第24話 悪役令嬢、名前で呼ぶ
木曜日の朝、レオノーラは書簡を書き終えていた。
夜は、まだ明けていなかった。
窓の外は、藍色から灰色に変わる途中だった。
書き上げた書簡を、もう一度読んだ。
二行だった。
「『好意』という名前で、お呼びください。——同じ名前で、私のことも、お呼びいただいて構いません」
二行。これまでで、一番短い書簡だった。
(短い、ということが——今日は、物足りなさではありませんわ)
行数を数える。以前はその行為に意味があった。実務とそれ以外の比率、増減、密度——数えることで、何かを確認していた。
今日は、数えて、それで終わりだった。
(数える必要が、なくなってきている、ということですわ)
それに気づいて、少しだけ、間を置いた。
「オットー」
声をかけると、すぐに扉が開いた。老執事は、すでに身支度を整えて立っていた。
「——お早うございます。お嬢様」
「届けてください。今から」
「かしこまりました」
オットーは書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は、深くはなかった。ただ——速かった。
彼は部屋を出て、廊下を歩いた。歩きながら、少しだけ、自分の足音を聞いた。
(三十年——こんなに早い時刻に、書簡を届けに出たことは、一度もございませんでした)
(お嬢様が「今から」とおっしゃったのは、昨夜のことでございました。そして今、夜明け前に、その書簡を、もう書き終えておられました)
三十年の経験は、その速さに、追いつくことを諦めた。諦めて、ただ、歩いた。
──────
その日の午前、精査委員会の解散に関する書類が届いた。
レオノーラはそれに目を通し、必要な署名を済ませた。委員長への謝意の書簡は、すでに昨日送っていた。残る手続きは、形式的なものだけだった。
午後、マリアが紅茶を持ってきた。
「お嬢様、今日はいつもより——お顔が、明るいですね」
「そうですか」
「はい。何かあったんですか」
レオノーラは少しだけ、考えた。
(何があったか、を——今日は、説明できますわ)
「——名前が、定着しましたわ」
「名前、ですか」
「先週、名前がつきました。今日は——その名前を、お互いに使ってよいことになりました」
マリアは少しの間、紅茶を置く手を止めた。それから、ゆっくりと言った。
「……それは——おめでとうございます、ということですよね」
「そう、なりますわね」
マリアは、今日は何も付け加えなかった。ただ、いつもより少しだけ丁寧に、紅茶を置いた。
部屋を出てから、廊下で、小さく——本当に小さく、ガッツポーズをした。それから、すぐに、いつもの顔に戻った。
──────
夕方、カール殿下からの書簡が届いた。
ランドルフ商会関連の件は、両国とも正式に完了した。今後は、奪還した予算の再配分計画——南区診療所、西区水路、周縁部の土地利用——について、改めて協議したいという内容だった。
末尾に、一文があった。
「——それと、ヴァレンシュタイン嬢。来月、帝国から正式な使節団が来る予定です。今回の連携への謝意を、両国の代表者が公式に表明する場になります。詳細は追って連絡します」
レオノーラはその一文を読んだ。
(正式な使節団。公式な場)
(——その場に、アドリアン殿下も、いらっしゃるのでしょうか)
それは実務上の問いだった。同時に——実務上だけの問いではなかった。
(公式な場で、殿下と顔を合わせる。それは、これまでとは——違う種類の「会合」になりますわ)
今日は、その違いについて、深く考えないことにした。
(今日、考えることではありませんわ。今日は——水曜日の準備をすることですわ)
書簡を閉じた。
──────
水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。
マリアがコートを用意した。今日は、少しだけ違う色を選んだ。
マリアは何も言わなかった。ただ、渡すときに、小さく微笑んだ。
子爵の茶館に着いたのは、約束の時刻の、ちょうどだった。
遅くも早くもなかった。
(——時間を、比べませんでしたわ。今日は)
それに気づいて、少しだけ、可笑しかった。
アドリアンは、すでに席にいた。
席に着く前に、彼が言った。
「——レオノーラ」
はじめて、その名前で、呼ばれた。
部屋に、短い間が落ちた。それは、これまでの「短い間」とは、違う種類の間だった。
「——アドリアン」
レオノーラは、その名前を、口にした。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
それが、不快ではなかった。
(不快ではない沈黙——これまでも、何度もありました。ただ——今日の沈黙は、これまでのどれとも違いますわ)
茶が運ばれてきた。
「——名前で呼ぶというのは」アドリアンが、ようやく言った。「思っていたより——大きな出来事ですね」
「思っていたより、ですか」
「ええ。『好意』という名前をつけたときより——今日の方が、何かが、変わった気がします」
レオノーラは、少しだけ考えた。
