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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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第29話 悪役令嬢、種を渡す

火曜日の夜、オットーが翌日の日程表を持ってきた。


「明日は、通常通りでございます。午前に文官との定例報告、午後に──いつもの茶館と庭園を」


「ええ」


「それと──」オットーは、少しだけ、間を置いた。「東の温室、本日、完成いたしました」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、手を止めた。


(温室——完成、ですの)


(種が、届く前に——場所が、できましたわ)


「見ておきますわ。明日の朝に」


「かしこまりました」


オットーは、一礼して、退室しかけた。それから、もう一つ、付け加えた。


「──来週月曜日の、使節団出立の件でございますが。王城より、正式な見送りの式典を行う、との通達がございました。場所は、王城の正門前。両国の主要な関係者が、参列いたします」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(見送りの式典——『公式の場』ですわね)


(また──『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』に、戻りますわ)


「わかりました。記録しておいてください」


「かしこまりました」


──────


翌朝、東の空き地に向かった。


温室は、思っていたより、小さかった。ガラスの壁に、朝の光が、まっすぐ差し込んでいた。


中に入った。


何も、なかった。


土の入った植木鉢が、いくつか、並べられているだけだった。それ以外は──空白だった。


(──何もありませんわね)


(自然ですわ。種は、まだ──届いていませんもの)


レオノーラは、その空白を、しばらく見た。


(これまで——わたくしの仕事は、いつも、何かで埋まっていましたわ)


(埋まっていない場所を、こうして——見るのは)


数えかけて、止めた。


(——初めて、というわけではありませんわね。緑地化計画の地図も、最初は、白い紙でしたわ)


(白い紙に、何を描くか。それを、決めるのは——これからですわ)


植木鉢の一つに、軽く、指先で触れた。土は、まだ、冷たかった。


(——今日、種を、いただきますわ)


(今日、ここに——最初の名前のない場所に、最初のものが、届く)


──────


水曜日の朝、身支度の時間、マリアが、コートを持ってきた。


薄い緑色の、いつものコートだった。


「お嬢様」マリアは、コートを手渡しながら、少しだけ、声を落とした。「──今日は、庭園で、種をいただく日でしたよね」


「ええ」


「──緊張、されますか」


レオノーラは、その問いに、少しだけ、考えた。


(緊張——以前なら、感じなかった言葉ですわ)


(今は——)


「……少しだけ、ありますわ」レオノーラは、正直に言った。「ただ──困るような緊張では、ありませんの」


「楽しみにしている、ということですか」


「そうかもしれませんわね」


マリアは、にこりとした。


「──温室、もう、ご覧になりましたか」


「今朝、見ましたわ。何もありませんでした」


「何もない、というのは──」マリアは、少しだけ、首をかしげた。「いいことだと思います。お嬢様が、これから、決めていくものですから」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。


(決めていく——その通りですわ)


「……マリアは、時々、わたくしより──先を見ていますわね」


「お嬢様の近くにいるからです」マリアは、最後に襟元を整えた。「──準備、できました」


──────


茶館で、いつものように茶を飲んだ。


今日の話題は、二つあった。


一つは、緑地化の五年計画書だった。


「──正式な計画書、確認しました」アドリアンは、資料を畳んだ。「帝国側の協力分も、すべて、記載通りです。来週、署名のうえ、両国に保管されます」


「結構ですわ」


もう一つは、来週月曜日の出立の式典だった。


「──正門前で、見送りの式典が行われると、伺いました」レオノーラは言った。「両国の主要な関係者が、参列するとのことですわ」


「ええ」アドリアンは、少しだけ、目を上げた。「──また、『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』ですね」


「そうなりますわ」


「──二度目です」アドリアンは、静かに言った。「一度目は、植樹式でした。二度目は──見送りです」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(一度目は──『始まり』の場でしたわ)


(二度目は──『離れる』場ですわね)


「──同じ使い分けですわ」レオノーラは言った。「ただ──今回は、少しだけ、違う気がします」


「違う、というのは」


「一度目は──使い分けが、できるかどうかを、確かめる場でした。今回は──」レオノーラは、少しだけ、言葉を選んだ。「すでに、できることが、わかっている使い分けを──もう一度、行う場ですわ」


