第39話 悪役令嬢、週末を持つ
土曜日の朝、帝国からの返信が、届いた。
オットーが、それを差し出すとき、一言添えた。
「――金曜日にお出しになった書簡への、お返事でございます」
レオノーラは、それを受け取った。
(――一日、でしたわ)
(「まっすぐな光」を書いて、今日、届く)
封を開けた。
「レオノーラ。「まっすぐな光」、受け取りました。空の名前でなくても、今日の光の名前で、構わないと思います。光には、光の名前があっていい。「クラーレ・モルゲン」も、空の名前ではなく、朝の名前にしようとして、そうなりました。今週、あなたの記録の言葉が、七種類になりましたか。「薄曇り」「雨」「晴れ」「まっすぐな光」と、それ以前の言葉たち。数えたわけではありませんが、そんな気がしています。今日の帝国は、静かです。特に名前をつけるべき空でも、光でもありません。でも――静かであることには、静かであることの名前がある気がして、まだ見つかっていません。返信は、また、数日後になるかもしれません。同じ時刻で。――好意として」
レオノーラは、「静かであることには、静かであることの名前がある気がして、まだ見つかっていません」という一文を、もう一度、読んだ。
(――まだ、見つかっていない)
(今日も、殿下は、名前を探しておられますのね)
(「クラーレ・モルゲン」が決まっても――次の名前を、もう、探しておられる)
窓の外を見た。今日の王都の空は、どちらでもなかった。晴れでも、曇りでも、薄曇りでも、雨でもなかった。
(――これが、「静か」ですのね)
(名前のない、落ち着いた空ですわ)
書簡を、静かに、折り畳んだ。
――――――
土曜日は、定例の文官報告がなかった。
オットーが、朝の業務一覧を持ってきたとき、その紙は、いつもより、短かった。
「――今日の予定は、以上でございます」
レオノーラは、その一覧を、見た。三件、あった。いずれも、午前中に片付く案件だった。
(――午後が、空いていますのね)
(土曜日は、いつも、こうでしたの)
(でも――以前は、空いた時間に、別の書類を入れていましたのね)
「――わかりましたわ」
「本日は、温室の記録も、お時間がございましたら」オットーが、少しだけ、間を置いた。「――十枚目に、なりますかと」
「ええ」レオノーラは言った。「午後に、参りますのね」
――――――
午前中の三件を、終えた。
最後の件は、周縁部第一区への補助資材の確認書類だった。署名をして、オットーに渡した。
「――以上ですの?」
「はい。本日は、以上でございます」
レオノーラは、少しだけ、書斎の中を見た。
書類の束が、机の隅に、三つあった。来週の案件だった。今すぐ手をつけることもできた。
(――できますのね)
(でも――今日の午後は、来週の書類のためにある、とは決めていませんでしたわ)
「――オットー」
「はい」
「――今日の午後は、温室に参ります。その後は、特に予定を入れないでください」
老執事は、少しだけ、目を細めた。
(――「特に予定を入れないでください」)
(この言葉が、お嬢様の口から出るようになったのは、いつからでしょうか)
(以前は、空白は「処理すべき不足」でございましたから)
「――かしこまりました」
――――――
昼過ぎ、マリアが昼食を持ってきた。
「――今日は、午後がお休みなんですか?」
「お休みとは、少し違いますのね」レオノーラは言った。「温室には参りますわ。ただ――その後は、何もないのですの」
マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、首をかしげた。
「――何もない午後って、どうするつもりですか」
「わかりませんの」レオノーラは、正直に言った。「そういう午後を、持ったことが、ありませんでしたもの」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、止まった。
「――本当に、初めてですか」
「ええ」レオノーラは言った。「土曜日の午後は、いつも、来週の準備でしたのね。でも――今日は、来週の書類に手をつけるとは、決めていませんでしたの」
「じゃあ、今日、どんな午後になるか、まだわからないんですね」
「ええ」レオノーラは言った。「――わからないまま、迎えようかと思いますのね」
マリアは、にこりとした。
「――それ、少し前のお嬢様なら、気持ち悪くて仕方なかったと思います」
「ええ」レオノーラは、少しだけ、考えた。「――今は、少し、楽しみにしていますのよ」
――――――
午後、温室に向かった。
廊下の窓の外は、今日も、静かだった。光は昨日ほどまっすぐではなかったが、穏やかに差し込んでいた。
(――昨日の「まっすぐ」でも、一昨日の「晴れ」でも、ない)
(今日は――「穏やか」ですのね)
(それが、今日の光の名前かもしれませんの)
温室に入ると、二つの芽が、そこにあった。
植木鉢の前に、しゃがんだ。
