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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第四章「重なるものに、形が見える」

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58/69

第58話 悪役令嬢、名前のない日を歩む

「悪女は正しい」をお読みいただき、ありがとうございます。第五十八話をお届けします。


月曜から土曜まで、六つの名前が出揃った、その次の日。今日は、まだ名前を持ったことのない日です。

――――――

 日曜日の朝、帝国からの書簡は、なかった。

 オットーが朝の茶を運んできたとき、その盆の上に、書簡はなかった。

 (――土曜日の夜に出しましたのね)

 (返信は、また、数日後かもしれませんのね)

 (でも――「まだ来ていない」ですのね)

 窓の外を見た。今日の王都の空は――名前を、まだ、持っていなかった。

 (――月曜日は「一緒にいる」、火曜日は「頼れる」、水曜日は「支える」、木曜日は「繋がる」、金曜日は「灯る」、土曜日は「満ちている」、それぞれに、辿り着きましたのね)

 (今日は――そのどれでもありませんのね)

 (そもそも、今日は、まだ一度も、名前を持ったことのない日ですのね)

 窓の外の、薄い、灰色がかった青を、しばらく、見た。

 (――名前を、探しますかしら)

 (探して、見つけて、また一つ、冊子に加えますかしら)

 (――でも)

 (今日は、そうしなくても、いい気がしますのね)

 (「気がする」ですのね。相変わらず、確認できませんのよ)

 (でも――それでいい、と、初めて、思いましたのね)


――――――

 日曜日には、定例の文官報告がない。来客もない。オットーが、朝の業務一覧を差し出すこともない。

 「――お嬢様。本日は、何もございません」

 「ええ」レオノーラは言った。「わかっていますのよ」

 オットーは、少しだけ、目を細めた。

 「――何もない、と申し上げるのは、これで四度目でございますね。月曜から金曜までの、五本の枝。それを支える土曜日の、根。……本日は、その、さらに外側にある日でございますね」

 「――「外側」ですのね」レオノーラは、その言葉を、繰り返した。

 (――枝でも、根でもない日)

 (月から土までの、一本の木の、外にある日)

 (――でも、木がそこにあることに、変わりはありませんのね)

 「――オットー。今日は、診療所へも、周縁部へも、行きませんわ」

 「――かしこまりました」

 「――何もしない、というわけではありませんのよ。ただ――今日、わたくしが何をするか、まだ、決めていないだけですのね」

 老執事は、深く、一礼した。

 (――「決めていない」を、恐れずに言えるようになりましたね)

 (三十年前のお嬢様なら、決めていないことそのものが、耐えられなかったはずですよ)


――――――

 昼前、レオノーラは、自分の足で、庭園へ向かった。

 巡回でも、視察でもない。ただ、歩きたかった。

 行き着いた先は、いつかアドリアンと薔薇を植えた、あの一角だった。

 帝国から贈られた苗は、まだ若木だった。数年先の花を、まだ、見ることはできない。

 (――「時間がかかるからこそ、確かなものになる」)

 (あの日、庭園で交わした言葉ですのね)

 (あれから、どれだけの「時間」が、積み重なりましたかしら)

 若木の幹に、そっと、触れた。


挿絵(By みてみん)


 (――名前をつけていない木ですのね)

 (種の名前は「エーデルローゼ」ですのに――この、地に植わった若木そのものには、まだ、名前をつけていませんのよ)

 (――このままでも、いいのかもしれませんのね)

 風が、頬を撫でた。曜日の名前を持たない、ただの風だった。


――――――

 昼過ぎ、マリアが昼食を持ってきた。

 「――今日は、どんな空ですか」

 「――さあ」レオノーラは言った。「今日は、まだ、名前をつけていませんのよ」

 マリアは、少しだけ、目を丸くした。

 「――お嬢様が、名前をつけないなんて、珍しいですね」

 「ええ」レオノーラは言った。「月曜から土曜まで、六つの曜日に、それぞれ、確かな名前がつきましたのね。でも――今日は、その輪の外にある日ですのよ。だから――今日だけは、名前を、探さなくても、いい気がしますのね」

 マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、考えた。

 「……なんか、それって、お休みの日そのものって感じですね。うちの実家、日曜日って、特別なことしないんですよ。予定表にも、何も書いてない。でも――だからって、何もない日、ってわけじゃなくて。ただ、家族が、なんとなく、同じ部屋にいる日、っていうか。名前をつけると、なんか、崩れちゃう気がするんです」

 「「名前をつけると、崩れる」」レオノーラは言った。「――ええ。今日は、そういう日なのかもしれませんのね」

 マリアは、少しだけ、窓の外を見た。

 「……お嬢様の一週間、月曜日から積み重なってきましたけど、今日って、その一週間を、ただ、抱きしめてるだけの日、みたいな感じがします。名前をつけて並べるんじゃなくて、ただ、そこにある、みたいな」

 (――「ただ、抱きしめている」)

 (言われて、少し、止まりましたのね)

 (六つの名前を持つ日々を、名前のない今日が、静かに、包んでいますのね)

