第27話 悪役令嬢、苗を植える
火曜日の夜、オットーが翌日の日程表を持ってきた。
「明日の午前——帝国からの使節団が、王都に到着されます。午後、歓迎式典。その後、周縁部の第一区にて、緑地化計画の最初の植樹式が予定されております」
レオノーラはそれを受け取り、目を通した。
(緑地化計画書は、三週間前に提出済みですわ。カール殿下の承認も——その翌日にいただきました)
(周縁部の第一区——整地は、すでに終わっています。明日、そこに——薔薇の苗が植えられますわ)
窓の外、王都の夜があった。
この三週間、毎週水曜日、子爵の茶館と庭園に通った。薔薇は、あの一輪が咲いた週から——一気に、咲き進んだ。今は、低木の列全体が、白と淡い紅で覆われている。
(来週も、と約束した薔薇が——もう、満開に近いですわ)
(時間は——思っていたより、早く進みますのね)
「オットー」
「はい」
「明日は——『公式の場』ですわ。使い分けの、最初の本番ということになります」
老執事は、少しだけ、目を細めた。
「……かしこまっております。お嬢様なら——問題なく、なさるかと存じます」
「問題なく、ですか」
「はい。ただ——」オットーは、少しだけ言葉を選んだ。「——楽しみにしている、という顔を、隠すのは——少し難しいかもしれません」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。
(隠す、必要は——あるのでしょうか)
(——いえ。今日は、考えないことにしますわ。明日、考えることですわ)
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水曜日の朝、マリアが、いつもとは違う衣装を持ってきた。
濃紺の、正装だった。
「今日は——式典用ですね」マリアは言った。「いつものコートとは、また別の——」
「そうですわね」
マリアは、レオノーラの身支度を整えながら、少しだけ言った。
「今日は——『ヴァレンシュタイン嬢』として、殿下にお会いするのですよね」
「そうなりますわ」
「……不思議な感じがします」マリアは、少しだけ笑った。「お名前で呼び合うようになったのに——今日は、また、元の呼び方に戻る」
レオノーラは、鏡の中の自分を見た。
(不思議、ですわ。マリアの言う通り)
(——でも、不思議なだけで、不安ではありませんわ)
「使い分けですわ」レオノーラは言った。「これまでも、ずっと——わたくしは、それをしてきました」
「そうでしたね」マリアは、最後に襟元を整えた。「——準備、できました」
鏡の中に、いつもの——いえ、いつもよりも、少しだけ整った「ヴァレンシュタイン嬢」がいた。
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午前、王城の大広間で、帝国使節団の歓迎式典が行われた。
帝国側の代表として、アドリアン王太子が、正式な礼装で立っていた。その隣には、クラウス・フォン・ハルナの姿もあった。
カール殿下が、両国の代表者として、歓迎の言葉を述べた。レオノーラは、王国側の文官の列の中に立っていた。
式典の進行に合わせ、両国の関係者が、順に挨拶を交わしていく。
レオノーラの前に、アドリアンが来た。
彼は、一礼した。
「——ヴァレンシュタイン嬢」
はじめて、その名前で——いえ、「また」その名前で、呼ばれた。
レオノーラは、それを聞いて、内心、少しだけ——可笑しかった。
(——以前、殿下は「最初に呼ぶときの、その瞬間が楽しみです」と書きましたわ)
(楽しみにしていた瞬間が——今、ですわね)
「——アドリアン殿下」レオノーラは、一礼した。「ようこそ、ヴァルティア王国へ」
アドリアンの目に、ほんの一瞬——本当に一瞬だけ、何かが動いた。
それから、彼は、いつもの——帝国王太子としての、静かな笑みを浮かべた。
「——両国の連携に、感謝申し上げます」
「——王国としても、感謝申し上げますわ」
それだけだった。
二人は、それぞれ次の挨拶へと進んだ。
(——できましたわ)
(思っていたより——簡単でしたわ。これが、使い分けですわね)
ただ——すれ違う瞬間、アドリアンの口元が、ほんの少しだけ、緩んでいたのを、レオノーラは見た。
(——殿下も、同じことを思っていますわね)
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式典の後半、カール殿下が、周縁部の緑地化計画について言及した。
「——今回の連携によって守られた公共施設に加えて、新たな計画が——一つ、動き出しています。王都を囲む周縁部の九か所を、緑地として繋ぐ計画です。この計画の起案者は——ヴァレンシュタイン嬢です」
大広間に、小さな、ざわめきが起きた。
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ——居心地が悪かった。
(——名前を、出されますの)
(これまでは——功績を、名乗ったことは、ありませんでしたわ)
「ヴァレンシュタイン嬢の提案により」カール殿下は続けた。「この計画には、帝国からの協力——薔薇の苗の提供も、含まれています。両国の連携の象徴として、本日、最初の植樹を行います」
レオノーラは、一礼をした。それ以上は、何も言わなかった。
