分で足されたのです。わたくしが渡した型が、先生の言葉に直されて、返ってきましたのよ。西区からは、母親の言葉が届きました。『ここに、うちの子の、昨日が書いてある』と。わたくしは、数字を残しているつもりでしたのに、昨日を残していたのですのね。今日の空は、『預けた青』と名付けましたのよ。マリアの隣の家の、鍵の話からですの。あなたが、わたくしの毎日を『自慢』と書いてくださったこと、今日の一番の贈りものでしたのね。わたくしも、誰にも言いませんが、あなたに預けた毎日を、少しだけ、誇りに思っておりますのよ。――好意として」
書き終えて、封をした。
(――「誇り」)
(初めて、書きましたのね、この言葉を)
オットーに渡した。
「――今夜中に」
「かしこまりました」
老執事は、それを受け取り、少しだけ、間を置いた。
「……お嬢様。『誇り』という言葉を、お書きになりましたね」
「見えましたの」
「いえ。お顔に、書いてございました」
レオノーラは、少し、目を丸くしてから、笑った。
――――――
夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
火曜日のページを、開いた。
『頼れる青』『確かめなくなった青』、そして、ほかの二つの青のあとに、新しく一行、加わっていた。
『預けた青』。
(――五つ、揃いましたのね)
(火曜日も、月曜日と同じ数になりましたのよ)
診療所の書簡は、二十三枚になっていた。
(――そして、今日、初めて――『わからなかったこと』が、診療所の側から生まれましたのね)
年輪帳を開いた。二つ目の年輪の、月曜日と火曜日の位置に、小さく印をつけた。
(――色は、まだ、決めませんのよ)
(でも、二つ目の年輪は、ひょっとしたら――「渡した先で、育つ」色になるかもしれませんのね)
冊子を、静かに閉じた。
窓の外に、夜の王都があった。診療所は、今夜も、閉まっているはずだった。南区にも、西区にも、北区にも、東区にも、それぞれの『わからなかったこと』が、静かに書き留められているはずだった。周縁部の名もなき花は、傍らの杭を使うかどうか、まだ、決めずにいるはずだった。
帝国では、殿下が、今夜、新しい書簡を読むだろう。「誇り」という言葉を、どんなお顔で。
(――見られないのが、少し、惜しいですのね)
(でも、見られなくても、届いていますのよ)
(明日は、五度目の水曜日ですのね)
(真ん中の日ですのよ)
(どんな青に、会えますかしら)
――――――
(第67話 了)
**【次話予告】**
五度目の水曜日。視察を前に、診療所の記録を整えるレオノーラは、「真ん中」の日に、これまで見落としていたものに気づく――。




