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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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第32話 悪役令嬢、返信を待つ

木曜日の朝、帝国からの返信は、届かなかった。


 火曜日に出した書簡が、まだ、着いていないのかもしれなかった。あるいは、着いてはいても、アドリアンが——道中の仕事の合間に、まだ、書けていないのかもしれなかった。


 (——どちらでも、構いませんわ)


 レオノーラは、そう思って、朝の業務に向かった。


 南区診療所から、施設の月次状況報告が届いていた。先月の患者数は、前月比でわずかに増加していた。水路の補修工事は、西区の担当官から「予定通り進行中」との報告が来ていた。周縁部第一区の苗については、管理を委託した庭師から「問題なし」の一文があった。


 (——どれも、「見えていた」通りですわ)


 すべてに目を通して、オットーに渡した。


 「——南区の報告、記録しておいてください。先月比の数字を、来月の予算協議の資料に組み込みます」


 「かしこまりました」


 「——それと」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「帝国からの返信が届いたら、すぐに知らせてください。いつでも」


 オットーは、少しだけ、目を細めた。


 (——「いつでも」という言葉を、お嬢様が、日程に関して使われたのは——初めてでございますね)


 「——かしこまりました」

──────

 午前の文官との定例報告が終わったあと、レオノーラは、東の温室に向かった。


 水曜日——「庭の時間」と名前をつけた日——から、一日が、経っていた。


 植木鉢の前に、しゃがんだ。


 エーデルローゼの芽は——昨日より、さらに、少しだけ、高くなっていた。葉が、一枚、新しく、開きかけていた。


 子爵の庭の薔薇の芽は——変わっていなかった。いや、変わっていないように、見えた。


 (——どちらが、正しいのかは、わかりませんわ)


 (見えている変化と、見えていない変化が——ある、ということですわ)


 懐の紙を取り出した。昨日書いた記録の、次のページを開いた。


 「——エーデルローゼ。高さ、約十一ミリ。葉、二枚目、開きかけ」


 「——子爵の庭の薔薇。高さ、約七ミリ。変化、確認できず」


 書き終えて、その二行を、しばらく見た。


 (——「変化、確認できず」)


 (これは——変化がない、ということではありませんわ)


 (わたくしの目に、届いていないだけ、かもしれませんの)


 以前なら——「確認できない」は、「処理できない」と同義だった。


 (——今は、違いますわね)


 (確認できないことは——まだ、起きていないのではなく——まだ、「見えていない」だけですもの)


 紙を、丁寧に折って、懐にしまった。

──────

 昼過ぎ、マリアが、簡単な昼食を持ってきた。


 「——温室、今日も、行かれましたか」


 「ええ」


 「——芽は」


 「エーデルローゼは、また、少し大きくなっていましたわ」レオノーラは言った。「子爵の庭の方は——変化が、見えませんでしたの」


 「——でも」マリアは、トレイを置きながら、少しだけ、笑った。「気にされてはいないんですよね」


 「ええ。変化が見えなかった、ということも——記録しましたわ」


 マリアは、その言葉に、少しだけ、首をかしげた。


 「——変化がなかったことも、記録するんですか」


 「ええ」レオノーラは言った。「——変化がない日も、育っている日ですもの。それを、残しておかないと——一年後、殿下がいらしたとき、その時間が、どこにも残りませんわ」


 マリアは、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。


 「——お嬢様、すごく、変わられましたね」


 「そうですか」


 「——以前のお嬢様なら、変化のない日の記録は——無駄、とおっしゃったと思います」


 レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


 (——その通りですわ)


 (変化のない記録は——「情報量ゼロ」でしたわ。以前のわたくしにとっては)


 (今は——変化のない日にも、何かが、積み重なっていく、と——思えますのね)


 「……そうかもしれませんわ」レオノーラは、正直に言った。「——ただ、変わった自覚は——あまり、ありませんの」


 「それが、一番、変わった証拠だと思います」マリアは言った。「以前は、自分が変わることを——とても、意識していらっしゃったので」


 レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。


 (——マリアは、時々——わたくしの一歩先に、いますわね)

──────

 夕方、オットーが、書簡を持ってきた。


 「——帝国から、届きました」


 レオノーラは、それを受け取った。


 (——二日、かかりましたわ)


 (——二日分の、待つ時間が、あったということですわ)


 封を開けた。


「レオノーラ。火曜日の書簡、今日、受け取りました。道中、ヴィルナ経由で二泊しました。宿の窓から、山が見えました。この国にはない種類の山で——一度、書簡を書きかけて、やめました。うまく、言葉にならなかったので。代わりに、今日の書簡では、一つだけ、確認させてください。——温室の記録は、続いていますか。芽の大きさ、葉の数——変化のない日も。返信が遅れた分の時間も、温室では、何かが積み重なっていたはずです。その積み重なりが、一年後、私が見るものの一部です。道中、もう一か所、経由地があります。次の返信は——また、数日後になるかもしれません。その間も、記録を続けてください。同じ時刻で。——好意として」


