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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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第28話 悪役令嬢、遠さを描く

火曜日の夜、オットーが翌日の日程表を持ってきた。


「明日は、通常通りの一日でございます。午前に文官との定例報告、午後に──いつもの茶館と庭園を」


「ええ。それと──もう一点、ございますわね」


オットーは、少しだけ、言葉を選ぶように、間を置いた。「──帝国使節団の帰還日程が、本日、確定いたしました。再来週の月曜日、出立とのことでございます」


レオノーラは、手元の書類から、目を上げた。


(再来週の月曜日。──今日から数えれば)


数えかけて、止めた。


(数える必要は──もう、ありませんわ。先週、そう決めましたもの)


──それでも、止めたはずの数えが、別の形で、頭の中に残った。


(今日が、水曜日。来週も、水曜日。──そして、再来週の月曜日)


(庭園で会えるのは──今日と、来週。あと、二回ですわ)


二回、という数字が、頭の中に、はっきりと残った。


「──わかりました。記録しておいてください」


「かしこまりました」


オットーは一礼して、退室しかけた。それから、足を止めた。


「──お嬢様」


「何ですか」


「──いえ。何でもございません」


老執事は、それ以上、何も言わずに、部屋を出た。


(──いえ。何でもない、ということは──ありませんわね、オットー)


(あなたは、いつも──何かに、気づいていますわ)


──────


翌朝、周縁部第一区へ向かった。


植樹式から、一週間が経っていた。


二株の薔薇の苗は、まだ、小さかった。


土に、変化はなかった。葉も、増えてはいなかった。


レオノーラは、それを、しばらく見た。


(──変化は、ありませんわね)


(当然ですわ。根を張るまで──一年、と伺いましたもの)


(一週間で、変わるはずが──ありませんわ)


わかっていたはずのことを、もう一度、自分に言い聞かせた。


苗の側に、小さな札が立てられていた。「両国友好記念」と、それだけ書かれていた。


(──名前は、ありませんわね。この苗には)


(薔薇の品種名も、植えた日付も──ここには、ありませんわ)


少しの間、その札を見た。


それから、苗の根元に、軽く土を足した。風で、少しだけ、土が崩れていた箇所があった。


それだけの作業だった。


(──一年、ですわ)


(一年後、根が張っているか──見に来ます)


苗から離れる前に、もう一度、その小さな緑を見た。


(変化のない一週間も──記録には、残りますわ)


(変化がない、ということを、確認すること──それも、見守ることの一部、ですわね)


──────


水曜日の朝、身支度の時間、マリアが、いつもの薄手のコートを持ってきた。


「──お嬢様」マリアは、コートを手渡しながら、少しだけ、声を落とした。「使節団の帰還日程のこと──もう、お聞きになりましたか」


「聞きましたわ」


「……」マリアは、何か言おうとして、止めた。


「言いたいことがあるなら、言ってください」


「──はい」マリアは、少しだけ、息をついた。「──お寂しくなりますね、と。それだけです」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(寂しい──という言葉を、以前、聞いたことがありますわ)


(あのときは──実務が終わることへの寂しさではない、と気づきましたわ)


(今回は──)


「──寂しい、かもしれませんわ」レオノーラは、正直に言った。「ただ──以前とは、少し違う気がします」


「違う、というのは」


「以前は──『終わる』ことへの寂しさでした。今回は──」レオノーラは、コートに袖を通した。「『離れる』ことへの──寂しさですわ。終わるわけでは、ありませんもの」


マリアは、それを聞いて、にこりとした。


「──その違い、わかる気がします」


「そうですか」


「終わらないものが──離れる。それは、寂しいけれど──不安ではない、ということだと思います」


レオノーラは、マリアの言葉を受け取った。


(不安ではない──その通りですわ)


「……マリアは、時々、わたくしより──正確ですわね」


「お嬢様の近くにいるからです」マリアは、最後に襟元を整えた。「──準備、できました」


──────


茶館で、いつものように茶を飲んだ。


今日の話題は、緑地化計画の実施スケジュールだった。


「──計画書の第一稿、確認しました」アドリアンは、資料を広げた。「全体で──五年計画、ということで、よろしいですか」


「はい」レオノーラは言った。「一年目は、整地と最初の植樹。二年目から三年目で、各区の遊歩道を整備。四年目で、避難路としての接続を完了。五年目で──全体の緑地としての運用を、開始します」


