第30話 悪役令嬢、見送る
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悪女は正しい
第三章「静かな日に、名前をつける」
第30話 悪役令嬢、見送る
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火曜日の夜、オットーが翌週の日程表を持ってきた。
「来週月曜日の見送りの式典について──詳細が確定いたしました」
「聞かせてください」
「正門前にて、午前十時。王国側からはカール殿下、王国側の主要文官。帝国側からはアドリアン殿下、クラウス様。両国の代表者による、最後の挨拶が行われます」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(最後の挨拶——)
(——いえ。アドリアン殿下なら、こう仰いますわね。「最後ではなく」と)
「わかりました。記録しておいてください」
「かしこまっております」
オットーは、一礼して、退室しかけた。それから、足を止めた。
「──温室の鉢、本日、確認いたしました。変化は──ございませんでした」
「ええ。わかっていますわ」
「──お嬢様」オットーは、少しだけ、言葉を選んだ。「──変化がないことを、毎日、確認することに——お疲れは、ございませんか」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。
「お疲れ、ですか。——いいえ」
(疲れる、という言葉は——以前なら、近かったかもしれませんわ)
(今は——違いますわね)
「見に行くこと、自体が——楽しみの一部ですもの」
オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。
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水曜日、木曜日、金曜日——日々は、変わらず過ぎた。
午前の文官との定例報告。午後の公務。そして、毎日、東の温室への、短い立ち寄り。
土に、変化はなかった。
(——わかっていますわ。一週間や二週間で、変わるはずはありませんもの)
わかっていたはずのことを、もう一度、自分に言い聞かせる。それが、もう、日課になっていた。
土曜日、レオノーラは、温室の植木鉢の前に、しばらく座っていた。
(——変化のない時間が、こんなに長く続いたことは——以前にも、ありましたかしら)
数えかけて、止めた。
(数える必要は——ありませんわね。これは、数えるものではありませんもの)
日曜日の夜、マリアが、月曜日の正装を運んできた。濃紺の、あの式典のときと、同じ衣装だった。
「——明日は、また『ヴァレンシュタイン嬢』ですね」マリアは、衣装を、丁寧に整えながら言った。
「そうなりますわ」
「——お寂しいですか」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(寂しい、という言葉——もう、何度も、確認しましたわ)
「寂しい、かもしれませんわ。——でも、不安ではありませんの」
マリアは、にこりとした。
「——その答え、もう、迷いがありませんね」
「ええ」レオノーラは言った。「——迷う必要のない答えですもの」
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月曜日の朝、王城の正門前に、両国の主要な関係者が集まった。
空は、よく晴れていた。
帝国側の馬車が、すでに、列をなして停まっていた。荷の中には、両国の公文書の写しや、共同捜査関連の最終資料も含まれていた。
カール殿下が、両国の代表者として、見送りの言葉を述べた。
「——この三週間、両国の連携は、多くの成果を生みました。緑地化計画の第一歩、共同捜査の完遂——そのいずれも、両国の信頼の証です」
帝国側の代表として、アドリアンが、礼装で立っていた。その隣に、クラウスの姿もあった。
「——王国の歓待に、深く感謝申し上げます」アドリアンは言った。「この連携は、終わりではなく——次の段階への、始まりです」
大広間ほどの大きさではなかったが、正門前にも、小さな、ざわめきが起きた。
順に、挨拶が交わされていく。
レオノーラの前に、アドリアンが来た。
彼は、一礼した。
「——ヴァレンシュタイン嬢」
「——アドリアン殿下」レオノーラは、一礼した。「——道中、ご無事で」
アドリアンの目に、ほんの一瞬——本当に一瞬だけ、何かが動いた。
それから、いつもの——帝国王太子としての、静かな笑みを浮かべた。
「——一年後、また」
「——一年後、また」
それだけだった。
二人は、それぞれ、次の挨拶へと進んだ。
(——できましたわ)
(前回と——同じ。簡単、ではありませんけれど——困りませんでしたわ)
馬車に乗り込む直前、アドリアンは、一度だけ、振り返った。
その視線は、レオノーラに向けられたのではなかった。——王都の方角、周縁部の方角だった。
それから、彼は、視線を戻した。
その一瞬は、誰にも、気づかれなかった。
(——殿下も、温室のことを、考えていらっしゃいますのね)
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馬車の列が、正門を出て、見えなくなった。
式典は、それで、終わった。
レオノーラは、しばらく、その場に立っていた。
(——終わりましたわ)
(——いえ。「終わり」ではなく、ですわね)
