第31話 悪役令嬢、空白に名前をつける
火曜日の夜、オットーが翌日の日程表を持ってきた。
「明日は、午前に文官との定例報告。午後は──」
オットーは、そこで、一度、言葉を止めた。
「──午後の枠が、空いております。これまでは、茶館と庭園が、入っておりました時間でございます」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、手元の書類から目を上げた。
(空いている──そうですわね)
(昨日まで、その枠には──いつも、何かが入っていましたわ)
数えかけて、止めた。
(──数える必要は、ありませんわね。これは、減ったのではなく──空いた、ということですもの)
「──予算再配分計画の協議を、その枠に入れてください。カール殿下と、ランツ子爵に、お声がけを」
「かしこまりました」
「それと──」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「温室と、周縁部第一区。両方を、午後の枠に組み込みます。毎日ではなく──水曜日は、必ず」
オットーは、少しだけ、目を細めた。
「──毎日ではなく、水曜日は必ず、でございますか」
「ええ」レオノーラは言った。「──温室の鉢は、毎日、見に行きます。それは、変わりません。ですが──周縁部の苗まで含めて、両方を、ゆっくり見る時間は──水曜日が、よろしいですわ」
「──承知いたしました」
オットーは、それを書き留めた。それから、もう一つ、付け加えた。
「──書簡のことでございますが。経路が変わりましたため、帝国へ届くまでに、これまでより日数がかかる見込みです。返信が届くのも──早くて、数日後かと存じます」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(数日後──)
(──それも、「見えている」ことですわ。決まっている以上──不安には、なりませんの)
「わかりました。記録しておいてください」
──────
翌朝、東の温室に向かった。
ガラスの壁から、朝の光が差し込んでいた。
植木鉢の前に、しゃがんだ。
二つの芽は──昨日より、ほんの少しだけ、大きくなっていた。
レオノーラは、懐から、小さな紙とペンを取り出した。オットーに頼むのではなく、自分で、それを書き留めた。
「──エーデルローゼ。高さ、約八ミリ。葉、まだ、ありません」
「──子爵の庭の薔薇。高さ、約六ミリ。葉、一枚、開きはじめています」
書き終えて、その紙を、しばらく見た。
(──違いますわね、二つの芽は)
(一つは、まだ、葉がない。一つは、もう、開きはじめている)
(──同じ日に植えた、同じ温室の、同じ並びの鉢ですのに)
少しの間、その違いを、見た。
(──同じ速さで、育つわけではない、ということ)
(それは──当然のことですわ。一つは、この庭の土から。一つは──遠くから、来ましたもの)
(違う速さで、育って──いつか、同じくらいの大きさになる)
(──それも、見ていく価値のあることですわね)
紙を、丁寧に折って、懐にしまった。
(──これが、最初の一枚ですわ)
(一年後、殿下が、いらしたとき──この紙が、何枚になっているか)
(──数える必要はありませんけれど──積み重なる、ということは、楽しみですわね)
──────
水曜日の朝、身支度の時間、マリアが、薄い緑色のコートを持ってきた。
「──お嬢様」マリアは、コートを手渡しながら、少しだけ、首をかしげた。「今日は──午後、庭園には、いらっしゃらないんですよね」
「ええ」
「──初めて、ですね。これまでは、いつも──水曜日の午後は、庭園、でしたから」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(初めての水曜日──)
(寂しい、と思うか、と聞かれたら──)
「──寂しい、かもしれませんわ」レオノーラは、正直に言った。「ただ──以前のような、寂しさではありませんの」
「違う、というのは」
「以前の寂しさは──『何もない』ことへの寂しさでした。今日は──」レオノーラは、コートに袖を通した。「『何かが、別の場所にある』ことを、わかっている上での──寂しさですわ。空いているのではなく、別のものが、入っているだけですもの」
マリアは、それを聞いて、にこりとした。
「──温室と、周縁部、ですね」
「ええ」
「──お嬢様の、新しい庭園、ですね」
レオノーラは、その言葉を、少しだけ、考えた。
(新しい庭園──)
(──そうですわね。庭園は、一つではなく──なってもよいものですわ)
「……マリアは、時々、名前のつけ方が、上手ですわね」
「お嬢様の近くにいるからです」マリアは、最後に襟元を整えた。「──準備、できました」
──────
午後、王城の小会議室で、カール殿下と、ランツ子爵との協議が行われた。
「──南区診療所、西区水路、周縁部. 三つの再配分案、確認しました」アドリアンの代わりに資料を畳んだのは、今日はランツ子爵だった。「南区は、施設の改修費として。西区は、水路の恒久的な補修費として。周縁部は──緑地化計画の、初年度予算として」
「結構ですわ」レオノーラは言った。「──三つとも、すでに『見えている』予算ですもの。配分の根拠は、揃っています」
カールは、それを聞いて、少しだけ、笑った。
「──また、その言葉ですね。『見えている』」
「ええ」
「──貴女らしい言葉です」カールは言った。「以前は──『おかしいものを正す』ための言葉でした。今は──『これから、何をするか』のための言葉ですね」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(──その通りですわ)
(言葉は、変わっていない。使い方が──変わったのですわ)
