第42話 悪役令嬢、名前を聞く
水曜日の朝、帝国からの書簡は、なかった。
オットーが、朝の業務一覧を持ってきたとき、その紙の上に、書簡はなかった。
(――一日、でしたのね)
(火曜日の「気合いが馴染んだ」を書いて――今日は、まだ届いていませんのね)
(でも――「届いていない」は、「ない」と同じではありませんのね)
(来る、のですのよ)
今日の王都の空は、水曜日だった。
(――また、おかしな言い方をしていますのね)
(でも――水曜日の空は、月曜日とも、火曜日とも、違いますのね)
(少し、週の真ん中にいる感じがしますのね。どちらにも傾いていない、落ち着いた感じですのね)
――――――
水曜日は、定例の文官報告が一件と、周縁部の巡回があった。
オットーが、朝の業務一覧を差し出した。
「――今日の予定は、以上でございます」
「わかりましたわ」
レオノーラは、一覧を受け取った。
(――水曜日にも、「庭の時間」が、ありますのね)
(先週から始まりましたのね。温室と周縁部の巡回を、自分のための時間と名付けて)
(今日も、ありますのね)
「――オットー」
「はい」
「――帝国からの書簡が届きましたら、すぐに知らせてください。温室におりましても」
老執事は、少しだけ、目を細めた。
(――「温室におりましても」)
(以前のお嬢様は、庭の時間の最中に書簡を受け取ることを、「いつでも」とは仰いませんでした)
(今は――どこにおられても、届いたらすぐに、という言葉が、自然に出てまいりますね)
「――かしこまりました」
――――――
午前中の定例報告は、周縁部第一区の緑地化工事の進捗だった。
「担当者からの所見:『今週、遊歩道沿いに植えた低木の一部に、新芽が出てきました。予定より一週間早い変化で、土の状態が思ったより良かったかもしれません』」
レオノーラは、その言葉を、もう一度、読んだ。
(――「予定より一週間早い」)
(計画より早く来た変化ですのね)
(でも――「土の状態が思ったより良かったかもしれません」という推測が、そこに添えてありますのね)
(「かもしれない」が、今では当たり前のように報告に入っていますのね)
「――オットー」
「はい」
「――記録してください。「予定より一週間早い」ということと、「土の状態が良かったかもしれない」という推測を、両方。それと――今日が水曜日であることも」
「――かしこまりました」
老執事は、それを書き留めながら、少しだけ、間を置いた。
(――「予定より早い」ことも、「かもしれない」も、どちらも記録に入る)
(以前なら、確認できた事実だけを残して、残りは切り捨てておりました)
(今は――不確かなものが、記録の一部として、自然に並んでいますね)
――――――
昼過ぎ、マリアが昼食を持ってきた。
「――今日は、お天気ですね」
「ええ」レオノーラは言った。「水曜日の空ですのよ」
マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、目を細めた。
「――また曜日で呼んでいますね。今週, 毎日そうですよね」
「ええ」レオノーラは言った。「おかしいとはわかっていますのよ。でも――水曜日の空は、週の真ん中という感じがしますのね。どちらにも急いでいない、という」
マリアは、少しだけ、窓の外を見た。
「……確かに、水曜日って、そういう感じありますよね。月曜日みたいに気合い入れなくていいし、木曜日みたいにもうすぐ週末でもないし」
「ええ」レオノーラは言った。「「どちらにも傾いていない」とでも言いますかしら」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、首をかしげた。
「――「傾いていない」って、でも、ちょっと寂しい感じもしませんか。真ん中って、宙ぶらりんな感じもするじゃないですか」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(――「宙ぶらりん」)
(そういう感じ方も、ありますのね)
(「傾いていない」は、安定しているとも、宙ぶらりんとも、どちらにも取れますのね)