(——何も言わない、ということが、今日の、わたくしの役割ですわ)
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午後、周縁部の第一区——整地された土地に、両国の代表者が集まった。
帝国から運ばれた薔薇の苗が、二株、用意されていた。
「——では」カール殿下が言った。「両国の代表に、植樹をお願いします」
レオノーラとアドリアンが、それぞれ、苗の前に立った。
係の者が、シャベルを手渡した。
レオノーラは、苗を見た。
(——子爵の庭の薔薇と、同じ品種ですわ)
(あの庭で、十年かけて咲いた薔薇が——ここでも、十年かけて、咲く)
土を、シャベルで、掘った。苗を、植えた。土を、かけた。
それだけの、簡単な作業だった。
ただ——終えたとき、レオノーラは、少しだけ、自分の手を見た。
(——手が、汚れましたわ)
(書簡を書く手が——今日は、土に触れましたわ)
隣で、アドリアンも、同じ作業を終えていた。
彼も、自分の手を見ていた。
二人は、一瞬だけ、目を合わせた。
それは、式典の中で——唯一、誰にも気づかれなかった、短い間だった。
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夕刻、式典の一切が終わった後、レオノーラは、子爵の庭園に立ち寄った。
いつもの水曜日とは、違う時刻だった。日が落ちかけていた。
庭園には、誰もいなかった。
薔薇の列の前に、しばらく立っていた。
足音が、聞こえた。
「——来ると思いました」アドリアンが言った。彼も、礼装のままだった。
「——少しだけ。今日のうちに、ここに来ておきたかったものですから」
二人は、薔薇の前に並んで立った。
「——今日は」アドリアンが言った。「『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』を、何度も、口にしました」
「——わたくしも」
「——不思議な一日でしたね」
「——ええ」レオノーラは、少しだけ笑った。「ただ——不思議なだけで、困りはしませんでしたわ」
「——ええ」アドリアンも、笑った。「困りませんでした」
二人は、しばらく、何も言わなかった。
「——アドリアン」レオノーラは言った。
「——レオノーラ」
それだけで、十分だった。
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夜、書簡を書いた。
「アドリアン。今日、植樹式が行われました。手が、土で汚れました。——書簡を書く手にとって、それは、初めての種類の汚れでした。悪くない感覚でした。『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』を、今日は何度も口にしましたが——使い分けは、思っていたより、簡単でした。それは、きっと——使い分ける必要のない場所が、すでにあるからですわ。来週の水曜日、同じ時刻で。——好意として」
書き終えて、レオノーラは、自分の手を見た。
まだ、土の匂いが、少し残っていた。
(——洗い落とす前に、もう少し、このままでいますわ)
封をして、オットーに渡した。
「——今夜中に」
「かしこまりました」
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翌朝、帝国から返信が届いた。
「レオノーラ。今日は、私も、不思議な一日でした。——『ヴァレンシュタイン嬢』と呼んだ瞬間、楽しみにしていた通り——少しだけ、初めて会うような気持ちになりました。ただ、それは、寂しさではなく——むしろ、確かさでした。使い分けられる、ということは——変わらないものがある、ということですから。植えた薔薇が根を張るまで、一年。咲くまで、二年か三年。その間、私たちは——何度も、『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』を口にし、何度も、『アドリアン』と『レオノーラ』を口にするでしょう。両方とも、本当のことです。来週の水曜日、同じ時刻で。——好意として」
レオノーラは、「両方とも、本当のこと」という一文を読んだ。
(——その通りですわ)
(公式の場のわたくしも、この庭のわたくしも——どちらも、本当ですわ)
窓の外に、王都の朝があった。
南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の第一区には——昨日植えられた、二株の薔薇の苗があった。
「オットー」
「はい」
「周縁部の苗、根付くまで——定期的に、様子を見に行きます。それと——昨日の手袋、洗濯に出してください」
老執事は、少しだけ、目を留めた。
「……手袋、でございますか」
「土が、付いていますわ」レオノーラは言った。「——洗ってしまえば、何も残りませんもの」
オットーは、一礼した。
(——いえ。お嬢様は、お気づきでしょうか)
(手袋の土を、洗い流すことを——お嬢様は、今、少しだけ、惜しんでいらっしゃいます)
(三十年——お嬢様が、何かを「惜しむ」お顔を、見たのは——今日が、初めてでございます)
「御意でございます」
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(第二十七話 了)




