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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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第25話 悪役令嬢、隣を歩く

木曜日の午前、オットーが新たな日程表を持ってきた。


「カール殿下より、来週月曜日の午前に──予算再配分計画についての協議を、とのことでございます」


レオノーラはそれを受け取った。目を通す。


(南区診療所、西区水路、周縁部の土地利用。三つの議題ですわ)


「議題は三つですわ。それぞれに、担当の文官を確認しておいてください。月曜の朝までに」


「かしこまりました。……それと──もう一点」


「何ですか」


「帝国からの使節団の日程が、確定したとの連絡が──カール殿下の書簡に、添えられておりました。来月の第三水曜日、とのことでございます」


レオノーラはその日付を、心の中で数えた。


(来月の第三水曜日。今日から数えれば──)


数えかけて、止めた。


(数える必要は、もうありませんわ。先週、そう決めましたもの)


「──わかりました。日程は記録しておいてください。準備は、追って進めます」


オットーは一礼した。「かしこまりました」


──────


午後、マリアが紅茶を持ってきた。


「お嬢様」マリアは茶器を置きながら、少しだけ首を傾げた。「今、何か──歌っていらっしゃいました」


「……歌っていましたか」


「鼻歌、というやつだと思います。曲は──存じませんが」


レオノーラは少しだけ、自分の口元に触れた。


(歌っていた、ということに──気づいていませんでしたわ)


「……何の曲かは、わたくしにもわかりません。覚えがないものですから」


「お嬢様らしくない、と言うべきか──お嬢様らしい、と言うべきか──迷いますね」マリアは少しだけ笑った。


「どちらだと思いますか」


「──両方だと思います」


レオノーラはそれを聞いて、少しだけ、考えた。


(両方、ですわ。最近は──両方であることが、増えましたわね)


──────


その夜、思いがけない時刻に、書簡が届いた。


火曜日の夜だった。これまで、火曜日に書簡が届くことはなかった。


オットーが持ってきた書簡を、レオノーラは少しだけ見つめた。


(火曜日。──殿下から、ですわ)


封を開ける。三行だった。


「急な提案で、申し訳ありません。来週の水曜日、子爵の茶館の後──庭園を、少し歩きませんか。子爵から、許可はいただいています。お返事は、急ぎません」


レオノーラはその三行を、もう一度読んだ。


(急な提案──殿下が、そう書いてきましたわ)


(火曜日に、書簡を出す。これまでは──なかったことですわ)


これまで、書簡のやり取りには決まった日があった。木曜日、そして水曜日の会合の前後。火曜日に書簡が届いたのは、今日が初めてだった。


(殿下も──「今すぐ」を、覚えたのかもしれませんわ)


返信は、その夜のうちに書いた。


「庭園を歩くこと、承知しました。──お返事は、急ぎませんでしたが、急いで書きました。理由は、特にありません」


封をして、オットーに渡した。


「──今夜中に」


オットーは一礼した。受け取った書簡の薄さに、少しだけ目を細めた。


(二行──いえ、三行でございますね。短い書簡ほど、近頃は──重うございます)


──────


水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。


マリアが今日も、コートを用意した。今日は、いつもより薄手のものだった。


「庭園を歩かれると伺いましたので」マリアは言った。「──歩きやすい方を、選びました」


「……伝えていませんでしたが」


「オットーさんから伺いました」マリアは、にこりとした。「──楽しみですね」


レオノーラは、それに対して、すぐには答えなかった。


少しの間を置いて、「……そうですわね」と言った。


マリアは何も付け加えず、コートを手渡した。


──────


茶館で、いつものように茶を飲んだ。


今日の話題は、来週の協議──予算再配分計画──だった。実務の話だった。アドリアンは帝国側の意見をいくつか持ってきていた。南区診療所の改修、西区水路の優先順位、周縁部の土地利用案。


話は、いつもより長く続いた。


「──以上が、帝国側からの提案ですわ」アドリアンは資料を畳んだ。「カール殿下への提出は、月曜でよろしいですか」


「結構ですわ。──精査の上、修正案があれば木曜の書簡で」


「承知しました」


茶器が下げられた。


「──では」アドリアンは立ち上がった。「庭園へ」


──────


庭園は、茶館の裏手にあった。


子爵の趣味で整えられた庭で、薔薇の季節には少し早かったが、低木の緑が、よく手入れされていた。


二人は、ゆっくりと歩いた。


会話は、しばらくなかった。


それが、不自然ではなかった。


(沈黙が──今日は、心地よいものですわ)


「──この庭園は」アドリアンが言った。「子爵が、十年かけて整えたものだそうです」


「十年、ですか」


「最初は、何も植わっていない土地だったと──聞きました」


レオノーラは、目の前の低木の列を見た。


(十年。──何も植わっていない土地に、十年かけて、こうなる)