「……そうですのね」レオノーラは言った。「でも――わたくしには、今日は「安定している」という感じがしますのよ。先週の土曜日に初めての休日を持って、月曜日に土曜日の記憶が残っていて、火曜日に「気合いが馴染んだ」と感じて――今日は、その流れの中の真ん中、という感じがしますのね」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。
「――「流れの中の真ん中」。それ、「宙ぶらりん」より、ずっといいですね」
「ええ」レオノーラは言った。「言ってから、気づきましたのね」
(――また「言ってから、気づく」ですのね)
(「流れの中の真ん中」は、整えた言葉では、ありませんでしたのに)
(でも――間違えていない気がしますのよ)
――――――
午後、温室に向かった。
廊下の窓の外は、今日も、明るかった。光が、柔らかく、まっすぐに差し込んでいた。
(――「まっすぐ」ですのね)
(先週金曜日の「まっすぐな光」と、似ていますのね)
(でも――今日の「まっすぐ」は、少し、静かですのね。週の真ん中の、落ち着いた「まっすぐ」ですのね)
(同じ言葉でも、文脈が違いますのね)
温室に入ると、二つの芽が、そこにあった。
植木鉢の前に、しゃがんだ。
エーデルローゼの芽は――昨日と変わらなかった。高さも、葉の数も、同じだった。でも、光の当たり方が今日は少し違っていて、葉の表面に、きのうより少し、艶があるような気がした。
(――「艶があるような気がする」)
(「気がする」が、また出てきましたのね)
(「葉が大きくなった気がする」の次の日に、「艶がある気がする」ですのね)
(「気がする」が、確かに、育っていますのよ)
子爵の庭の薔薇の芽は――葉が四枚のままだった。でも、昨日より少し、全体の色が深くなっていた気がした。
(――「色が深くなった気がする」)
(先週の雨の後から、色のことを記録し始めましたのね)
(今日も、色ですのね)
懐から紙を取り出した。十三枚目を開いた。
「――エーデルローゼ。高さ、約二十三ミリ。葉、三枚。変化なし。葉に艶がある気がする。今日の光、流れの中の真ん中」
書いて、止まった。
「流れの中の真ん中」
(――光の名前に、なりましたのね)
(マリアとの昼の話から、出てきた言葉ですのね)
(月曜日の「気合いの入った青」も、火曜日の「気合いが馴染んだ光」も――侍女との会話が、光の名前を生みましたのね)
(今日も、そうですのね)
「――子爵の庭の薔薇。高さ、約十ミリ。葉、四枚。色が深くなった気がする。今日も、流れの中の真ん中の光」
書き終えて、十三枚の紙を、ぱらぱらと、めくった。
「今日は晴れ」「今日も曇り」「今日は薄曇り」「今日は雨」「また今日は晴れ」「今日の光、まっすぐ」「今日の光、穏やか」「月曜日の光」「気合いが馴染んだ光」と続いて――今日、「流れの中の真ん中」が加わった。
(――十種類に、なりましたのね)
(数えていなかったのに、わかりましたのね)
(殿下に、知らせたくなりますのね)
紙を、丁寧に折って、懐にしまった。
――――――
温室を出てしばらくすると、マリアが廊下で待っていた。
「――お嬢様。帝国からの書簡が、届きました」
レオノーラは、それを、受け取った。
(――届きましたのね)
(温室の時間の後に、届きましたのね)
(それが、今日の、順番でしたのね)
封を開けた。
「レオノーラ。「静かに動いている」という名前を、まだ探しています。でも今日、少し違う方向から考えていました。あなたの「葉が大きくなった気がする」という記録のことを。「気がする」というのは、確認の手前にある言葉だと思っていました。でも――確認できたら「気がする」は「確認した」に変わる。では、確認できないまま「気がする」が続いたら、それは何でしょうか。消えるわけではない。あったことは、あった。「気がする」が続くこと自体が、何かの名前になるかもしれない気がしています。まだわかりません。水曜日のことを、何か書いてきてください。返信は、また、数日後になるかもしれません。同じ時刻で。――好意として」
レオノーラは、「「気がする」が続くこと自体が、何かの名前になるかもしれない気がしています」という一文を、もう一度、読んだ。
(――「「気がする」が続くこと」)
(消えない「気がする」)
