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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第四章「重なるものに、形が見える」

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第67話 悪役令嬢、五度目の火曜日に預ける

――――――


 火曜日の朝、レオノーラは、窓の外の空より先に、冊子を開いた。


 月曜日のページには、五つの青が並んでいた。その隣、火曜日のページには、四つの青があった。


 『頼れる青』『確かめなくなった青』――そして、あと二つ。


 (――今日が、五つ目ですのね)


 (昨日は、迎えられる日でしたのよ)


 (今日は――どんな日になりますかしら)


 窓の外を見た。空は、昨日より少しだけ、低く見えた。雲が薄く重なって、その隙間から、淡い光が落ちていた。


 (――まだ、名前は、来ませんのね)


 (それで、いいのですのよ。来るまで、待てばいいだけですのね)


 冊子を閉じた。


 (「待たれる」を知った翌日は、「待つ」から始めますのね)


 (昨日の続きのようで、ちゃんと、違う朝ですのよ)


――――――


 朝の茶と一緒に、オットーが文官の報告書を運んできた。


 「――お嬢様。診療所の先生から、使いの者が参りました。本日、お時間のある折に、お寄りいただけないか、と」


 「何かありましたの」


 「いえ。急ぎではない、と。ただ――記録について、ご相談したいことがある、とのことでございます」


 レオノーラは、少しだけ、考えた。


 (――視察の前日ではなく、一週間前に)


 (相談、ですのね)


 「行きますわ。午前のうちに」


 「かしこまりました。馬車の手配をいたします」


 老執事は、深く、一礼した。


 (――「相談したい」と、お嬢様のほうから呼ばれるのではなく、先生のほうから言い出された)


 (これも、一つの変化でございますね)


――――――


 診療所の奥の小部屋に、先生は、記録の束を広げて待っていた。


 机の上には、二十二枚の記録と、その横に、見慣れない一枚の紙があった。


 「――これを、見ていただきたいのです」


 先生が差し出したのは、新しい様式の見本だった。


 日付、症状、対応、経過。そこまでは、いつもの記録と同じだった。その下に、見慣れない欄が、一つ増えていた。


 「――『わからなかったこと』」


 レオノーラは、その欄の名前を、読み上げた。


 「はい。視察の方が見える前に、直しておこうと思いまして。良いことばかり並べた記録より、うまくいかなかったことも、わからなかったことも、そのまま残してある記録のほうが、信用していただける気がするのです」


 先生は、少しだけ、照れたように笑った。


 「……お嬢様が、周縁部の記録に、『色はわからない』とお書きになっていたのを、拝見しました。あれが、ずっと、頭に残っておりまして」


 (――わからない、と書くことが)


 (診療所の記録にまで、渡っていましたのね)


 「先生」レオノーラは言った。「この欄は、とても、良いと思いますのよ」


 「本当ですか」


 「ええ。わたくしが渡したのは、型だけのつもりでしたけれど――それを、先生が、先生の言葉に直してくださいましたのね。これは、もう、わたくしのものではありませんわ」


 先生は、しばらく、何も言わなかった。それから、静かに、頭を下げた。


 (――渡したものが、返ってきたのではなく)


 (渡した先で、育って、少しだけ、形を変えていましたのね)


 二十三枚目の記録の端に、レオノーラは、小さく書き加えた。


 「――『わからなかったこと』欄、新設。診療所の先生の発案」


――――――


 診療所を出る前に、受付の机の上に、一通の封筒が置かれているのに気づいた。


 「それは」


 「西区の先生から、昨日届いたものです。記録の様式の件で、お礼を、と」


 先生が、封筒を開けて、短い紙を見せてくれた。


 『子どもの母親が、記録を見て、泣いていました。何が書いてあったのか、と尋ねたら、「ここに、うちの子の、昨日が書いてある」と。それだけです。先生方のおかげで、記録というものが、誰かの昨日を残す手になりました』


 レオノーラは、その紙を、しばらく、見た。


 (――「誰かの昨日を残す」)


 (わたくしは、数字を残しているつもりでしたのよ)


 (でも、読む人にとっては――昨日が、そこにあったのですのね)


 紙を、丁寧に、先生へ返した。


 「この一通は、視察の方にも、お見せくださいな」


 「よろしいのですか。記録ではなく、お礼の手紙ですが」


 「ええ。数字の隣に置いておくと、数字が、誰のものか、わかりますのよ」


 先生は、深く、頷いた。


――――――


 昼前、周縁部へ向かった。


 名前のない金色の八重の花は、五日目を迎えていた。外側の花弁が、さらに白く透けて、中心の重なりは、まだ、固く締まったままだった。


 (――外から、ほどけていきますのね)