「──時間がかかるものですわね」


「ええ」アドリアンは、少しだけ、足を止めた。「──時間がかかるものは、悪いものではないと──最近、思うようになりました」


「……最近、ですか」


「ええ。──以前は、時間がかかることを、非効率だと考えていました」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、笑った。


「──わたくしも、そうでしたわ」


「今は、ですか」


「──今は」レオノーラは、低木の葉に、指先で軽く触れた。「時間がかかったからこそ、確かなものになる──ということが、わかるようになりました」


二人は、また、ゆっくりと歩き始めた。


道の途中、少しだけ、道が狭くなる場所があった。


レオノーラが、半歩、横にずれた。


アドリアンも、半歩、横にずれた。


二人の距離が、少しだけ、近くなった。


どちらも、それを、元に戻さなかった。


(──近くなりましたわ)


(戻さなくても──よいのですわ。今日は)


それだけのことだった。それだけのことが、今日の、一番大きな出来事だった。


──────


「──一点、伺ってもよいですか」レオノーラは言った。「実務とも、これまでの確認事項とも、関係のないことです」


「どうぞ」


「──殿下は、休日に何をなさいますか」


アドリアンは、少しだけ、目を見開いた。


「──休日、ですか」


「実務でも、わたくしたちのことでもなく──殿下個人について、伺ったことが──なかったように思いますわ」


アドリアンは、少しの間、考えた。


「──本を読みます。主に、歴史書です。それから──時々、庭を歩きます。一人で」


「一人で」


「ええ。──今日のように、誰かと歩いたことは──あまり、ありませんでした」


「……そうですか」


「あなたは」アドリアンが言った。「休日に、何を──いえ」彼は少しだけ、言い直した。「──休日を、お持ちでしたか」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ、考えた。


(休日。──持っていましたかしら)


「……持っていなかったと思います」正直に言った。「実務のない日は──ありました。ただ、それを『休日』として、過ごしたことは──なかったように思いますわ」


「今日は」


「──今日は」レオノーラは、庭の先を見た。「──休日に近いかもしれませんわ。初めて」


アドリアンは、何も言わなかった。ただ、今日これまでで一番、穏やかな顔をした。


──────


庭園を一周して、入口に戻ってきた。


「──来週も」アドリアンが言った。


「──はい」レオノーラは言った。「同じ時刻で」


「庭園も、よろしいですか」


「──よろしいですわ」少しだけ、考えてから、付け加えた。「──次は、薔薇の季節に近づいているかもしれませんわね」


「──楽しみにしています」


その言葉に、レオノーラは、少しだけ、何かを感じた。


(楽しみにしています──以前、この言葉に──戸惑ったことがありましたわ)


(今日は──戸惑いませんでした)


──────


屋敷に戻ると、オットーが待っていた。


「──今日の会合は」


「実務上の成果は──ありました。来週月曜の協議に向けた、帝国側の提案を受け取りました」


「左様でございますか」


「──それと」レオノーラは、少しだけ、間を置いた。「──庭園を、歩きました」


オットーは、何も言わなかった。


「来週も、歩く予定です。──薔薇の季節に近づいたら、と」


老執事は、一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。


ただ──温かかった。


「……御意でございます」


──────


夜、書簡を書いた。


今日の書簡には、実務の内容──来週の協議の進め方──が、まず書かれた。それから、もう一行。


「──庭園、ありがとうございました。十年かけて整えられた庭だと伺いました。時間がかかったものが、確かなものになる、という言葉──わたくしも、同じように思いました。来週も、同じ時刻で。──引き続き、好意として」


書き終えて、レオノーラは、それを読み返した。


数えなかった。


(数えないことが──もう、当たり前になっていますわ)


ただ──一つだけ、気づいたことがあった。


(今日の書簡には──「記録として」という言葉が、ありませんわ)


(「好意として」だけで──十分、ということですわね)


封をして、オットーに渡した。


「──今夜中に」


「かしこまりました」


──────


翌朝、帝国から返信が届いた。


「──協議の進め方、承知しました。庭園について。──あなたが、低木に触れているところを、見ていました。十年かけて育てたものに、誰かが触れる──子爵には、伝えませんが、私には──うれしいことでした。来週も、同じ時刻で。庭園も。──引き続き、好意として。──それと、一点。来月の使節団の前に、もう一度、この庭園を歩けたら、と思っています。実務とは関係のない、提案です」


レオノーラは、その最後の一文を読んだ。


(実務とは関係のない、提案──殿下が、そう書いてきましたわ)


(提案、という言葉を──殿下から、いただいたのは──初めてですわ)


窓の外に、王都の朝があった。


南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は──来週、再配分の協議が始まる。


実務は、新しい段階に入る。


それ以外のものは──名前があり、呼び方があり、そして今──歩く庭がある。


「オットー」


「はい」


「来週月曜の協議の準備を。──それと、水曜日の庭園も、確保しておいてください。両方とも──わたくしの仕事ですわ」


老執事は一礼した。


「──御意でございます」


──────


(第二十五話 了)

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