第65話 悪役令嬢、二度目の名前のない日曜日を過ごす
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日曜日には、定例の文官報告がない。来客もない。オットーが、朝の業務一覧を差し出すこともない。
「――お嬢様。本日は、何もございません」
「ええ」レオノーラは言った。「わかっていますのよ」
オットーは、少しだけ、目を細めた。
「――何もない、と申し上げるのは、これで五度目でございますね」
「――五度目、ですのね」レオノーラは、その言葉を、繰り返した。
(――一度目は、戸惑いましたのね)
(何もない日に、何をすればよいのか、わかりませんでしたのよ)
(今は――違いますのね)
「――オットー。今日も、診療所へも、周縁部へも、行きませんわ」
「――かしこまりました」
「――前回と、同じですのよ。何をするかは、まだ、決めていませんの。でも――今度は、決めていないことに、戸惑ってはいませんのね」
老執事は、深く、一礼した。
(――「決めていないことに、戸惑わない」)
(一度目の名前のない日曜日から、また一つ、進まれましたね)
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昼前、レオノーラは、庭園へ向かった。
行き着いた先は、いつかアドリアンと薔薇を植えた、あの一角だった。
若木は、先週よりも、また少し、背が伸びていた。
(――前回、ここで、名前をつけていない木ですのねと、気づきましたのね)
(あれから、季節が、一つ巡りましたのよ)
(今日は――違うことを、考えますのね)
若木の隣に、しゃがんだ。
(――この木にも、周縁部の名もなき花にも、名前はありませんのね)
(でも――名前がないことと、そこにないことは、違いますのね)
(この木は、確かに、そこにありますのよ。名前がなくても)
風が、頬を撫でた。曜日の名前を持たない、ただの風だった。
(――曜日の名前がなくても、この風は、確かに、ここにありますのね)
(名前は、後からついてくるものかもしれませんのね)
(――それとも、ずっと、つかないままかもしれませんのよ)
(どちらでも、いいのですのね)
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昼過ぎ、マリアが昼食を持ってきた。
「――今日は、どんな空ですか」
「――名前のない空ですのよ」レオノーラは言った。「でも――前回とは、少し違う気がしますのね」
マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、目を細めた。
「――どう違うんですか」
「――前回は」レオノーラは言った。「名前をつけないことを、初めて選びましたのね。今日は――選ぶというより、もう、それが当たり前になっている気がしますのよ」
マリアは、少しだけ、考えた。
「……それって、うちの実家の裏の川、みたいな感じかもしれません。あの川、地図には名前が載ってないんです。でも、家族はみんな『裏の川』って呼んでて、それで、ちゃんと通じるんですよね。正式な名前がなくても、困ったことなんて、一度もなかったです」
「「正式な名前がなくても、困らない」」レオノーラは言った。「――ええ。それですのね。名前は、確かにするための道具の一つに過ぎませんのよ。道具がなくても、確かなものは、確かなままですのね」
マリアは、少しだけ、窓の外を見た。
「……今日も、名前、つけないんですか?」
「――ええ」レオノーラは言った。「今日は、つけませんのよ。でも――つけないことに、もう、迷いはありませんのね」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、にこりとした。
「――二度目の『名前のない日』、なんだか、余裕がありますね」
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午後、温室に立ち寄った。
二つの芽と、二輪の花が、そこにあった。
植木鉢の前に、しゃがんだ。
冊子は、今日は、持ってこなかった。
(――前回も、そうでしたのね)
(名前のない日は、記録もまた、少し違う形になりますのよ)
(測らない。名付けない。ただ、見る)
エーデルローゼの芽を、しばらく、見た。子爵の庭の薔薇の、二輪の花を、しばらく、見た。
(――変わらず、そこにありますのね)
(記録しなくても、確かに、そこにありますのよ)
(記録は、確かさを作るものではなく――確かさに、後から寄り添うものなのかもしれませんのね)
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夕方、書斎で、オットーと向き合った。
「――お嬢様。本日は、記録すべきことが、何もございません」
「――ええ」レオノーラは言った。「それで、いいのですのよ」
オットーは、少しだけ、間を置いた。
「――前回の名前のない日曜日、お嬢様は『名前がなくても、根はそこにある』とおっしゃいました。今日は、いかがでしょうか」
レオノーラは、その問いを、しばらく、考えた。
「――今日は」レオノーラは言った。「『名前がなくても、困らない』、そちらの方が、近い気がしますのね。マリアの、裏の川の話ですのよ。地図に載らなくても、家族には、ちゃんと通じますのね」
オットーは、深く、一礼した。
(――「名前がなくても、困らない」)
(一度目は、根の存在を、確かめられましたね)
(二度目は――その確かさに、もう、不安を持たれませんね)
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夜、書簡は、書かなかった。
(――前回も、そうでしたのね)
(名前のない日には、書簡も、また、違う形を取りますのよ)
(でも――書かないことも、一つの答えなのですのね)
(今日、何があったかは、明日、月曜日の書簡に、まとめて記しますのよ)
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夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
レオノーラは、それを、手に取った。
開かず、ただ、しばらく、表紙を、見た。
(――今日は、何も書き加えませんのね)
(二度目の、何もない一日ですのね)
(でも――何も書かないことも、この冊子にとって、一つの記録の形かもしれませんのね)
冊子を、文机の上に、そっと戻した。
窓の外に、夜の王都があった。今夜も、穏やかだった。
診療所は、今夜も、どこかで、静かに機能しているはずだった。周縁部の名もなき花は――今夜も、名前のないまま、静かに咲いているはずだった。若木は――今夜も、名前のないまま、少しずつ、育っているはずだった。
(――名前のないものが、こんなにも、たくさん、ありますのね)
(それでも、何も、困りませんのよ)
(――むしろ、豊かなことなのかもしれませんのね)
今日の日曜日を、思った。何もない、と五度目に言われた朝。名前のない若木のそばで過ごした昼前。マリアの「裏の川」の話を聞いた昼。記録せず、ただ見た午後。「困らない」という言葉に辿り着いた夕方。
(――これが、今日の「あったこと」ですのね)
(二度目の、何もない一日の、積み重ねですのね)
(明日は――五度目の月曜日ですのね)
(また、新しい年輪の、次の一枚が、始まりますのよ)
(――それを、楽しみにしていますのね)
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(第65話 了)
次話予告:五度目の月曜日、新しい年輪の中で、また一つ、光の名前が重なります。