「──ありがとうございます」レオノーラは言った。「では、来週、正式な配分案として提出いたします」
──────
協議の後、周縁部第一区に向かった。
二株の薔薇の苗は──植樹式から、約一か月が経っていた。
葉の数は、わずかに増えていた。土に、変化があった。根元に、小さな雑草が、一本、生えていた。
レオノーラは、それを、しばらく見た。
(──雑草、ですわね)
(前回までは──なかったはずですわ)
少しだけ、しゃがんで、その雑草を、根元から、丁寧に抜いた。
(──雑草が生えた、ということも──変化ですわ)
(変化のない一週間が、続いていた頃とは──もう、違いますのね)
苗の側の、小さな札を、もう一度、見た。「両国友好記念」と、書かれている。
(──この苗は、一年後、殿下が、いらしたときに──どのくらいになっているか)
(温室の芽と、この苗。──育つ速さは、まったく違う。けれど──どちらも、同じ「一年後」を、目指していますわ)
(──違う速さの、二つの「育つもの」が、同じ一年後に、繋がっている)
風が、苗の葉を、少しだけ、揺らした。
──────
屋敷に戻ると、オットーが、温室の前で待っていた。
「──今日の協議は」
「予算再配分案、確認しました。来週、正式に提出します」
「左様でございますか」
「──それと」レオノーラは、懐から、折った紙を取り出した。「──これを、記録簿として、まとめてください。温室の芽の記録です。今日が、一枚目」
オットーは、それを、両手で受け取った。
「──一枚目、でございますか」
「ええ」レオノーラは言った。「──毎日とは、いきませんわ。でも──水曜日は、必ず。それと、何か、変化があったときは──その都度」
老執事は、それを聞いて、少しだけ、目を細めた。
「──不定期な記録、でございますね」
「ええ」レオノーラは言った。「──育つものの記録は、決まった間隔では、測れませんもの。芽が出る日が、わからなかったように」
オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。
(──三十年、お嬢様の記録は、すべて、決まった間隔で──「定例」でございました)
(──「不定期」な記録を、お嬢様が、ご自分でお持ちになる)
(──それは、お嬢様にとって──初めての、形でございますね)
──────
夜、書簡を書いた。
今日の書簡には、まず実務の報告──予算再配分案の協議が完了したこと──が書かれた。
それから、もう一段落。
「アドリアン。今日、温室の芽を、初めて記録しました。エーデルローゼ、高さ約八ミリ、葉はまだ。子爵の庭の薔薇、高さ約六ミリ、葉が一枚。二つは、違う速さで育っているようです。一つは遠くから来て、一つはこの土から来た──それだけで、こんなに違うのですね。周縁部の苗にも、雑草が一本、生えていました。変化のない一週間が、ようやく終わったのだと思います。育つ速さの違う二つのものが、同じ『一年後』に向かっています。返信は、まだ届かないと思います。それも──見えていることですわ。次の記録を、また、お送りします。同じ時刻で。──好意として」
書き終えて、レオノーラは、それを読み返した。
(──返信が、ない手紙)
(これまでは──いつも、翌朝、返信がありましたわ)
(今日からは──違いますのね)
(──それでも、不安ではありませんわ。次の記録を、書く。それが──次に繋がりますもの)
封をして、オットーに渡した。
「──今夜中に」
「かしこまりました」
──────
翌朝、帝国からの返信は──届かなかった。
オットーが、それを、静かに伝えた。
「──本日は、ございません」
「ええ。わかっていますわ」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(──届かない朝、というものを──初めて、経験しますわね)
(以前なら──「届くはずのものが、届かない」と、感じたでしょうか)
(今は──)
(──「届く日まで、間がある」というだけですわ。それは──「ない」ことではなく──「これから来る」ことですもの)
窓の外に、王都の朝があった。
南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の苗は──雑草を抜かれた後の、静かな一日を、迎えるはずだった。
温室には──昨日、記録した、二つの芽があった。
レオノーラは、自分の手元にある、来週の日程表を開いた。水曜日の午後の欄に、「予算再配分協議」と書かれている。その下に、空白の行が、まだ残っていた。
ペンを取った。
空白の行に、書き込んだ。
「──温室・周縁部 巡回(庭の時間)」
書き終えて、それを、しばらく見た。
(──名前を、つけましたわ)
(これまで、名前をつけてきたのは──いつも、誰かとの間にある、何かでしたわ)
(「好意」も、「アドリアン」「レオノーラ」も──二人の間の、名前)
(──これは、違いますわね)
(──わたくし一人の、時間に、つけた名前ですわ)
オットーが、それを、後ろから、静かに見た。
(──「庭の時間」)
(──お嬢様は、誰かのためでも、誰かとの間でもなく──ご自分のための時間に、名前をお付けになりました)
(三十年、お嬢様の日程表に書かれた言葉は、すべて──「誰かのため」「何かのため」、でございました)
(──今日、初めて、「ご自分のため」という言葉が、書かれましたね)
「──お嬢様」
「何ですか」
「──良い、名前でございます」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。
「──そうですか」
日程表を、静かに閉じた。
窓の外の光が、少しだけ、強くなっていた。
──────
(第三十一話 了)