「──五年」アドリアンは、その文字を、しばらく見た。「長い計画ですね」


「ええ」レオノーラは言った。「ですが──長い計画だからこそ、毎年、何をするかが──はっきりしていますわ」


「はっきりしている、というのは」


「──『いつ』『何をするか』が、決まっている、ということです」レオノーラは、計画書の、年次の欄を指さした。「不確かなのは──『五年後、どうなるか』だけですわ。それまでの道筋は──もう、見えていますの」


アドリアンは、それを聞いて、少しだけ、何かを考えるような顔をした。


「──見える、ということですね。五年先まで」


「ええ」


「──参考になります」アドリアンは、静かに、計画書を畳んだ。「──別のことにも」


レオノーラは、その言葉に、少しだけ──何かを感じた。


(別のこと──殿下が、今、何を考えていらっしゃるか)


(──わかる気がしますわ)


──────


庭園に入ると、薔薇は、ほぼ満開だった。


低木の列全体が、白と淡い紅の花で──埋まっていた。


二人は、その前で、足を止めた。


「──来週が,最後ですね」アドリアンが言った。「この庭で会えるのは」


「──ええ」


「──一点、伺ってもよいですか」アドリアンは言った。「実務とも、これまでの確認事項とも、関係のないことです」


「どうぞ」


「──帝国に戻ってから──どれくらいの頻度で、書簡を出せると思いますか」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(──頻度。殿下が、それを尋ねますの)


「──正式な外交文書としてなら、月に一度か二度。それ以上は──名目が、必要になりますわ」


「──月に一度か二度」アドリアンは、その言葉を、繰り返した。「──これまでは、毎週でした」


「ええ」


「──少なくなりますね」


「──少なくなりますわ」レオノーラは、それを、認めた。


少しの間、二人は、何も言わなかった。


風が、薔薇の列を、揺らした。花びらが、一枚、二人の間に、落ちた。


「──一点、提案があります」アドリアンは言った。「先ほどの──五年計画と、同じ考え方です」


「──どうぞ」


「──書簡の頻度が減ることは──避けられません。ですが──『いつ』『何が起こるか』を、決めておくことは──できると思います」


レオノーラは、その言葉に、少しだけ、目を見開いた。


(『いつ』『何が起こるか』を、決めておく──)


(──それは、わたくしの、考え方ですわ)


「──例えば」アドリアンは続けた。「一年後──苗が根付く頃。クラウスが、視察として、王国を訪れます。そのとき──私も、同行する名目を、作れると思います」


「──一年後」


「ええ。それから──再来年。緑地化の二年目の進捗確認として──今度は、わたくしが、帝国へ。そういう名目も、作れると思いますわ」レオノーラは、続けた。


「──交互に、ということですか」


「──交互に」アドリアンは、少しだけ、笑った。「──五年計画と、同じ長さですね」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。


(──五年。苗が、根を張り、花を咲かせるまでと──同じ長さですわ)


(不確かだった『離れている時間』に──『いつ会えるか』という、見える道筋が、つきましたわ)


「──良い計画だと思いますわ」レオノーラは言った。「実務上の名目も、立ちますし──」


「──それだけでは、ありませんわね」アドリアンが、先に言った。


「──ええ」レオノーラは、認めた。「それだけでは、ありませんわ」


「──もう一点」アドリアンは言った。「正式な書簡は、月に一度か二度──それは、変えられません。ですが──」


「──ですが」


「──商会を介した、個人的な荷の往来は──別です。月に一度の書簡に、何か──同封することは、できると思います」


「──同封」


「ええ」アドリアンは、薔薇の列に、目を向けた。「──例えば、花の種、とか」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、薔薇を見た。


(──花の種)


(書簡には、書けないことを──種という形で、送る)


「──この庭の薔薇の種を、帝国の庭に。帝国の庭の──別の花の種を、こちらに」レオノーラは、それを、口にした。「──同じ景色を、二つの場所で見る、という──以前の言葉と、近いですわね」


「──近いです」アドリアンは言った。「──ただ、今度は──同じ景色ではなく。それぞれの場所に──もう一つ、増える景色です」


レオノーラは、その違いを、受け取った。


(同じものを、見るのではなく)


(──それぞれの場所に、何かを、増やす)


