第26話 悪役令嬢、未来を描く
月曜日の朝、オットーが日程表を持ってきた。
「本日午前、カール殿下との協議が予定通り——予算再配分計画について、三議題でございます」
「議題は、確認していますわ」レオノーラは言った。「南区診療所、西区水路、周縁部の土地利用」
「左様でございます。それぞれの担当文官も、確認済みでございます」
「結構です」
レオノーラは、机の端に置いた一枚の紙を見た。
(昨夜——書簡を書き終えてから、もう一枚、紙を使いましたわ)
(実務の書類ではない、紙を)
それを、丁寧に折って、書類入れの一番上に重ねた。
「オットー」
「はい」
「この一枚も、本日の協議に持っていきます」
老執事は、その紙の薄さと、折り方の——いつもより少しだけ、丁寧な折り方に、目を留めた。
「……かしこまりました」
──────
午前、王城の会議室で、カール殿下との協議が行われた。
南区診療所の改修案は、ランツ子爵の試算に基づき、ほぼそのまま採用が決まった。西区水路の優先区間も、土木局の報告通りに確定した。
「——二点は、これで片付きましたね」カール殿下は言った。「最後は、周縁部の土地利用です」
「はい」レオノーラは言った。「これについては——一点、ご提案がありますわ」
カール殿下は、少しだけ目を上げた。「提案、ですか。あなたから」
「これまでの議題は、いずれも『元に戻す』ための提案でした。今回は——違いますわ」
レオノーラは、折っていた一枚の紙を、机の上に広げた。
それは、地図だった。王都の外縁——かつて『弧』として、商会が囲い込もうとしていた九か所の土地。その全体を、一本の緑地として繋ぐ案が、手書きで描かれていた。
「周縁部の九か所は、これまで——個別に『何を建てるか』『どう収益化するか』という発想で扱われてきました。商会の計画も、その発想の上にありました」
「——ええ」
「ですが、九か所を繋ぐ緑地として整備すれば——防災時の避難路として機能します。各区を結ぶ遊歩道としても使えます。そして——王都を囲む『弧』という構造そのものを、閉ざされた利権の形から、開かれた市民の場へ、転用できますわ」
カール殿下は、しばらく、その地図を見ていた。
「……これは」殿下は言った。「予算の使い道、という以上のものに見えますね」
「実用上の根拠は、記載の通りですわ。避難路としての価値、維持費の見込み、各区の連携——いずれも、実務上、有益です」
「——それは、わかります」カール殿下は、少しだけ笑った。「ただ、私が言っているのは——そこではありません」
「……どこを、おっしゃっていますの」
「これまでのあなたの提案は——いつも、『悪いものを取り除く』ための提案でした。今回は——『良いものを、新たに作る』提案です。違いますか」
レオノーラは、少しの間、何も言わなかった。
(悪いものを取り除く——それが、わたくしの仕事でしたわ)
(今回は——違う)
「……そうかもしれませんわ」レオノーラは言った。「これまでは、『美しくないノイズ』を排除することが、わたくしの仕事の中心でした。ですが——今回は、何もないところに、何かを描く提案ですわ」
「描く、ですか」
「——はい」レオノーラは、地図に、もう一度目を落とした。「描く、という言葉が——一番、正確だと思いますわ」
カール殿下は、地図を、しばらく見つめた。それから、静かに言った。
「採用します。——これは、記録として、言っておきたい。あなたが『直す』だけの人ではないことを、私は今日、初めて見ました」
「……殿下」
「正式な計画書として、来週までにまとめてください。——予算は、すでに確保されています」
「かしこまりました」
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午後、マリアが紅茶を持ってきた。
「お嬢様」マリアは、机の上に残っていた地図の控えに目を留めた。「これ——お嬢様が、描かれたんですか」
「そうですわ」
「すごく——きれいですね」マリアは、少しだけ身を乗り出した。「公園、ですか」
「緑地ですわ。公園、と呼んでも構いませんが」
「お嬢様が、絵を描かれるところ——初めて見ました」
レオノーラは、少しだけ、考えた。
(初めて——そうですわね)
「報告書の図表は、何度も描いていますわ」
「それとは——違う気がします」マリアは、にこりとした。「報告書の図は、説明するための絵です。これは——なんというか……お嬢様が、見たいものを、描いた絵、という感じがします」
レオノーラは、その言葉を受け取った。
(見たいものを、描いた)
(——その通りですわ)
「……どこかで、似たものを見たことがありますの」
「いえ、特には」マリアは少しだけ首をかしげた。「ただ——子爵様の庭園のお話を、オットーさんから少し伺いましたので」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。
「……隠していたわけではありませんが、見抜かれていますわね」
「隠していらっしゃるようには、見えませんでしたよ」マリアは紅茶を置いた。「むしろ——お嬢様らしいと思いました。良いものに触れたら、それを——他の場所にも、増やしたいと思う。それは、お嬢様が、ずっとなさってきたことですから」
レオノーラは、しばらく、何も言わなかった。
(増やしたい、と思った)
(——その通りですわ。マリアの言う通り)
「……そうですわね」レオノーラは言った。「増やしたい、と思いましたわ」