アドリアンは、それを聞いて、静かに笑った。


「──確認ではなく、確認済みのもの、ということですね」


「ええ」


「──それなら、緊張する必要は、ありませんね」


「……少しだけ、ありますわ」レオノーラは、正直に言った。「ただ──困るような緊張では、ありませんの」


アドリアンは、その言葉に、少しだけ、目を細めた。


「──さきほど、マリア殿に、同じことを言いましたか」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、目を見開いた。


(──聞いていましたの。いえ──聞いていたわけでは、ありませんわね)


(同じ言葉が、自然に──出てきただけですわ)


「……どうして、おわかりになりますの」


「──同じ言葉が使える、ということは──以前、確認しましたから」アドリアンは言った。「今日も、その確認の、続きですね」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。


──────


庭園に入ると、薔薇は、少しだけ──変わっていた。


満開だった花の、いくつかが、すでに散り始めていた。低木の根元に、白と淡い紅の花びらが、落ちていた。


花の中央には──小さな、緑色の実が、できはじめていた。


「──種ですね」アドリアンが言った。


「ええ」


二人は、その前で、足を止めた。


「──子爵に伺いました」アドリアンは言った。「この時期の実が、一番──確かな種を持つそうです。満開の時期の花よりも」


「満開より、後の方が──確かですの」


「ええ。花が、一番美しいときは──まだ、何も、決まっていません。実が、できはじめてから──ようやく、次に繋がるものが、形になります」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(花が美しい時期は──まだ、何も決まっていない)


(実ができてから——次に繋がる)


(——今日のわたくしたちと、同じですわね)


二人は、それぞれ、小さな袋を取り出した。


「──こちらが、この庭の薔薇の種ですわ」レオノーラは、実を、丁寧に、いくつか摘んだ。袋に入れた。「帝国の庭に」


「──こちらは」アドリアンは、自分の懐から、別の袋を取り出した。「帝国の庭から、持ってきました。──エーデルローゼ、という品種です。寒さに強く、長い距離を運んでも、咲きます」


「長い距離を、運んでも──」


「ええ」アドリアンは、袋を、レオノーラに差し出した。「──遠さに、強い花です」


レオノーラは、その袋を、受け取った。


(遠さに、強い花——)


(殿下が、選びましたのね)


「──いただきますわ」


二人は、袋を交換した。


それは、書簡でも、薔薇の一輪でもなかった。──種だった。まだ、何も、形になっていないもの。


「──この種は」アドリアンが言った。「今日、植えますか」


「ええ」レオノーラは、袋を、両手で包んだ。「──東の温室に。今朝、見てきましたわ。何もない、空白の場所がありますの」


「空白の場所、ですか」


「ええ」レオノーラは、少しだけ、笑った。「──そこに、今日、最初のものを、植えますわ」


──────


帰り際、二人は、薔薇の列の前で、もう一度、足を止めた。


「──来週が」アドリアンが言った。「最後の、この庭での会合ですね」


「──ええ」


「──ただ」アドリアンは、少しだけ、笑った。「『最後』という言葉は──もう、必要ない、と伝えましたわね」


「ええ」レオノーラは、それを受け取った。「──最後ではなく、ですわ」


「──最初の、種を、植える日ですね」


「──そうですわ」


風が、薔薇の列を、揺らした。種のできた実が、いくつか、小さく揺れた。


「──一年後、苗が根付く頃」アドリアンは言った。「私が、視察として、こちらに来ます。そのとき──この温室を、見せていただけますか」


「──ええ。喜んで」レオノーラは言った。「──一年後には、何かが、育っているはずですわ」


「──楽しみです」


「──わたくしも」


──────


屋敷に戻ると、レオノーラは、まっすぐ、東の温室に向かった。


マリアと、オットーが、後についてきた。


温室の中、レオノーラは、二つの袋を、机の上に置いた。


「──これが、帝国からの種ですわ」レオノーラは、エーデルローゼの袋を、開いた。「寒さに強く、遠さに強い、品種だそうです」


「──遠さに強い、でございますか」オットーは、少しだけ、目を留めた。


「ええ」


レオノーラは、植木鉢の前に、しゃがんだ。


係の者を呼ばず、自分で、土に、小さな穴を作った。種を、いくつか、その中に落とした。土を、かけた。


それだけの、簡単な作業だった。


マリアと、オットーは、何も言わず、それを見ていた。


作業を終えて、レオノーラは、自分の手を見た。


(──また、汚れましたわ)