 「――マリア」レオノーラは言った。「今日も、あなたの言葉から、何かが、開きましたのよ。今日は――名前をつけないことも、また一つの、記録の形なのかもしれませんのね」

 マリアは、少しだけ、にこりとした。

 「――名前をつけない日に、名前をつけない日だって気づけて、よかったです」


――――――

 午後、書斎で、ぼんやりと過ごしていたとき、オットーが、慌てた様子もなく、しかし、いつもより少しだけ、早足で入ってきた。

 「――お嬢様。帝国から、書簡が」

 レオノーラは、顔を上げた。

 (――今日ですのね)

 (土曜日に出した書簡の返信が――「数日後」ではなく、今日、来ましたのね)

 封を、開けた。

「レオノーラ。今日は、こちらでも、名前のない日でした。あなたの手紙が、いつもより早く届いたのは、私が、あなたの三週目の土曜日――「一本の木」の話を読んで、いてもたってもいられず、すぐに書いたからです。月曜から土曜まで、あなたの光が積み重なって、一本の木になったという話を、私は、何度も読み返しました。私の側でも、実は、似たようなことをしていました。毎日、あなたの手紙が来るかどうかに関わらず、その日の空に、名前をつけずに、ただ眺める時間を持つようになったのです。名前をつけることを、あなたから教わりました。そして今、名前をつけないことの豊かさも、あなたから、また教わっている気がします。あなたの「土曜日は根そのもの」という言葉に――私は、今日という、あなたにとっての日曜日を、思いました。もし今日、あなたが何かに名前をつけていないなら、それは、正しいことだと思います。すべてに名前が必要なわけではない、と、私も、ようやく、わかり始めています。返信は、いつもより早く、届いてしまいました。同じ時刻でなくても、届けたかったのです。――好意として」

 レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。

 (――「同じ時刻でなくても」)

 (三十年、期限と時刻を、厳格に管理してきた人が――)

 (「同じ時刻で」という、これまでの決まりごとを、自ら、崩しましたのね)

 (――「崩す」ことも、また、一つの、正しさですのね)

 窓の外を、見た。

 (――今日という日に、名前をつけなくても)

 (アドリアンが、同じ日に、同じことを、していましたのね)

 (それこそが――名前より、確かなことかもしれませんのね)


――――――

 夕方近く、温室に戻った。

 二つの芽が、そこにあった。

 植木鉢の前に、しゃがんだ。

 エーデルローゼの芽は――先週より、わずかに高くなっていた気がした。葉が、三枚のままだった。

 子爵の庭の薔薇は――昨日咲いた一輪の花が、まだ、そこにあった。萎れる気配は、まだ、なかった。

 名もなき新芽には――昨日見つかった、小さな蕾があった。

 懐から紙を取り出した。二十九枚目を開いた。

 「――エーデルローゼ。高さ、約三十八ミリ。葉、三枚のまま」

 書いて、止まった。

 いつもなら、続けて「今日の光、〇〇」と書くところだった。

 筆を、少しだけ、止めた。

 (――今日は、書きませんのね)

 (光の名前を、つけませんのね)

 「――今日は、名前をつけません。それでも、確かに、ここに、育っていますのね」

 書き終えて、二十九枚の紙を、ぱらぱらと、めくった。

 (――光の名前は、今日も、二十五種類のままですのね)

 (増えないことも――一つの、記録の形ですのね)

 紙を、丁寧に折って、懐にしまった。

――――――

 夜、オットーが書斎に入ってきた。

 「――お嬢様。本日の記録についてでございますが」

 「ええ」

 「――本日は、診療所からの報告も、周縁部の報告も、ございません。温室の記録には、二十九枚目が加わりましたが……光の名前は、記されておりませんね」

 「――ええ」レオノーラは言った。「今日は、つけませんでしたのよ」

 オットーは、少しだけ、目を細めた。

 「――なぜでございましょう」

 「――名前をつけることは、これまで、わたくしにとって、確かめる方法でしたのね」レオノーラは言った。「見て、感じて、言葉にして、初めて、そこにあると信じられましたのよ。でも――今日、わかりましたのね。名前をつけなくても、そこにあるものは、あるのですのよ。木は、枝や根に名前をつけなくても、確かに、立っていますものね」

 老執事は、深く、深く、一礼した。

 (――「名前をつけなくても、そこにある」)

 (三十年間、あらゆることに名前と数字をつけて管理してこられたお嬢様が――)

 (今、名前をつけないという選択を、初めて、自らなさいましたよ)

 「――お嬢様。帝国からの書簡が、いつもより早く届きましたこと、お慶び申し上げます」

 「――ええ」レオノーラは言った。「「同じ時刻で」という言葉も、今日は、崩れましたのね。でも――崩れたことが、寂しくはありませんのよ。むしろ――ようやく、決まりごとより、確かなものに、辿り着いた気がしますのね」

 オットーは、静かに、微笑んだ。

 (――「決まりごとより、確かなもの」)

 (お嬢様が、また一つ、ご自身の管理の枠を、静かに、広げられましたね)