(確認はできないけれど、ずっとある「気がする」)
(それが――「静かに動いている」の、もう一つの形かもしれませんのね)
(「気がする」という言葉が、記録の中で育っている、と思っていましたのに)
(殿下は、その「気がする」の正体を、もう一段深く掘っておられますのね)
書簡を、静かに、折り畳んだ。
――――――
夕方近く、マリアが書斎に茶を持ってきた。レオノーラは、そのとき、窓際の椅子に、座っていた。
「――今日の書簡、どんな内容でしたか」
「「気がする」という言葉について、でしたのね」レオノーラは言った。
マリアは、椅子を引いて、少しだけ、横に座った。
「――「気がする」、ですか」
「ええ」レオノーラは言った。「「気がする」が確認できたら「確認した」に変わる。でも、確認できないまま「気がする」が続いたら――それは何でしょう、と殿下はお書きになりましたのよ」
マリアは、少しだけ、考えた。
「――確認できない「気がする」が、ずっと続く……。なんか、「信じている」みたいな感じですよね」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、止まった。
(――「信じている」)
(確認できないまま、消えずに続く「気がする」は――「信じている」)
(そういう言い方が、できますのね)
「……マリア」
「はい」
「――今日、あなたが言ったことが、また、名前になりそうですのよ」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。
「――今週、それ多くないですか」
「ええ」レオノーラは言った。「月曜日の「気合いの入った青」も、火曜日の「気合いが馴染んだ光」も――あなたとの昼の話から出てきましたのね。今日も、「流れの中の真ん中」と「信じている」が、ここから出てきましたのね」
マリアは、少しだけ、にこりとした。
「――わたし、名前を産んでるんですか」
「産んでいる、とは少し違いますのね」レオノーラは言った。「――でも、あなたの言葉が、わたくしの中にある何かを開いている、という感じがしますのよ。殿下の言葉も、そうですのね。誰かの言葉が、自分では見えていなかった言葉を、引き出してくれますのね」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、黙った。
「――お嬢様、それって、すごいことだと思いますよ」
「何がですの?」
「以前のお嬢様って、誰かの言葉を聞いて自分の考えを変えることが、あんまりなかったと思うんですよね。自分の中で全部決めてた感じがして」
レオノーラは、それを聞いて、しばらく、黙った。
(――そうですのね)
(以前は、言葉は自分の中で完結していましたのね)
(整えてから出す言葉は、誰かによって変わるものではありませんでしたのね)
(精度は――誰かによって変わるものではありませんでしたのね)
(でも――今は、誰かの言葉が、自分の中の何かを開く)
(それが、「受け取る」ということですのね)
「……そうかもしれませんのね」レオノーラは言った。「――「受け取る」ことが、できるようになりましたのね」
――――――
夜、書簡を書いた。
「アドリアン。今日は水曜日でした。「気がする」が続くことについて、受け取りました。今日、侍女に「確認できない「気がする」が続くのは、「信じている」みたいな感じ」と言われましたのよ。「信じている」、という言葉が、今日、わたくしの中に入ってきましたのね。温室の記録は十三枚目になりました。エーデルローゼの葉に「艶がある気がする」と書きました。子爵の庭の薔薇の色が「深くなった気がする」と書きました。どちらも「気がする」ですのね。確認できないまま続いている「気がする」は――信じているのかもしれませんのね。今日の光を「流れの中の真ん中」と名付けました。土曜日、月曜日、火曜日と続いてきた流れの、真ん中にいる感じがしましたのよ。光の名前が十種類になりましたのね。返信は、また、数日後かもしれません。同じ時刻で。――好意として」
書き終えて、レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。