エーデルローゼの芽は――昨日より、また、わずかに高くなっていた。葉が、三枚のままだった。でも、全体として、何か、落ち着いた佇まいがあった。
(――「落ち着いた佇まい」というのは、記録になりますかしら)
(数字でも、色でも、光でもなく――雰囲気、ですのね)
(でも――今日、確かに、そう見えましたの)
子爵の庭の薔薇の芽は――葉の縁が、引き続き広がっていた。高さに大きな変化はなかったが、全体が、少し、丸みを持っていた。
懐から紙を取り出した。十枚目を開いた。
「――エーデルローゼ。高さ、約二十二ミリ。葉、三枚。落ち着いた佇まい。今日の光、穏やか」
書いて、止まった。
「落ち着いた佇まい」
(――また、測れない言葉を、書きましたのね)
(「気がする」があって、「丸み」があって、「艶」があって――今日は、「佇まい」ですのね)
(こういう言葉が、増えていますのね)
「――子爵の庭の薔薇。高さ、約十ミリ。変化なし。全体に丸み。今日の光、穏やか」
書き終えて、十枚の紙を、ぱらぱらと、めくった。
最初は「今日は晴れ」だった。
次第に、「今日も曇り」「今日は薄曇り」「今日は雨」「今日は晴れ」「今日の光、まっすぐ」と続いた。
今日――「今日の光、穏やか」が、加わった。
(――七種類に、なりましたのね)
(殿下が、「七種類になりましたか」とお書きになりましたの)
(数えたわけではない、と書いてあったのに――殿下には、わかっていたのですわ)
紙を、丁寧に折って、懐にしまった。
――――――
温室を出た後、レオノーラは、廊下を歩いた。
書斎には、戻らなかった。
(――どこへ、参りましょうか)
(以前なら、こういう問いが、浮かぶことは、ありませんでしたのね)
(行くべき場所は、いつも、決まっていましたもの)
廊下の突き当たりに、南向きの窓があった。王都を、少し、見渡せる窓だった。
レオノーラは、そこで、立ち止まった。
今日の王都は、静かだった。南区の方角には、煙突の煙が、緩やかに上がっていた。西区の水路は、この距離からは見えないが、今日も通っているはずだった。周縁部の緑地には、苗が、土の中で根を張っているはずだった。
(――みんな、今日も、あるのですわ)
(わたくしが今日、書類を処理していなくても)
(今日の午後が何もなくても)
(――南区の診療所は、今日も機能しているのですの)
それが、少し、不思議な感じがした。でも、不思議なだけで、不快ではなかった。
(――わたくしの午後の空白と、王都の機能は、関係がないのですわ)
(それが、当たり前のことなのですけれど――今日、初めて、実感しましたのね)
しばらく、そこに、立っていた。
――――――
夕方近く、マリアが、書斎に茶を持ってきた。レオノーラは、そのとき、窓際の椅子に、座っていた。
「――あれ。書き物をされていないんですか」
「ええ」
マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、レオノーラを見た。
「――何をされていたんですか」
「窓の外を、見ていましたのね」レオノーラは言った。「それから――殿下の書簡を、もう一度、読みましたのね。それだけですわ」
マリアは、椅子を引いて、少しだけ、横に座った。珍しいことだった。
「――お嬢様。それって、休日ですよね」
「そうかもしれませんのね」レオノーラは言った。「でも――休日というには、何もしなさすぎる気がして」
「何もしないのが、休日だと思いますけれど」
「でも――温室に行きましたのよ。記録も、しましたの」
マリアは、少しだけ、笑った。
「――それはお嬢様の場合、休日の一部だと思います」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(――「休日の一部」)
(温室が、休日に、なり得る)
(以前は、温室の記録は、業務でしたのに)
「――マリア」
「はい」
「――休日というのは、何も積み重ならないものですか」
マリアは、コツとだけ、首をかしげた。
「――どういう意味ですか?」
「今日の午後、何もしていなかったつもりでしたのに――窓の外を見て、書簡を読んで、温室に行って」レオノーラは言った。「気づいたら、何か、積み重なっている感じがしますのね。でも、これが休日だとすると――休日も、積み重なるのかしら、と思いましたのね」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。
「――積み重なると思いますよ。むしろ、休日の方が、変なものが積み重なる気がします」
「変なもの?」
「うまく言えないんですけれど――仕事の日は、『やること』が積み重なるじゃないですか。でも、休日は、『あったこと』が積み重なる気がするんですよね。今日、窓から何を見たとか、書簡を読んでどう思ったとか、そういうやつが」
レオノーラは、それを聞いて、しばらく、黙った。
(――「やること」ではなく、「あったこと」)
(そうですのね)