(──増やしたい、と思う。それは──わたくしが、ずっとしてきたことですわ。マリアが、そう言いましたもの)


「──良い案ですわ」レオノーラは言った。「──次の水曜日、種を、用意しておきます」


「──私も」


──────


屋敷に戻ると、オットーが待っていた。


「──今日の会合は」


「実務上の成果は──緑地化計画の年次スケジュールを、確定しました。来週、正式な計画書として提出します」


「左様でございますか」


「──それと」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「──再来週から、書簡の頻度が変わりますわ」


オットーは、少しだけ、目を細めた。


「──頻度、でございますか」


「月に一度か二度。──正式な外交文書として」レオノーラは言った。「ただ──それとは別に。庭の種を、荷物に同封することにしました」


老執事は、それを聞いて、しばらく、何も言わなかった。


「──種、でございますか」


「ええ」レオノーラは言った。「──この庭の薔薇の種を、帝国に。帝国の花の種を、こちらに」


オットーは、一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。


ただ──少しだけ、長かった。


(──書簡の行数を、数えてまいりました三十年でございます)


(──今度は、行数ではなく──種、でございますか)


(──お嬢様は、お気づきでしょうか)


(──「減る」はずのものの中に、「増える」ものを、見つけられる方でございます。それが──お嬢様の、変わらないところでございますね)


「──かしこまりました。種の手配は、わたくしが」


──────


夜、書簡を書いた。


今日の書簡には、まず実務の報告──緑地化計画の年次スケジュールが確定したこと──が書かれた。


それから、もう一段落。


「アドリアン。今日、緑地化計画の年次スケジュールを確定しました。同じ形で──もう一つ、計画ができましたわね。一年後と、再来年──交互の訪問。月に一度か二度の書簡。それと、種。すべて、五年計画と、同じ長さですわ。これまでは、『来週』だけを見ていました。今日からは──一年後、再来年を見ながら、『来週』も見ます。両方とも、見えています。来週、同じ時刻で。──好意として」


書き終えて、レオノーラは、それを読み返した。


(──「来週」が、最後ではない、ということ)


(最後だと思っていたものが──最後ではなく、最初のもの、ですわ)


(一年後、再来年へと──続く、最初の一つ)


封をして、オットーに渡した。


「──今夜中に」


「かしこまりました」


──────


翌朝、帝国から返信が届いた。


「レオノーラ。今日の会合、ありがとうございました。五年計画を、こちら側にも、当てはめてみました。一年後、私が。再来年、あなたが。三年後、四年後──まだ決めていませんが、『決めることができる』ということが、わかりました。種について。帝国の庭に、王国の薔薇が咲く頃──それを見て、あなたを思うでしょう。離れていても、同じ季節に、同じ花を見ている──そう思えることが、今は、一番、確かなことです。来週、最後の──いえ。最後ではありませんね。『今度は、いつ』が、決まっている以上──『最後』という言葉は、もう、必要ないと思います。来週、同じ時刻で。──好意として」


レオノーラは、「最後ではありません」という一文を、もう一度読んだ。


(──その通りですわ)


(「見えるようにすること」──それが、わたくしの仕事の本質でしたわ)


(不確かな未来に、道筋をつけること。それを──殿下も、なさいましたのね)


──────


窓の外に、王都の朝があった。


南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の苗は──変化のない、もう一週間を、迎えるはずだった。


それで、よかった。


(変化のない時間も──見守ることの一部、ですわ)


実務は、五年という、見える形を持った。それ以外のものも──一年後、再来年という、見える形を、持ち始めた。


「オットー」


「はい」


「──屋敷の、東の空き地。あそこに、温室を一つ、用意してください」


老執事は、少しだけ、目を見開いた。


「──温室、でございますか」


「ええ」レオノーラは言った。「──種が、届く場所が、必要ですわ。庭園でも、周縁部でもなく──ここに」


「──かしこまりました」オットーは一礼した。それから、少しだけ、付け加えた。「──何を、植えられますか」


「まだ、決めていませんわ」レオノーラは、少しだけ、笑った。「──種が届いてから、決めます」


オットーは、それを聞いて、深く、一礼した。


(──お嬢様が、ご自分の庭を、お持ちになる)


(三十年──お嬢様の庭は、書類の上にしか、ありませんでした)


(──今日から、違いますね)


「御意でございます」


──────


(第二十八話 了)

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