(――「今日は水曜日でした」から、書き始めましたのね)
(土曜日、月曜日、火曜日、水曜日と――曜日が、続きましたのね)
(一週間が、少しずつ、埋まっていきますのね)
封をして、オットーに渡した。
「――今夜中に」
「かしこまりました」
オットーは、それを受け取って、少しだけ、間を置いた。
「――お嬢様。「信じている」という言葉が、書簡の中に、ございましたが」
「ええ」
「――三十年間、お嬢様の言葉の中に、「信じている」という表現が入ったことは、ございませんでした」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
「――そうですか」
「はい。いつも、「確認した」か「未確認」か、いずれかでございました」
「……今日、侍女に教わりましたのね」レオノーラは言った。「確認できないまま続く「気がする」は、信じている、ということかもしれない、と。――確かに、そうかもしれませんのね。温室の芽のことを、わたくしは確認しながら、同時に、信じていますのね」
老執事は、深く、一礼した。
(――「信じている」)
(三十年間、確認できることしか、認めてこられませんでした)
(今は――確認できないことを、信じる、とお言葉になりました)
(それが――「静かに動いている」ということの、名前に、一番近いかもしれませんね)
――――――
夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
レオノーラは、それを, 手に取った。
最初のページから、ゆっくり、読んだ。
「今日は晴れ」があった。「今日も曇り」があった。「今日は薄曇り」があった。「今日は雨」があった。また「今日は晴れ」があった。「今日の光、まっすぐ」があった。「今日の光、穏やか」があった。「月曜日の光」があった。「気合いが馴染んだ光」があった。
そして、今日――「流れの中の真ん中」が、加わった。
(――十種類、ですのね)
(殿下に、今日の書簡で、知らせましたのね)
(殿下は、七種類のときに数えてくださっていましたのね)
(今日、十種類になったことを、殿下はいつ数えてくださるのでしょうかしら)
患者の書簡が、挟まれていた。医師の言葉があった。「踏まれていた土地の記憶」の記録があった。その次のページに、今日の記録があった。
「エーデルローゼ。高さ、約二十三ミリ。葉、三枚。変化なし。葉に艶がある気がする。今日の光、流れの中の真ん中」
「子爵の庭の薔薇。高さ、約十ミリ。葉、四枚。色が深くなった気がする。今日も、流れの中の真ん中の光」
(――「気がする」が、二つ、ありますのね)
(「葉に艶がある気がする」と「色が深くなった気がする」)
(どちらも確認できませんのね。でも――消えませんのね)
(これが、「信じている」ということかもしれませんのね)
冊子を、静かに、閉じた。
窓の外に、夜の王都があった。今夜は、穏やかだった。
南の診療所は今夜も機能しているはずだった。西区の水路は今夜も通っているはずだった。周縁部の遊歩道には――今日、予定より一週間早く、低木の新芽が出ていた。
温室には――十三枚の記録を持つ、二つの芽があった。一方は葉に艶が出てきた気がする。一方は色が深くなった気がする。
帝国では――今夜、殿下が、「気がする」の正体を、まだ、考えておられるだろうか。
(――「信じている」という言葉を、今夜の書簡に書きましたのね)
(殿下が、それを読んでくださるのは、明後日ですのね)
(「信じている」という言葉が、届くまでの間も――静かに動いていますのね)
(それが、わかりますのよ)
冊子を、文机の上に、戻した。
今日の水曜日を、思った。「流れの中の真ん中」という光の名前が生まれた朝。「予定より早い」新芽の記録をした午前。「信じている」という言葉をマリアから受け取った夕方。「気がする」の連なりを記録した夜。
(――これが、今日の「あったこと」ですのね)
(水曜日の、積み重ねですのね)
(明日は木曜日ですのね)
(木曜日は――どんな感じの日でしょうかしら)
(――それを、楽しみにしていますのね)
(以前は、なかった感覚ですのよ)
――――――
(第四十二話 了)




