第37話 悪役令嬢、晴れ間を知る
木曜日の朝、帝国からの返信が、届いた。
オットーが、それを差し出すとき、一言添えた。
「――水曜日にお出しになった書簡への、お返事でございます」
レオノーラは、それを受け取った。
(――一日、でしたわ)
(昨日の雨を書いて、今日、届く)
封を開けた。
「レオノーラ。雨音のこと、受け取りました。ガラス越しに聞いた、という言葉が、よかった。こちらも今日は、晴れです。帝国の晴れは、雨の後に来ると、空が違う色になります。洗われた後の、さらに一段、明るい青です。名前はありません。でも、あなたが「薄曇り」と名付けたように、今日のこの色にも、名前をつけてみようと思いました。まだ、決まっていません。返信は、また、数日後になるかもしれません。同じ時刻で。――好意として」
レオノーラは、「名前をつけてみようと思いました」という一文を、もう一度、読んだ。
(――名前が、まだ、ない)
(決まっていない、と書いてある)
(――殿下が、名前を探している最中、ですのね)
窓の外を見た。今日の王都の空は、昨日の雨が嘘のように、明るかった。
(――こちらも、晴れですのね)
(同じ晴れ、ではないかもしれないけれど)
(――同じ日に、晴れていますのね)
書簡を、静かに、折り畳んだ。
――――――
午前中、文官との定例報告が終わったあと、東の温室に向かった。
廊下の窓から差し込む光が、昨日とは、まるで違った。雨上がりの光は、柔らかいのに、鋭かった。
(――昨日と今日で、こんなに違いますのね)
温室に入ると、ガラスの向こうに、洗われた庭が見えた。昨日まで雨に濡れていた地面が、今日は光を受けて、少し、白く乾いていた。
植木鉢の前に、しゃがんだ。
エーデルローゼの芽は――昨日より、また、少し、高くなっていた。葉が、三枚のままだった。でも――
(――何か、違いますのね)
しばらく、じっと、見た。
(――立ち方が、昨日と違う)
(茎が、もう少し、しっかりしていますのね)
(高さの数字には、出ない変化ですわ)
子爵の庭の薔薇の芽は――葉の縁が引き続き広がっていた。こちらも、昨日の雨の後で、全体的に、水分を含んだような、丸みがあった。
懐から紙を取り出した。八枚目を開いた。
「――エーデルローゼ。高さ、約二十ミリ。葉、三枚。茎が、昨日より太くなった気がする。今日は晴れ」
書いて、止まった。
「「気がする」」
(――「気がする」、ですのね)
(数値でも、確認でもない)
(推測よりも、さらに、曖昧な言葉ですわ)
(以前なら、書かなかった言葉ですのね)
「――子爵の庭の薔薇。高さ、約九ミリ。変化なし。葉の丸み、増した。今日も晴れ」
書き終えて、「葉の丸み、増した」という一文を、しばらく見た。
(――「丸み」も、測れないですのね)
(でも――確かに、ありましたの)
紙を、丁寧に折って、懐にしまった。
――――――
昼過ぎ、マリアが、昼食を持ってきた。窓の外を一瞥して、笑顔になった。
「――今日は、よく晴れましたね」
「ええ」
「昨日の雨が、嘘みたいです」
「ええ」レオノーラは言った。「でも――雨があったから、今日の晴れが、こうなのかもしれませんわ」
マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、首をかしげた。
「――どういう、こうなんですか」
「わかりませんわ」レオノーラは、正直に言った。「でも――光が、昨日と違いましたの。晴れでも、昨日の晴れとは、違う晴れですのね」
マリアは、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。
「――以前のお嬢様なら、晴れは晴れで、同じでしたよね」
「ええ」レオノーラは言った。「今は――同じ晴れでも、前の日が何だったかで、見え方が違うと思いますの」
「それって――昨日のことが、今日に残っている、ということですよね」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(――「昨日のことが、今日に残っている」)
(そういう言い方も、できますのね)
「……そうかもしれませんわ」レオノーラは言った。「――雨が、今日の晴れの中に、残っていますのね。見えなくても」
マリアは、にこりとした。
「――冊子の記録みたいですね。昨日の曇りが、今日の記録の中に、残っている」
(――そういうことですのね)
(記録も、空も――同じ仕組みで、積み重なっていますのね)
――――――
夕方、オットーが書斎に入ってきた。
「――お嬢様。周縁部第一区より、昨日の雨の後の状況報告が届いております」
「ええ、拝見します」
「担当庭師からの所見でございます。『昨日の雨の後、苗の葉の色がさらによくなっています。茎も、心なし、しっかりしてきたように思います。今日の晴れが続けば、来週には目に見える変化が出るかもしれません』」
レオノーラは、その言葉を、もう一度、聞いた。
(――「茎も、心なし、しっかりしてきた」)
(――今朝、温室で、わたくしも、同じことを感じましたの)
(「気がする」と書いた、あの感覚が)
(――庭師にも、あったのですわね)
「――オットー」
「はい」