(前回は──式典のための、植樹でしたわ)


(今回は──わたくしの、温室で。わたくしの、手で)


(誰に、見せるためでもない、作業ですわ)


「──オットー」


「はい」


「子爵の庭の薔薇の種も、残りを、こちらに。同じ植木鉢の、隣に植えます」


「──かしこまりました」


オットーは、それを聞いて、少しだけ、間を置いた。


(──この庭から運んだ種と、遠くから届いた種が──同じ温室の、同じ並びに、植えられる)


(──お嬢様の庭は、もう、書類の上のものでは、ございませんね)


──────


夜、書簡を書いた。


今日の書簡には、まず実務の報告──五年計画書の最終確認、来週の出立式典の段取り──が書かれた。


それから、もう一段落。


「アドリアン。今日、種をいただきました。──エーデルローゼ、遠さに強い花だと、伺いました。温室に植えました。子爵の庭の薔薇の種も、同じ並びに。二つの種が、同じ温室で、同じ時に、芽を出すはずです。今日、庭園で──『花が美しいときは、まだ何も決まっていない。実ができてから、次に繋がる』と伺いました. 今日のわたくしたちは、きっと──実ができた後の場所にいます。来週、最後の庭園で。──いえ。最初の種を植えた後の、最初の庭園で。同じ時刻で。──好意として」


書き終えて、レオノーラは、自分の手を見た。


まだ、土の感触が、少し残っていた。


(──この感触は、もう、何度目でしょうか)


(数える必要は──ありませんわね)


封をして、オットーに渡した。


「──今夜中に」


「かしこまりました」


──────


翌朝、帝国から返信が届いた。


「レオノーラ。種、確かに受け取りました。──こちらの庭にも、温室を一つ、用意しようと思います。あなたの庭の薔薇が、こちらでも育つように。エーデルローゼという名前には、もう一つ、意味があります。──『遠くにあっても、変わらず咲く花』という、古い言い伝えです。選んだ理由は、それです。来週、最後の──いえ、最初の庭園で。あなたが植えた種が、どんな形になるか──一年後、見られることを、楽しみにしています。同じ時刻で。──好意として」


レオノーラは、「遠くにあっても、変わらず咲く花」という一文を、もう一度、読んだ。


(──その通りの花を、選びましたのね)


(殿下も──同じことを、考えていらっしゃいましたわ)


窓の外に、王都の朝があった。


南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の苗は──今日も、変化のない、静かな一日を迎えるはずだった。


温室には──昨日、植えた、二つの種があった。


「オットー」


「はい」


「温室の鉢、毎日、様子を見に行きます。それと──来週月曜日の式典の衣装、用意しておいてください」


老執事は、少しだけ、目を細めた。


「──式典用の、正装でございますか」


「ええ」レオノーラは言った。「──『ヴァレンシュタイン嬢』として、見送りますわ」


「──かしこまりました」


オットーは、一礼した。それから、少しだけ、付け加えた。


「──温室の鉢、何日くらいで、芽が出るものでございましょうか」


「わかりませんわ」レオノーラは、少しだけ、笑った。「──子爵にも、聞いていませんもの」


「──わからない、ということを、お嬢様が、そのように──」


「楽しみにしていますの」レオノーラは言った。「わからない、ということが──今は、楽しみの一部ですわ」


オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。


(──三十年、お嬢様は、わからないことを、すべて──解明すべき対象として扱ってまいりました)


(──今、わからないことを、楽しみとして、お持ちになる)


(──それが、お嬢様の、温室の、最初の景色でございますね)


「御意でございます」


──────


(第二十九話 了)

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