午後、レオノーラは、まっすぐ、東の温室に向かった。
マリアと、オットーが、後についてきた。
温室の戸を開けた。
朝の光が、ガラスの壁から、まっすぐ差し込んでいた。
植木鉢の一つ——エーデルローゼと、子爵の庭の薔薇の種を植えた、その鉢に。
土の表面に、小さな、緑色の——点が、二つ。
レオノーラは、それを見て、しばらく、動かなかった。
(——芽、ですわ)
(——いつ、出たのでしょう)
(——わかりませんわ。昨日は、なかったはずですもの。それとも——昨日も、見落としていたのでしょうか)
マリアが、小さく、息を呑んだ。
「——お嬢様、芽が——」
「ええ」レオノーラは、それだけ、答えた。
しゃがんで、その小さな緑を、しばらく見た。
(——「いつ」、出たのか。それは——わかりませんわ)
(わからない、ということが——今は、悲しくありませんの)
(——出た、という事実だけで、十分ですわ)
オットーは、少しだけ、目を細めた。
(——本日、お嬢様は、正門で「お見送り」をなさいました)
(その同じ日に——温室では、「お迎え」が、ございました)
(——三十年、お嬢様の一日には、いつも、何かが「終わる」ことしかございませんでした)
(——今日、初めて、終わる日に——始まるものが、ございましたね)
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夜、書簡を書いた。
「アドリアン。今日、見送りの式典が行われました。『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』、二度目の使い分けは——確認済みのものとして、簡単でした。それから、温室に行きました。——芽が、出ていました。二つとも。いつ出たのかは、わかりません。でも、それで構わないと、今は思います。一年後、根が張っているか——殿下が、見にいらっしゃるとき。芽は、もう少し、大きくなっているはずですわ。道中、ご無事で。——好意として」
書き終えて、封をして、オットーに渡した。
「——今夜中に」
オットーは、それを受け取った。それから、少しだけ、間を置いた。
「——お嬢様。今夜より、書簡の送付経路が——変わります。帝国使節団は、道中におりますため。クラウス様の事務所を経由し、帝国の中継地点を通る形になります。届くのは——これまでより、一日、遅くなる見込みです」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(——一日、遅くなる)
(——それも、「見えている」ことですわ。決まっている以上——不安には、なりませんの)
「わかりましたわ。記録しておいてください」
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翌朝——いつもより早く、帝国から、書簡が届いた。
オットーが、それを差し出すとき、少しだけ、説明を加えた。
「——こちらは、昨日のものとは、別の書簡でございます。アドリアン殿下が、出立前に──こちらへ、お預けになっていたものとのことです」
レオノーラは、それを受け取った。
(——出立前に、書いて、預けていらした——)
(昨日の、わたくしの書簡が——届く前に)
封を開けた。
「レオノーラ。これを読むとき、私は、すでに王都を離れています。今日からは、書簡が届くまで、一日、間が空くでしょう。その一日について——一つ、想像していることがあります。温室の鉢に、もし、芽が出ていたら。それを最初に見るのは、私ではなく、あなたです。一年前——苗を植えたとき、私たちは、一緒に手を汚しました。今度は、あなた一人の手が、汚れたはずです。それは、寂しいことではなく——むしろ、正しいことだと思います。あなたの庭は、あなたのものですから。一年後、私が訪れるまでに——その芽が、どれくらい育っているか。想像することは、もう、私の『楽しみ』の一つです。同じ時刻で。——好意として」
レオノーラは、その一文を、二度、読んだ。
(——「もし、芽が出ていたら」)
(——殿下は、知らないはずですのに)
(——知らないことを、想像して、当てる。それは——「数える」のとは、違う、何かですわ)
窓の外に、王都の朝があった。
南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の苗は——変化のない、もう一日を、迎えるはずだった。
温室には——昨日、芽を出した、二つの緑があった。
「オットー」
「はい」
「——一日、間が空く書簡のことですが」
「はい」
「——その一日の間に、温室で起きたことを、記録しておいてください。芽の大きさ、葉の数——わかることだけで、結構ですわ」
老執事は、少しだけ、目を見開いた。
「——記録、でございますか」
「ええ」レオノーラは言った。「——一年後、殿下がいらしたとき、お見せできるように。それと——一日分の空白を、埋めるためにも」
オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。
(——「空白」を、「埋めるもの」として、お嬢様は、すでに、お持ちでございますね)
(——三十年前のお嬢様なら、空白は、ただ「処理すべき遅延」でございました)
(——今のお嬢様にとって、空白は——「記録すべき、育つ時間」でございます)
「御意でございます」
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(第三十話 了)