 (中は、まだ、ちゃんと、閉じていますのよ)


 しゃがんで、花の根元を見た。蕾だった頃に支えていた細い茎が、少しだけ、傾いていた。


 (――花の重さで、傾いたのですのね)


 周囲を見渡した。近くに、細い棒が一本、落ちていた。いつか、誰かが置いていった杭の残りのようだった。


 (――添えますかしら)


 (でも――添えたら、わたくしが決めた向きに、育ってしまいますのね)


 長く、考えた。結局、棒は、花の傍らに、寄せて、立てかけただけにした。


 (「支えます」ではなく、「必要なら、使ってください」ですのよ)


 (花に、選んでもらいますのね)


 紙に、一行、書いた。


 「――茎、わずかに傾く。杭、傍らに置く。どう使うかは、花に任せる」


 風が吹いて、花が、少し揺れた。杭は、動かなかった。


挿絵(By みてみん)


――――――


 昼食の時間、マリアは、トレイを置くなり、言った。


 「お嬢様、聞いてください。さっき、厨房で、変な話を聞いたんです」


 「変な話、ですのね」


 「はい。うちの隣の家、昔、旅行に出るとき、いつも、うちの母さんに、家の鍵を預けて行ったんです。で、母さんは、その鍵を、裏の棚に、そっと入れておくだけなんです。見張るわけでもなく、毎日見に行くわけでもなく」


 「それで」


 「それで、何かあったときに、『あの鍵はうちにある』って、ちゃんと、母さんは知ってる。それだけなんです。でも、隣の人は、旅行先で、一度も、家のことを心配しなかったそうです。『鍵は、あの人のところにあるから』って」


 マリアは、指を折って、少し、数えた。


 「……預けるって、誰かに、全部任せるのとは違う気がするんです。ただ、ここに置いておくから、って、渡しておくだけで。預けられたほうも、特に、何もしないんです。でも、置いてある、っていうことだけで、持ってる人が、安心できる、というか」


 (――「ここに置いておく」)


 (今朝、診療所の先生が、記録の欄を、自分で足されたこと)


 (さっき、花の傍らに、杭を置いてきたこと)


 (どちらも――預けた、のですのね)


 (手放したのではなく、置いておいた、のですのよ)


 「――マリア」レオノーラは言った。「今日の空は、『預けた青』ですのね」


 マリアは、目を、ぱちぱちさせた。


 「え、鍵の話で、ですか」


 「鍵の話で、ですのよ」


 「……なんか、母さんが聞いたら、笑うと思います。ただ棚に入れてただけなのに、って」


 「ええ。でも、その『ただ』が、一番、確かなところですのよ」


 マリアは、頬を、少し、赤くした。


 「光の名前は――三十三種類、ですよね」


 「ええ。三十三ですのね」


 「……増えるの、嬉しいですね。数字が増えるたびに、お嬢様の冊子が、うちの台所みたいに、あったかくなる気がします」


 レオノーラは、小さく、笑った。


――――――


 午後、書斎で、書類を整えていると、オットーが、一通の書簡を運んできた。


 「――お嬢様。帝国から」


 レオノーラは、顔を上げた。


 (――今日、来ましたのね)


 封を開けた。


「レオノーラ。四度目の金曜日から、名前のない日曜日までの手紙を、続けて読みました。あなたの手紙は、いつも、その日の終わりに書かれているのに、読む私には、なぜか、一日の始まりのように思えます。王都で、あなたの記録が、視察を受けるそうですね。私にできることは、何もありません。ただ、一つだけ。私は、昔、あなたに、『期限を守れるかどうか』で、仕事を測っていました。今は、『期限がなくても、続けているかどうか』を、見ています。あなたの記録は、後者です。それが、私の、一番の自慢です。誰にも、言いませんが。――好意として」


 レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。


 (――「誰にも、言いません」)


 (わたくしにだけ、言ってくださいましたのね)


 (アドリアンが、「自慢」という言葉を、使いましたのよ)


 胸の奥が、静かに、温かくなった。


 (――三十年前の彼は、人に、自慢するということを、しなかったはずですのに)


 窓の外を、見た。薄い雲の向こうに、淡い光があった。


 (――「預けた」ですのね)


 (彼も、わたくしに、預けてくださいましたのよ。自慢という、小さな、鍵を)


