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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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第35話 悪役令嬢、雨音を聞く

火曜日の朝、帝国からの返信が届いた。


オットーが、それを差し出すとき、一言添えた。


「――月曜日にお出しになった書簡への、お返事でございます」


レオノーラは、それを受け取った。


(――一日、でしたわ)


(月曜日に出して、火曜日に届く。――それが、今の間ですわ)


封を開けた。


「レオノーラ。曇りの空のこと、受け取りました。晴れでも雨でもない、その間の空を、あなたが記録したということ。――帝国は、今日、晴れです。昨日は雨でした。雨が明けた後の空を、ここでは「洗われた空」と言います。あなたの曇りと、私の洗われた空が、どこかで繋がっているように思います。診療所の患者の言葉――「育ったもの」という定義、受け取りました。あなたが「育つ」と呼ぶものが、私のいる場所にも、あります。返信は、また、数日後になるかもしれません。同じ時刻で。――好意として」


レオノーラは、「洗われた空」という一文を、もう一度、読んだ。


(――帝国には、そういう言い方が、あるのですわね)


(雨が明けた後の空に、名前がある)


(こちらにも――そういう名前が、あるのでしょうか)


窓の外を見た。今日の王都の空は、昨日より、少しだけ、明るかった。


(――曇りが、薄くなっているのかもしれませんわ)


(まだ、晴れではないけれど――「洗われた」という言い方が、合うかもしれませんわね)


書簡を、静かに、折り畳んだ。


――――――


午前中、文官との定例報告が終わったあと、東の温室に向かった。


今日も、ガラスの壁から差し込む光は、やわらかかった。


植木鉢の前に、しゃがんだ。


エーデルローゼの芽は、昨日より、また、少し、高くなっていた。葉が、三枚のままだった。


(――高さは増えているのに、葉の数は変わっていないのですわ)


(どちらが「変化」で、どちらが「変化なし」なのか)


(――両方、変化ですわね。ただ、見える場所が、違うだけで)


子爵の庭の薔薇の芽は――


しゃがんで、ゆっくり、見た。


葉の縁が、また、少し、広がっていた。それだけだった。でも、確かに、あった。


懐から紙を取り出した。六枚目を開いた。


「――エーデルローゼ。高さ、約十八ミリ。葉、三枚。高さが伸びている。今日の空、薄曇り」


「――子爵の庭の薔薇。高さ、約八ミリ。葉の縁、引き続き広がっています。今日も薄曇り」


書き終えて、「薄曇り」という言葉を、しばらく見た。


(――「曇り」より、少し、明るい。「晴れ」には、まだ、届かない)


(その間にも、名前をつけたくなりましたのね)


(――殿下が「洗われた空」と書いてくださったから、こちらも「薄曇り」と書きたくなった)


(それは、以前のわたくしには、なかったことですわ)


紙を、丁寧に折って、懐にしまった。


――――――


昼過ぎ、マリアが、昼食を持ってきた。トレイを置きながら、窓の外を見た。


「――今日は、昨日より、明るいですね」


「ええ」


「――お天気の話を、お嬢様と普通にするようになるとは、思っていませんでしたよ」マリアは、少しだけ、笑った。「以前は、天気のことを話しかけると、少し、不思議そうなお顔をされていましたもの」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(――その通りですわ)


(天気は、実務に影響する場合は確認する。そうでない場合は、会話の対象ではなかった)


「――今は、記録していますのよ」レオノーラは言った。「温室の記録に。曇りの日も、薄曇りの日も」


「薄曇り、ですか。細かいですね」


「ええ」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「――殿下が、帝国で雨が明けた後の空を『洗われた空』とお書きになったので。こちらも、もう少し、細かく、見るようになりましたのね」


マリアは、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。


「――離れていても、向こうの言葉が、こちらの見方を変えるんですね」


「……そうなりますのね」レオノーラは、正直に言った。「自分では、気づいていませんでしたわ。マリアに言われて、そういうことだと、わかりましたの」


マリアは、にこりとした。


「――最近、お嬢様がそうおっしゃることが、増えました」


「何が」


「――『言われてわかった』、というご発言が」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(――「言われてわかった」)


(以前は――わかることは、自分の中で完結するものでしたわ)


(今は――誰かの言葉が、何かを、開く、ということがありますのね)


「……そうかもしれませんわ」


――――――


夕方、オットーが書斎に入ってきた。


「――お嬢様。周縁部の庭師より、週次の報告が届いております」


「ええ、拝見します」


報告書を受け取った。


「苗の状況。葉の数、前回より二枚増加。エーデルローゼ苗、根元、引き続き問題なし。担当庭師からの所見:『先週の雨がよく染み込んだようです。葉の色が、よくなってきています』」