 レオノーラは、「変化のない日も」という一文を、もう一度、読んだ。


 (——わたくしが、今日、温室で、考えていたこと)


 (殿下は——遠くにいながら、同じことを)


 (「考えていた」というより——「知っていた」ようですわね)


 (——どうして、そうなりますの)


 答えは、出なかった。でも——それで、構わないと思った。

──────

 夜、書簡を書いた。


「アドリアン。今日、返信が届きました。二日、待ちました——『待った』という感覚より、『積み重なった』という感覚の方が、近かったです。温室の記録は、続いています。今日で三枚目です。エーデルローゼは高さ約十一ミリ、葉が二枚目を開きかけています。子爵の庭の薔薇は高さ約七ミリ、今日は変化が確認できませんでした。変化のない日も、記録しています——変化がない日も、育っている日ですもの。『書きかけて、やめた』という一文、受け取りました。言葉にならないこともあるのだと——それは、わたくしにも、わかります。次の返信は、数日後かもしれません。それも——見えていることですわ。同じ時刻で。——好意として」


 書き終えて、レオノーラは、自分の手元にある記録の紙を見た。


 三枚目は——今日、書き足した分だった。


 (——三枚、たまりましたわ)


 (一年後には——何枚になっているか)


 (数える必要は、ありませんわ。でも——積み重なる、ということは、楽しみですわね)


 封をして、オットーに渡した。


 「——今夜中に」


 「かしこまりました」


 オットーは、それを受け取った。それから、少しだけ、間を置いた。


 「——お嬢様。今夜の書簡、今日で——何通目でございましょうか」


 レオノーラは、少しだけ、考えた。


 (——数えていませんわ)


 「——数えていませんわ」レオノーラは言った。「必要がありませんもの」


 オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。


 (——以前のお嬢様は、何事も——数えておられました)


 (行数、回数、日数——すべて、記録して、管理して、処理してこられました)


 (——今、お嬢様は、数えるべきものと、数えなくてよいものを——ご自分で、区別なさっています)


 (それは——三十年で、初めての——お嬢様の、算術でございますね)

──────

 翌朝、窓の外に、王都の朝があった。


 南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の苗は——変化のない、もう一日を、穏やかに迎えるはずだった。


 温室には——三枚の記録がある、二つの芽があった。


 アドリアンからの返信は、今日は、届かないはずだった。


 (——届かない、ということが——「ない」ことではなく——「これから来る」ことだと、もう、わかっていますわ)


 レオノーラは、日程表を、開いた。


 今日の午後の欄に、何も、書かれていない時間帯があった。


 ペンを取った。


 書き込んだ。


 「——温室(記録)」


 書き終えて、それを、しばらく見た。


 (——水曜日だけではなく——今日も)


 (「庭の時間」は、水曜日、と決めましたわ。でも——温室の記録は、また別のことですわ)


 (変化がある日に、行く。変化がない日にも、行くかもしれない。——それは、決まった間隔ではなく——育つものに、合わせた時間ですわ)


 オットーが、静かに、その日程表の余白を見た。


 (——お嬢様の日程表に、「庭の時間」が、また、増えました)


 (水曜日の「庭の時間」は——誰かとの間にある場所に向かうものでした)


 (今日の「温室(記録)」は——お嬢様おひとりの、確認のための時間です)


 (——お嬢様は、今、誰かのために時間を作るのと同じ自然さで——ご自分のために時間を作っていらっしゃいます)


 (三十年、それが、なかったのでございますよ)


 「——オットー」


 「はい」


 「——今週の周縁部の報告、明日、届く予定でしたね」


 「ええ、さようでございます」


 「——届いたら、温室の記録と一緒に、同じ冊子にまとめてください。芽の記録と、苗の記録——両方を」


 老執事は、少しだけ、目を細めた。


 「——一冊に、でございますか」


 「ええ」レオノーラは言った。「——温室の芽と、周縁部の苗。場所は違いますけれど——同じ『一年後』を、目指していますもの。同じ冊子の方が——見やすいですわ」


 「——かしこまりました」


 オットーは、それを書き留めた。それから、もう一つ、付け加えた。


 「——一年後、その冊子を、アドリアン殿下にお見せする、ということでございますか」


 「ええ」レオノーラは言った。「——わからないことが、どれだけ積み重なったか。それを、お見せできるようにしておきますわ」


 オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。


 (——「わからないこと」を積み重ねる、という発想は——以前のお嬢様には、なかったものでございます)


 (わからないことは、解明するか、排除するか——そのどちらかでございました)


 (——今のお嬢様にとって、わからないことは——「これから、わかっていくもの」でもなく——ただ、「積み重なるもの」でございます)


 (それが、育つ、ということの——本当の形なのかもしれませんね)


 「御意でございます」

──────


(第三十二話 了)

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