(今日の午後は、「やること」はほとんどなかったのに――「あったこと」は、ありましたのね)
「……そうかもしれませんわ」レオノーラは言った。「――今日、そういう午後が、初めてありましたのね」
マリアは、にこりとした。
「――よかったです」
――――――
夜、書簡を書いた。
「アドリアン。今日は土曜日でした。午後に予定がなく、初めて、何をするか決めないまま迎えた午後でした。温室に参りました。十枚目の記録です。エーデルローゼは高さ約二十二ミリ。今日の光を「穏やか」と書きました。空の名前でも光の名前でも、どちらでもないかもしれませんけれど、今日はそうでしたの。殿下が「七種類になりましたか」とお書きになったこと、受け取りました。数えていなかったのに、殿下にはわかりましたのね。わたくしも、今日、数えましたら、七種類でした。「静かであることの名前」、まだ見つかっていないとのこと。こちらの今日の空も、静かでしたの。名前は、まだ、ありませんでした。でも、今日の午後のことを、侍女に「あったこと」が積み重なる、と言われましたのね。休日も、積み重なるのだと知りましたわ。返信は、また、数日後かもしれません。同じ時刻で。――好意として」
書き終えて、レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。
(――「土曜日でした」から、書き始めましたのね)
(業務報告から始まる書簡では、なかったのですのね)
(以前なら、土曜日か平日かは、書簡の内容に関係しなかったはずですわ)
(今日は――土曜日であることが、最初の一行でしたのね)
封をして、オットーに渡した。
「――今夜中に」
「かしこまりました」
オットーは、それを受け取って、少しだけ、間を置いた。
「――お嬢様。今夜の書簡、『今日は土曜日でした』という書き出しでございましたが」
「ええ」
「――三十年間、書簡の書き出しに、曜日をお書きになったことは、ございませんでした」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
「――そうですか」
「はい。いつも、報告の内容か、状況の概要が、最初でございました」
「……今日は――土曜日だったということが、内容でしたのね」レオノーラは言った。「今日、初めてのことがありましたもの。それが土曜日だったということは――伝えたかったのかもしれませんのね」
老執事は、深く、一礼した。
(――「土曜日だったということが、内容だった」)
(書簡の書き出しが、三十年間、変わらなかった)
(今日、それが、変わりました)
(――お嬢様の一日に、曜日というものが、意味を持ち始めたのですね)
(それは――日々が、ただ流れるのではなく、形を持って積み重なり始めた、ということでございます)
――――――
夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
レオノーラは、それを、手に取った。
最初のページから、ゆっくり、読んだ。
「今日は晴れ」があった。「今日も曇り」があった。「今日は薄曇り」があった。「今日は雨」があった。また「今日は晴れ」があった。「今日の光、まっすぐ」があった。
そして、今日――「今日の光、穏やか」が、加わった。
七種類の言葉が、十枚の記録の中に、並んでいた。
(――七種類、ですのね)
(殿下が、数えていてくださいましたの)
(わたくしは、数えていなかったのに――殿下には、見えていたのですわ)
患者の書簡が、挟まれていた。その次のページに、今日の記録があった。
「エーデルローゼ。高さ、約二十二ミリ。葉、三枚。落ち着いた佇まい。今日の光、穏やか」
(――「落ち着いた佇まい」)
(こういう言葉が、これからも、増えていくのかもしれませんわ)
(測れない言葉が、測れる言葉と、並んでいく)
冊子を、静かに、閉じた。
窓の外に、夜の王都があった。今夜も、静かだった。
南の診療所は今夜も機能しているはずだった。西区の水路は今夜も通っているはずだった。周縁部の苗は――今日の穏やかな光を受けて、夜を過ごしているはずだった。
温室には――十枚の記録を持つ、二つの芽があった。
帝国では――今夜、静かなことの名前を、殿下が、まだ、探しておられるだろうか。
(――まだ、見つかっていないとのことでしたのね)
(こちらも、今日は、見つかりませんでしたの)
(でも――同じものを、二人で、探しているのですわ)
(それが、今夜の、確かなことですのね)
冊子を、文机の上に、戻した。
今日の午後のことを、思った。窓から王都を見ていた時間。書簡をもう一度読んだ時間。マリアが横に座って、「あったこと」という言葉を教えてくれた時間。
(――これが、今日の「あったこと」ですのね)
(土曜日の、積み重ねですのね)
(来週の土曜日も、こういう時間が、あるかもしれませんのね)
(――それを、楽しみにしていますのね)
(以前は、なかった感覚ですのよ)
――――――
(第三十九話 了)