レオノーラは、その一行を、もう一度、読んだ。


「――先週の雨が、染み込んだ」


(――先週、こちらは、雨でしたわ)


(温室の記録に「今日は晴れ」「今日も曇り」と書いていた、その数日前に)


(地面の中で、雨が、染み込んでいた)


(――今になって、見えてきたのですわ)


「――オットー」


「はい」


「――記録してください。数値だけでなく、『葉の色がよくなっています』という言葉も、そのまま」


「かしこまりました」


「――それと」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「先週の雨が今週の成長に繋がった、ということを、一行、添えておいてください。確認ではなく、推測として」


老執事は、少しだけ、目を細めた。


(――「推測として」、でございますか)


(以前のお嬢様の記録には、推測は存在しませんでした。確認できたことと、確認できなかったことの、二種類だけでした)


(――今のお嬢様の記録は、確認できたこと・確認できなかったこと・推測、の三種類になりましたね)


「――かしこまりました」


オットーは、それを書き留めた。


――――――


夜、書簡を書いた。


「アドリアン。今日、帝国の『洗われた空』という言葉を受け取りました。今日のこちらの空は、薄曇りでした。曇りより、少し明るい。そういう名前をつけたくなったのは、殿下がお書きになったからですわ。温室の記録は六枚目になりました。エーデルローゼは高さ約十八ミリ、葉は三枚のまま高さだけ伸びています。子爵の庭の薔薇は、葉の縁が引き続き広がっています。周縁部の苗は、先週の雨が染み込んで葉の色がよくなっているそうです。雨の日に、わからなかったことが、今週になって見えてきました。殿下が『帝国でも育つものがある』とお書きになったこと、受け取りました。それは、こちらにとっても――積み重なることだと思いますわ。返信は、また、数日後かもしれません。同じ時刻で。――好意として」


書き終えて、レオノーラは、その書簡を、しばらく、見た。


(――「薄曇り」という言葉を書きましたわ)


(殿下に「洗われた空」を教わらなければ、今日の空を、そう呼ぼうとは思わなかった)


(誰かの言葉が――こちらの見る目を、少し、変える)


(それが、積み重なる、ということの――一つの形ですわね)


封をして、オットーに渡した。


「――今夜中に」


「かしこまりました」


老執事は、それを受け取って、少しだけ、間を置いた。


「――お嬢様。今夜の書簡、少し、長くなりましたね」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


「――そうですか」


「はい。先週より、二行ほど、増えております」


「――気にしていませんでしたわ」レオノーラは言った。「書きたいことを、書いただけですもの」


老執事は、深く、一礼した。


(――「気にしていなかった」)


(以前のお嬢様は、行数が増えたことに、必ず気づいておられました。そして、意味を確認なさっていました)


(――今は、増えたことも、気づかず。気づいても、それを計測する必要を感じておられない)


(行数が、もはや「関係の指標」ではなく、「書いた結果」に過ぎないのですね)


(それは――三十年で、初めて、書簡が「自由」になった、ということでございますよ)


――――――


夜、寝室の文机の上に、冊子があった。


レオノーラは、それを、手に取った。


最初のページから、ゆっくり、読んだ。


芽の高さは、少しずつ、確かに、増えていた。葉も、増えていた。変化のない日の記録も、あった。「今日は晴れ」「今日も曇り」「今日は薄曇り」が、並んでいた。


最後のページの近く、患者の書簡が、挟まれていた。


その次のページに、今日、新しく書いた記録があった。


「エーデルローゼ。高さ、約十八ミリ。葉、三枚。高さが伸びている。今日の空、薄曇り」


(――「薄曇り」)


(一週間前には、なかった言葉ですわ)


(殿下の「洗われた空」が、こちらの空の見方を、変えた)


冊子を、静かに、閉じた。


窓の外に、夜の王都があった。


今夜は、星が、ほんの少しだけ、見えていた。薄曇りの向こうに。


(――向こうは、今夜、どんな空でしょう)


(「洗われた空」の夜は、どんな空なのかしら)


(――わかりませんわ)


(でも、その言葉を、もらいましたのね)


(知らなかった言葉が、こちらに来て――今夜の空の見方を、変えている)


(――それが、積み重なる、ということの、もう一つの形ですわ)


冊子を、文机の上に、戻した。


南の診療所は今夜も機能しているはずだった。西区の水路は今夜も通っているはずだった。周縁部の苗は――先週の雨を染み込ませながら、夜を過ごしているはずだった。


温室には――六枚の記録を持つ、二つの芽があった。


(――明日も、記録しますわ)


(薄曇りでも、晴れでも、雨でも)


(――どんな空の名前も、冊子の中に、積み重なっていきますのね)


――――――


(第三十五話 了)

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