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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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第36話 悪役令嬢、雨音を聞く

水曜日の朝、帝国からの返信は、届かなかった。


オットーが、それを、静かに伝えた。


「――本日は、ございません」


「ええ。わかっていますわ」


レオノーラは、それを聞いて、窓の外を見た。


王都の空は、今日は、重く、暗かった。


(――雨が、来ますわね)


(昨日の薄曇りより、さらに、沈んだ空ですわ)


朝の業務に向かった。


――――――


午前中、文官との定例報告を終えたあと、東の温室に向かおうとして、レオノーラは、廊下の窓の外を見た。


雨が、降り始めていた。


細い雨だった。音というよりも、気配として、ガラスに滲んでいた。


(――雨、ですわ)


(――「雨の日は、温室の植物がよく育つ」)


(殿下が、最初の書簡に、そう書いてくださいましたの)


(――今日、ここで、雨が降っていますのね)


温室に向かった。


――――――


ガラスの壁の向こうに、雨が落ちていた。温室の中は、静かだった。雨の音が、ガラス越しに、かすかに聞こえた。


植木鉢の前に、しゃがんだ。


エーデルローゼの芽は――昨日より、また、少し、高くなっていた。葉が、三枚のまま、だった。でも、葉の表面が、心なしか、濃くなっていた。


(――色が、変わっているのですわ)


(葉の数でも、高さでも、なく――色ですわ)


(こういう変化は、記録したことが、ありませんでしたわ)


子爵の庭の薔薇の芽は――葉の縁が、また、少し、広がっていた。そして、これも、色が、少し、濃くなっていた。


(――どちらも、雨の前から、気配があったのかもしれませんわ)


(それとも――雨が、今朝、何かを変えたのでしょうか)


(――わかりませんの)


懐から紙を取り出した。七枚目を開いた。


「――エーデルローゼ。高さ、約十九ミリ。葉、三枚。葉の色、濃くなった。今日は雨」


「――子爵の庭の薔薇。高さ、約九ミリ。葉の縁、引き続き広がっています。葉の色、同様に濃くなった。今日も雨」


書き終えて、「今日は雨」という一文を、しばらく見た。


(――「今日は晴れ」から始まりましたの)


(「今日も曇り」があって、「今日は薄曇り」があって――)


(――今日、初めて、「今日は雨」と書きましたのね)


(殿下の、最初の書簡の言葉が――今日、こちらで、実感されましたわ)


紙を、丁寧に折って、懐にしまった。


(――雨の日に、温室にいる)


(殿下は、あの日、帝国で雨の中にいらした)


(今日は、わたくしが、雨の中にいますのね)


――――――


昼過ぎ、マリアが、昼食を持ってきた。窓の外を見て、少しだけ、眉を下げた。


「――雨、強くなってきましたね」


「ええ」


「――温室は、大丈夫でしたか」


「ええ。どちらの芽も」レオノーラは言った。「――葉の色が、濃くなっていましたわ」


マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、首をかしげた。


「――葉の色が濃くなるのは、良いことなんですか」


「わかりませんわ」レオノーラは、正直に言った。「良いことなのか、そうでないのか――今の段階では、判断できませんの。でも」


「でも?」


「――記録する価値は、あると思いましたのね」


マリアは、少しだけ、目を細めた。


「――以前のお嬢様なら、判断できないことは、記録しなかったんですよね」


「ええ」レオノーラは言った。「――今は、判断できないことも、記録しますのね。一年後に、その意味が、わかるかもしれませんもの。あるいは――わからないままかもしれませんけれど」


「わからないままでも、いいんですか」


「ええ」レオノーラは言った。「――記録は、判断するためだけにあるものではありませんもの。今日、ここで起きたことを、残すために、ありますのね」


マリアは、それを聞いて、少しだけ、黙った。


「……お嬢様、すごく変わりましたよね」


「そうですか」


「ええ。――前は、意味のないことは言わないし、書かないし、残さない方でしたもの」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(――変わった、という自覚は――やはり、あまりありませんのね)


(でも――こうして言われると)


「――雨の音を、聞いていましたわ」レオノーラは言った。「温室で。ガラス越しに」


「それが?」


「――以前は、雨音は、業務に影響する場合にのみ、気にするものでしたわ。今日は――ただ、聞いていましたのね」


マリアは、にこりとした。


「――それが、変わった、ということなんだと思います」


――――――


午後、オットーが書斎に入ってきた。


「――お嬢様。周縁部第一区より、雨の日の状況報告が届いております」


レオノーラは、手を止めた。


「――雨の日の、ですか」


「はい。担当庭師からの所見でございます。『本日の雨は、苗にとって好ましいものかと存じます。土が、よく湿りました。ただし、水はけの状況を、引き続き、確認いたします』」


レオノーラは、その言葉を、もう一度、聞いた。


(――「好ましい」と「確認する」が、一緒にありますのね)


(良いことと、注意すべきことが――同じ雨から、両方、来る)


(――実務というのは、いつも、そういうものですわ)


「――記録してください。庭師の言葉も、そのまま」


「かしこまりました」


「それと」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「――温室の記録にも、今日の雨のことを、一行、加えておいてください。温室と周縁部が、同じ雨を受けた日として」