――――――


 夕方、温室に戻った。


 二つの芽が、そこにあった。


 エーデルローゼの芽は、葉が四枚のまま、わずかに背を伸ばしていた。


 しゃがんで、定規を当てた。


 「――高さ、約四十五ミリ。葉、四枚のまま」


 子爵の庭の薔薇は、咲いていた花が、全て、散っていた。茎の先に、小さな緑の膨らみが、一つ、残っていた。


 (――実になる、のですのね)


 (咲いて、散って、次に、実を結ぶ)


 (散るのは、終わりではなく、預けるための、準備でしたのよ)


 懐から紙を取り出した。三十七枚目を開いた。


 「――エーデルローゼ。高さ、約四十五ミリ。葉、四枚のまま。子爵の庭の薔薇。花、全て散る。実の兆し。今日の光、『預けた青』」


 書き終えて、三十七枚の紙を、ぱらぱらと、めくった。


 (――数字が、また、増えましたのね)


 (でも、昨日より、紙が、軽く感じますのよ)


 (預けたものが、増えたからかもしれませんのね)


 紙を折って、懐にしまった。


――――――


 夜、オットーが書斎に来た。


 「――お嬢様。本日も、一日、お疲れ様でございました」


 「ええ。……オットー」


 「はい」


 「今日は、三つ、預けましたのよ。先生に、型を。花に、向きを。……そして、殿下に、わたくしの毎日を」


 老執事は、少しだけ、目を細めた。


 「三つ目は、以前から、預けておられたかと存じます」


 「そうでしたかしら」


 「はい。ただ、本日は、お嬢様のほうから、お気づきになられた、ということかと」


 レオノーラは、少し、黙った。


 (――そうですのね)


 (預けていたのに、気づいていなかったのですのよ)


 「――書簡を、書きますわ」


 「かしこまりました」


 机に向かい、筆を取った。


「今日は、五度目の火曜日でした。診療所の先生が、記録に、『わからなかったこと』という欄を、自分で足されたのです。わたくしが渡した型が、先生の言葉に直されて、返ってきましたのよ。西区からは、母親の言葉が届きました。『ここに、うちの子の、昨日が書いてある』と。わたくしは、数字を残しているつもりでしたのに、昨日を残していたのですのね。今日の空は、『預けた青』と名付けましたのよ。マリアの隣の家の、鍵の話からですの。あなたが、わたくしの毎日を『自慢』と書いてくださったこと、今日の一番の贈りものでしたのね。わたくしも、誰にも言いませんが、あなたに預けた毎日を、少しだけ、誇りに思っておりますのよ。――好意として」


 書き終えて、封をした。


 (――「誇り」)


 (初めて、書きましたのね、この言葉を)


 オットーに渡した。


 「――今夜中に」


 「かしこまりました」


 老執事は、それを受け取り、少しだけ、間を置いた。


 「……お嬢様。『誇り』という言葉を、お書きになりましたね」


 「見えましたの」


 「いえ。お顔に、書いてございました」


 レオノーラは、少し、目を丸くしてから、笑った。


――――――


 夜、寝室の文机の上に、冊子があった。


 火曜日のページを、開いた。


 『頼れる青』『確かめなくなった青』、そして、ほかの二つの青のあとに、新しく一行、加わっていた。


 『預けた青』。


 (――五つ、揃いましたのね)


 (火曜日も、月曜日と同じ数になりましたのよ)


 診療所の書簡は、二十三枚になっていた。


 (――そして、今日、初めて――『わからなかったこと』が、診療所の側から生まれましたのね)


 年輪帳を開いた。二つ目の年輪の、月曜日と火曜日の位置に、小さく印をつけた。


 (――色は、まだ、決めませんのよ)


 (でも、二つ目の年輪は、ひょっとしたら――「渡した先で、育つ」色になるかもしれませんのね)


 冊子を、静かに閉じた。


 窓の外に、夜の王都があった。診療所は、今夜も、閉まっているはずだった。南区にも、西区にも、北区にも、東区にも、それぞれの『わからなかったこと』が、静かに書き留められているはずだった。周縁部の名もなき花は、傍らの杭を使うかどうか、まだ、決めずにいるはずだった。


 帝国では、殿下が、今夜、新しい書簡を読むだろう。「誇り」という言葉を、どんなお顔で。


 (――見られないのが、少し、惜しいですのね)


 (でも、見られなくても、届いていますのよ)


 (明日は、五度目の水曜日ですのね)


 (真ん中の日ですのよ)


 (どんな青に、会えますかしら)


――――――


(第67話 了)


**【次話予告】**


五度目の水曜日。視察を前に、診療所の記録を整えるレオノーラは、「真ん中」の日に、これまで見落としていたものに気づく――。

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