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夜、書簡を書いた。
今日の書簡には、まず実務の報告——南区診療所と西区水路の確定、そして周縁部の緑地化案がカール殿下に採用されたこと——が書かれた。
それから、もう一段落。
「アドリアン。一点、伝えたいことがあります。周縁部の緑地化案は、あなたと歩いた庭園からの発想です。十年かけて整えられた庭が、こんなに多くのものを与えてくれることを——私は、今日まで、知りませんでした。良いものに触れたら、それを増やしたいと思う——侍女のマリアに、そう言われました。その通りだと思いました。来週の庭園では、薔薇の季節が近づいているかもしれません。見るのが、楽しみです。来週の水曜日、同じ時刻で。——好意として」
書き終えて、読み返した。
「楽しみです」という一文に、少しだけ目を留めた。
(以前——『楽しみにしています』という言葉に、戸惑ったことがありましたわ)
(今日は——同じ言葉を、迷いなく、自分から書きましたわ)
封をして、オットーに渡した。
「——今夜中に」
「かしこまりました」
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翌朝、帝国から返信が届いた。
「レオノーラ。南区診療所と西区水路の件、承知しました。——周縁部の緑地化案について。素晴らしい提案だと思います。庭園が、誰かの考えを変えるところを——私も、見てみたいと思っていました。一点、提案があります。帝国の庭園には、長い時間をかけて育てられた薔薇の苗があります。来月の使節団の際——もし、緑地化案が正式に動き出すなら、その苗を、最初の植樹として、お贈りすることはできないでしょうか。子爵の庭の薔薇が、いつか、周縁部にも咲くように。来週の水曜日、薔薇が見られると思います。同じ時刻で。——好意として」
レオノーラは、その提案を読んだ。
(子爵の庭の薔薇が——周縁部にも、咲く)
(実務としても——意味がありますわ。帝国からの友好の証として、申請に組み込めます)
(——それだけでは、ありませんわね)
(この庭を歩いたことが、ここから始まって、周縁部にまで——繋がっていく)
窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——来週から、新しい計画書の中で、形を持ち始める。
「オットー」
「はい」
「帝国からの薔薇の苗の件、正式な提案として、緑地化計画書に組み込みます。カール殿下にも、本日中にお伝えを」
「かしこまりました」
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水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。
マリアが、コートを用意した。今日は、薄い緑色のものだった。
「庭園を歩かれますので」マリアは言った。「——緑が、似合うと思いましたので」
「……そうですわね」
茶館で、いつものように茶を飲んだ。今日の話題は、緑地化計画書の進め方だった。実務の話だったが、いつもより、少しだけ早く終わった。
「——では」アドリアンは、資料を畳んだ。「庭園へ」
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庭園に入って、すぐに気づいた。
薔薇が、咲き始めていた。
まだ、満開ではなかった。低木の列の中に、ところどころ、白と淡い紅の花が開いていた。
「——咲きましたね」アドリアンが言った。
「咲きましたわ」
二人は、薔薇の列の前で、足を止めた。
「——子爵に伺いました」アドリアンは言った。「この品種は、十年前——子爵が、一番最初に植えたものだそうです」
「最初に、ですか」
「ええ。——何もない土地に、最初に植えるものを、子爵は、一番悩んだと言っていました」
レオノーラは、その薔薇を、しばらく見た。
(最初に、何を植えるか)
(——周縁部の緑地化案も、同じですわ。最初に植えるものが、これから先のすべてを、決めますわ)
「——帝国の薔薇の苗を、最初の植樹に」レオノーラは言った。「それは、良い選択だと思いますわ」
「良い選択、ですか」
「——意味のある選択ですわ」レオノーラは、少しだけ、薔薇に手を伸ばした。指先で、花びらに、軽く触れた。「この庭から、始まったものが——周縁部にも、根を張る。それは——実務上の理由だけでは、説明できない選択ですわ」
アドリアンは、何も言わなかった。ただ、少しの間、レオノーラの指先を見ていた。
それから、薔薇の列の中から、一輪——すでに開き切った花を、そっと折った。
「——アドリアン」
「子爵には、後で伝えます。一輪だけ、いただきました——と」
アドリアンは、その薔薇を、レオノーラに差し出した。
レオノーラは、それを見た。
(書簡ではないものを——殿下から、受け取りますの)
(初めて,ですわ)
「——いただきますわ」
レオノーラは、薔薇を受け取った。
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二人は、また、ゆっくりと歩き始めた。
「——一点、伺ってもよいですか」レオノーラは言った。
「どうぞ」
「来月、使節団の際に——この薔薇の苗を、周縁部に植えます。植えてから、根を張るまで——どれくらい、かかりますの」