老執事は、少しだけ、目を細めた。


(――「同じ雨を受けた日として」)


(温室の芽と、周縁部の苗が、同じ日に、同じ雨の下にいる)


(それを、一冊の記録の中で、繋ごうとなさっていますね)


「――かしこまりました」


――――――


夕方、雨は、まだ、降り続けていた。


レオノーラは、書斎の窓の外を、少しだけ、見た。


(――今日の雨は、長いですわ)


(殿下の書簡に「雨の日は温室の植物がよく育つ」と書かれていた、あの書簡が届いたのは――土曜日でしたわ)


(こちらは晴れで、向こうは雨だった、あの日から)


(――今日、こちらが雨になりましたのね)


(届くのが、少しだけ、遅れた、ということかもしれませんわ)


(――いいえ、そういうことでは、ありませんのね)


(向こうの雨と、こちらの雨は、別の雨ですもの)


(でも――同じ言葉が、両方に、あるのですわ)


「――オットー」


しばらくして、老執事が、入ってきた。


「はい」


「――今夜の書簡、少し、早めに書きますわ」


「かしこまりました。準備いたします」


レオノーラは、窓の外を、もう一度、見た。


(――今日の雨を、殿下に、伝えたいのですわ)


(それだけが、理由ですのね)


――――――


夜、書簡を書いた。


「アドリアン。今日、王都で、雨が降りました。七枚目の記録です。エーデルローゼと子爵の庭の薔薇が、葉の色を濃くしていました。高さではなく、色でしたの。こういう変化を記録するのは、初めてでした。殿下が最初の書簡に『雨の日は温室の植物がよく育つ』とお書きになったことを、今日、温室で、思いました。あの日は向こうが雨で、こちらが晴れでしたのに。今日は、こちらが雨でした。周縁部の苗も、同じ雨を受けているそうです。庭師は『好ましい』と『確認する』を、一緒に書いてきました。雨というのは、そういうものなのかもしれませんわ。今日の雨音を、温室のガラス越しに聞きました。以前は、雨音は、業務に影響する場合にのみ気にするものでした。今日は、ただ、聞いていましたの。返信は、また、数日後かもしれません。同じ時刻で。――好意として」


書き終えて、レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。


(――「ただ、聞いていましたの」)


(――これが、今日、書きたかったことですわ)


(意味があるかどうかではなく――今日、そうだった、ということを、伝えたかったのですわ)


封をして、オットーに渡した。


「――今夜中に」


「かしこまりました」


オットーは、それを受け取った。少しだけ、間を置いた。


「――お嬢様。今日の書簡、行数が増えておりますが」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


「――そうですか」


「はい。先週より、三行ほど」


「――気にしていませんでしたわ」レオノーラは言った。「雨のことを、書いていたら、そうなりましたの」


老執事は、それを聞いて、深く、一礼した。


(――「雨のことを書いていたら」)


(お嬢様の書簡の行数は、かつては、関係の深さを測る指標でした)


(その後、「書いた結果」になりました)


(――今は、「雨のことを書いていたら、そうなった」)


(もはや、書簡の行数は、お嬢様の意識の外に出ましたね)


(それは――書簡が、測るものではなく、ただ、流れるものになった、ということでございます)


――――――


夜、寝室の文机の上に、冊子があった。


レオノーラは、それを、手に取った。


最初のページから、ゆっくり、読んだ。


「今日は晴れ」があった。「今日も曇り」があった。「今日は薄曇り」があった。


そして、今日――「今日は雨」が、加わった。


(――これが、積み重なった、ということですわ)


(晴れと曇りと薄曇りと雨が、同じ冊子の中に、並んでいますの)


(一年後、殿下がいらしたとき――この冊子には、どんな空の名前が、並んでいるのでしょう)


芽の高さも、見た。最初の記録では八ミリだったエーデルローゼが、今日は十九ミリになっていた。子爵の庭の薔薇は、六ミリから九ミリに。


(――数字は、確かに、変わっていますのね)


(数字は、確かに、変わっていますのね)


(色が、濃くなった)


(雨音を、聞いた)


(そういう変化が、今日の記録に、ありますのね)


冊子を、静かに、閉じた。文机の上に、戻した。


窓の外に、夜の王都があった。雨は、まだ、降り続けていた。


南の診療所は今夜も機能しているはずだった。西区の水路は今夜も通っているはずだった。周縁部の苗は――今日の雨を、土の中に、染み込ませながら、夜を、過ごしているはずだった。


温室には――七枚の記録を持つ、二つの芽があった。


帝国では――今夜、どんな空だろうか。


(――晴れかもしれませんわ)


(「洗われた空」かもしれませんわ)


(こちらは、今夜、雨ですの)


(――殿下に、伝えましたのね)


(それでよいのですわ)


雨音が、窓の外で、続いていた。


(――雨音を、聞いた、ということが、今日の積み重ねですのね)


(意味があるかどうかは――わかりませんの)


(意味があるかどうかは――わかりませんの)


――――――


(第三十六話 了)

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