「――記録してください。庭師の『心なし』という言葉も、そのまま。それと――今朝、温室でわたくしが感じた『茎が太くなった気がする』という記録と、並べて保管してください」
老執事は、少しだけ、目を細めた。
(――「並べて」、でございますか)
(温室の芽と、周縁部の苗が、同じ感覚を、同じ日に、与えた)
(それを、お嬢様は、一つの出来事として、残そうとなさっている)
「――かしこまりました」
「それと」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「――昨日の雨が、今日の変化を作った、という推測も、一行、加えておいてください。確認ではなく、推測として」
オットーは、深く、一礼した。
(――先週、「推測として」という言葉が初めて記録に加わりました)
(今週は、その推測が、温室と周縁部の、二か所で一致しましたね)
(推測が、一つから、二つへ。繋がりを持ちはじめています)
――――――
夜、書簡を書いた。
「アドリアン。今日、王都は晴れでした。昨日の雨の後の晴れで、光が違いましたの。殿下が帝国の晴れに名前を探しているとお書きになったこと、受け取りました。こちらも今日は、晴れに、何か、名前をつけたくなりましたの。でも、まだ、決まっていません。殿下と同じですわね。温室の記録は八枚目になりました。エーデルローゼは高さ約二十ミリ。今日は、茎が昨日より太くなった『気がし』ましたの。周縁部の苗も、庭師が同じように感じたと書いてきました。『心なし』という言葉でしたの。わたくしの「気がする」と、庭師の「心なし」が、今日の記録に並んでいます。どちらも、確認はできない。でも、同じ日に、同じことを感じましたのね。返信は、また、数日後かもしれません。同じ時刻で。――好意として」
書き終えて、レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。
(――「気がする」と「心なし」が、並んでいる)
(確認できない言葉が、二つ、一緒に記録されている)
(以前のわたくしなら、どちらも書かなかった言葉ですわ)
(でも――今日、確かに、あったのですもの)
封をして、オットーに渡した。
「――今夜中に」
「かしこまりました」
オットーは、それを受け取って、少しだけ、間を置いた。
「――お嬢様。今日の書簡、『気がする』とお書きになりましたね」
「ええ」
「――三十年間、お嬢様の文書に、その言葉が入ったことは、ございませんでした」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
「――そうですか」
「はい。いつも、確認できたことか、確認できなかったことか、でございました」
「……今は――確認できないけれど、あった、ということが、ありますのね」レオノーラは言った。「それは、確認できなかったこととは、違いますのね」
老執事は、深く、一礼した。
(――「確認できないけれど、あった」)
(確認できなかったこと、ではない)
(――三十年の記録に、新しい引き出しが、一つ、加わりましたよ、お嬢様)
――――――
夜、寝室の文机の上に、冊子があった。
レオノーラは、それを、手に取った。
最初のページから、ゆっくり、読んだ。
「今日は晴れ」があった。「今日も曇り」があった。「今日は薄曇り」があった。「今日は雨」があった。
そして、今日――「今日は晴れ」が、もう一度、あった。
(――最初の「今日は晴れ」と、今日の「今日は晴れ」は、同じ言葉ですわ)
(でも――違う晴れですのね)
(最初の晴れは、向こうが雨で、こちらが晴れだった、あの日のことですわ)
(今日の晴れは、昨日の雨の後の、晴れですのね)
(同じ言葉が、積み重なると、違う意味を持つ、ということですわ)
芽の記録も、見た。今日の欄に、「茎が、昨日より太くなった気がする」と、書いてあった。
(――「気がする」、ですのね)
(自分の言葉を、読み返すのは、少し、不思議な感じがしますのね)
(ありませんが、確かに、今朝、そう感じましたの)
最後のページに近いところに、患者の書簡が、挟まれていた。その次に、今日の記録があった。
冊子を、静かに、閉じた。文机の上に、戻した。
窓の外に、夜の王都があった。昨日の雨はもうなかった。星が、よく、見えた。
南の診療所は今夜も機能しているはずだった。西区の水路は今夜も通っているはずだった。周縁部の苗は――昨日の雨を土の中に持ったまま、今日の晴れを受けて、夜を過ごしているはずだった。
温室には――八枚の記録を持つ、二つの芽があった。
帝国では――今夜、名前のない晴れの色の空が、続いているだろうか。
(――殿下が、名前を探しておられますのね)
(まだ、決まっていないと書いてあった)
(――わたくしも、今日の晴れに、名前をつけようとして、決まりませんでしたのね)
(でも――名前が決まっていないことも、今夜の冊子の中に、ありますのね)
(決まっていないまま、積み重なる、ということが、ありますのね)
それでよいと思った。
名前のない晴れも、「気がする」という言葉も、決まっていない何かも――今夜の記録の中に、ある。
(――これも、積み重なる、ということですわ)
――――――
(第三十七話 了)