――――――

 夜、書簡を書いた。

「アドリアン。今日は、初めての日曜日でした。「初めての」と書きましたのは、これまで、月曜日から土曜日までは、二度、三度と重ねてきましたのに、日曜日だけは、まだ一度も、名前を持ったことがなかったからですのよ。今日、わたくしは、あえて、名前をつけませんでした。エーデルローゼも、子爵の庭の薔薇も、名もなき新芽も、名前のない光の中で、確かに、そこにありましたのよ。あなたの書簡が、いつもより早く届いたこと、嬉しく思いましたのね。「同じ時刻で」という決まりごとが崩れても、届いたという事実は、確かに、ここにありますのよ。月曜日から土曜日まで、一本の木として、六つの枝と根が揃いましたのね。今日は、その木を包む、名前のない風のような日でしたのよ。明日は、四度目の月曜日ですのね。木が、また一つ、年輪を重ねる日ですのよ。今日という、名前のない日があったからこそ、明日の年輪も、確かなものになる気がしますのね。返信は、また、いつもの通り、数日後かもしれません。でも――同じ時刻でなくても、構いませんのよ。――好意として」

 書き終えて、レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。

 (――「初めての日曜日」から、書き始めましたのね)

 (「三度目の」ではなく、「初めての」ですのね)

 (月曜から土曜までとは、違う書き出しが、生まれましたのね)

 封をして、オットーに渡した。

 「――今夜中に」

 「かしこまりました」

 オットーは、それを受け取って、少しだけ、間を置いた。

 「――「初めての日曜日」でございますね。六日間の「三度目の」とは、また違う響きがございますよ」

 「――ええ」レオノーラは言った。「「三度目の」は、重ねてきたものの証ですのね。でも――「初めての」も、また、大切な言葉ですのよ。何にでも、最初の一度は、ありますものね」

 老執事は、深く、一礼した。

 (――「何にでも、最初の一度は、ある」)

 (お嬢様は、今、重ねることと、初めてであることの、両方を、同じ手のひらの上に、置いておられますよ)


――――――

 夜、寝室の文机の上に、冊子があった。

 レオノーラは、それを、手に取った。

 最初のページから、ゆっくり、読んだ。

 「今日は晴れ」から始まって、光の名前が並んでいた。二十五種類、月曜から土曜まで、それぞれ三枚ずつ、揃っていた。

 (――今日のページには、名前がありませんのね)

 (それでも――高さと、葉の枚数は、確かに、記されていますのよ)

 (名前のない事実も、また、確かな記録ですのね)

 診療所の書簡は、十五枚のまま、増えていなかった。

 (――今日は、増えませんでしたのね)

 (それでいいのですのよ。すべての日が、何かを積み重ねる日でなくても、いいのですのね)

 冊子を、静かに、閉じた。

 窓の外に、夜の王都があった。今夜は、穏やかだった。

 南の診療所は、今夜も、静かに閉まっているはずだった。西区でも、渡された仕組みが、誰かの手の中で、静かに息をしているはずだった。周縁部の名もなき命は――今夜も、蕾を抱いたまま、名前を待たず、育っているはずだった。

 温室には――二十九枚の記録を持つ、二つの芽と、一輪の花があった。

 帝国では――今夜、殿下が、この「名前のない日曜日」という言葉を、もう、読んでおられるだろうか。それとも、まだ、これから読むのだろうか。

 (――今日という日に、順番は、あまり、重要ではない気がしますのね)

 (届く前から、もう、繋がっていますのね)

 冊子を、文机の上に、戻した。

 今日の日曜日を、思った。名前を探さなかった朝。名前のない若木に触れた昼前。マリアと「名前をつけないことの豊かさ」を語った昼。いつもより早く届いた書簡を読んだ午後。光の名前をつけずに記録を終えた夕方。「決まりごとより確かなもの」について語り合った夜。

 (――これが、今日の「あったこと」ですのね)

 (名前のない日の、それでも確かな、積み重ねですのね)

 (明日は、四度目の月曜日ですのね)

 (一本の木が――また、新しい年輪を、重ねますのね)

 (今度の年輪は、どんな色をしていますかしら)

 (――それを、楽しみにしていますのね)

 (名前をつけることも、つけないことも、どちらも、楽しみにできる自分が、ここにいますのね)

 (――以前は、なかった感覚ですのよ)


――――――

(第五十八話 了)

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


月曜から土曜まで、六本の枝と根がすべて名前を持って揃った直後に訪れる、名前のない日曜日。今回はあえて、レオノーラに「名前をつけない」という選択をさせてみました。マリアの「名前をつけると、崩れちゃう気がする」という一言や、アドリアンが「同じ時刻で」という自分自身の決まりごとを崩してまで手紙を早く届けた場面は、書いていて印象に残ったところです。


光の名前は二十五種類のまま、診療所の記録も十五枚のまま——増えないことも、一つの記録の形として描きました。明日はいよいよ四度目の月曜日、木がまた新しい年輪を重ねていきます。


もしよろしければ、感想やブックマークをいただけますと嬉しいです。次回(土曜12:00予定)もどうぞお楽しみに。

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