「——一年は、かかると思います。花が咲くまでは、二年か、三年か」
「二年、三年」レオノーラは、その年数を、口の中で確かめた。
(これまで——わたくしは、来週のことしか、考えていませんでしたわ)
(来年のことを——殿下と一緒に、考えるのは)
「——来年の今頃」レオノーラは言った。「この薔薇は、まだ咲いていないでしょうけれど——周縁部の緑地は、形になっているはずですわ」
「——そうですね」
「来年も、この庭で——同じ薔薇を、見られますわね」
アドリアンは、少しだけ、足を止めた。
「——来年も、ですか」
「来年も」レオノーラは言った。「再来年も。——その先も」
部屋の中での沈黙とは、違う種類の沈黙が、庭に落ちた。
アドリアンは、静かに言った。
「——それは、今日、一番——大きな言葉ですね」
「……大きい、ですか」
「これまで、私たちは——来週のことだけを、約束してきました。今日、あなたは——来年より先のことを、口にしました」
レオノーラは、手の中の薔薇を見た。
(——その通りですわ)
(今日、わたくしは——未来のことを、口にしましたわ)
(これまでは、『今日』を確認することで、精一杯でしたわ。今日は——その先を、見ましたわ)
「……怖くは、ありませんでした」レオノーラは言った。「先のことを、口にすることが——以前なら、不確かなことを口にするのは、避けていましたわ。今日は——自然に、出てきました」
「——なぜだと思いますか」
「わかりません」レオノーラは、少しだけ笑った。「ただ——わかる必要も、今日は、ない気がしますわ」
アドリアンは、今日これまでで一番、穏やかに笑った。
「——それで、十分だと思います」
「十分ですわ」
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屋敷に戻ると、オットーが玄関で待っていた。
「——今日の会合は」
「実務上の成果は——ありました。緑地化計画への薔薇の苗の提供が、正式に決まりますわ」
「左様でございますか」
「それと」レオノーラは、手にしていた薔薇を、少しだけ、見せた。「——これを、いただきましたわ」
老執事は、その一輪を見た。それから、何も言わなかった。
「花瓶を——お持ちしましょうか」
「お願いしますわ」
オットーは一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。ただ——少しだけ、長かった。
彼は廊下に出てから、花瓶を取りに行く前に、一度だけ、足を止めた。
(書簡ではない、ものを——お嬢様が、お受け取りになりました)
(三十年——書簡の行数を、数えてまいりました。今日からは——数えるものが、また一つ、増えるのでございますね)
三十年の経験は、その新しいものに、まだ名前をつけていなかった。
(——いえ。名前は、もう、ついております)
(——好意、でございます)
──────
夜、書簡を書いた。
今日の書簡には、緑地化計画と薔薇の苗の件——実務の確定事項が、まず書かれた。
それから、もう一行。
「アドリアン。薔薇を、ありがとうございました。花瓶に挿して、机の上に置きました。明日も、咲いているはずです。来年も、再来年も——この庭で、同じ薔薇を見られることを、今日は、当然のことのように思いました。当然のことのように思えたのが——今日の、一番新しいことです。来週の水曜日、同じ時刻で。——好意として」
書き終えて、レオノーラは、机の上の薔薇を見た。
花びらは、まだ、開き切っていなかった。
(——これから、開いていきますわ)
(この薔薇のように——わたくしも、まだ、開き切っていないものが、ありますわ)
(それを、今日は——焦らず、見ていられますわ)
封をして、オットーに渡した。
「——今夜中に」
「かしこまりました」
──────
翌朝、帝国から返信が届いた。
「——花瓶の薔薇、想像できます。私も、こちらの庭の薔薇を、一輪、机に置きました。同じ景色を、二つの場所で見ている気がします。来年も、再来年も、その先も——同じ薔薇を、同じ庭で。今日、あなたが口にした言葉を、私は、これからの記録の——いえ、これからの、約束の一つにしたいと思います。来週の水曜日、同じ時刻で。——好意として」
レオノーラは、「約束」という一文を読んだ。
(記録、ではなく——約束、と書きましたわ)
(記録は、過去のものを残すための言葉。約束は——未来のものを、決めるための言葉ですわ)
(殿下も——未来を、見ましたのね)
窓の外に、王都の朝があった。
南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——来月、最初の薔薇が植えられる。
実務は、新しい計画として、形を持ち始めた。
それ以外のものは——名前があり、呼び方があり、歩く庭があり、環境があり、そして今——その先に続く、未来があった。
「オットー」
「はい」
「緑地化計画書を、最終確認します。それと——花瓶の水を、毎日、替えてください」
老執事は、少しだけ、間を置いた。
「……毎日、でございますか」
「毎日ですわ」レオノーラは言った。「——咲いている間は、毎日」
それが、今日の、正確な指示だった。
オットーは一礼した。その礼には——三十年で、初めて、何も言葉にできないものが、含まれていた。
「御意でございます」
──────
(第二十六話 了)