「——名前は、つけた瞬間のものですわ。呼ぶことは——毎日、繰り返すことです」
「……毎日」
「来週も、再来週も。これから、毎週——その名前で、呼び合うことになります」
「——なりますね」
「一回限りの確認ではなく——繰り返す事実になる、ということですわ。今日、それに気づきました」
アドリアンは、少しだけ、目を細めた。「——それは、また一段、深い言葉ですね」
「一段、かどうかは」レオノーラは少しだけ、茶碗を見た。「——もう、数えていませんわ」
「数えるのを、やめましたか」
「やめた、というより——数える意味が、なくなりました。一段ずつ進む段階ではなく——もう、その場所にいる、ということですから」
アドリアンは、何も言わなかった。ただ、今日これまでで、一番、静かな顔をした。
──────
二煎目の茶が来た頃、レオノーラは言った。
「——一点、確認したいことがありますわ」
「どうぞ」
「来月、帝国の使節団が来ると、カール殿下から伺いました。——その場に、あなたも、いらっしゃいますか」
アドリアンは少しだけ、間を置いた。
「——います。正式な代表として」
「……正式な代表として、ですわね」
「ええ。——その場では、私たちは、これまでの呼び方に戻ります。『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』に」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ——本当に少しだけ、笑った。
「——それは、わかっていますわ」
「わかっていますか」
「実務の場と、それ以外の場は——別のものです。これまでも、ずっと、そうでした。今日、名前で呼び合えるようになったことは——公式の場での呼び方を、変えるものではありませんわ」
「……それで、構いませんか」
「構いません」レオノーラは言った。「——むしろ、それでいいと思います。公式の場で『レオノーラ』と呼ばれたら——わたくし、たぶん、実務に集中できませんもの」
アドリアンは、今日一番、声を出して、小さく笑った。
「——それは、困りますね」
「困りますわ。だから——公式の場は『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』。それ以外の——この場所では」
「——『アドリアン』と『レオノーラ』」
「そうですわ」
「——使い分け、ですね」
「使い分けですわ」レオノーラは言った。「実務上の判断と、それ以外の判断を——これまでも、わたくしは、ずっと使い分けてきました。今回も、同じことですわ」
「——いつもの、あなたらしい結論ですね」
「らしい、でしょうか」
「はい」アドリアンは、静かに言った。「——とても」
──────
茶館を出る前に、アドリアンが言った。
「——書簡について、一点」
「どうぞ」
「これまで、書簡の中では、お本互いの名前を——書きませんでした。『あなた』や、敬称で、書いてきました」
「……そうですわね」
「今日からの書簡では——名前を、書いてもいいですか」
レオノーラは、少しだけ考えた。
(書簡は、記録ですわ。記録に——名前を、残す)
(——残してよい、と思いますわ。今日は)
「——いいと思いますわ」
「では」
「では」レオノーラは言った。「——今夜の書簡から」
──────
夜、書簡を書いた。
今日の書簡は、これまでと——書き出しが、違った。
「アドリアン。今日、名前で呼び合いました。——公式の場では、これまでの呼び方に戻ることも、確認できました。使い分け、ということですわ。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として」
書き終えて、数えた。
……数えなかった。
(数える前に、もう、書き終えた、という感覚しかありませんでしたわ)
それが、今日の、一番新しいことだった。
封をして、オットーに渡した。
「——今夜中に」
「かしこまりました」
オットーは、書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は——これまでで、一番、何も特別なものを含んでいなかった。
ただ——「いつも通り」という、それ自体が、すでに特別なことだった。
彼は廊下に出てから、立ち止まらなかった。三十年の経験は、今日、立ち止まる必要を、感じなかった。
(——日常に、なったのでございます)
──────
翌朝、帝国から返信が届いた。
「レオノーラ。——同じです。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として. ——それと、来月の使節団について. あなたと、公式の場で、もう一度、初めて会うような気持ちになると思います. 『ヴァレンシュタイン嬢』と、最初に呼ぶときの——その瞬間が、楽しみです」
レオノーラは、「初めて会うような気持ち」という一文を読んだ。
(初めて——会うような)
第一話を、思い出した。
歓迎式典の会場で、毅然と佇んでいたときのこと。アドリアンに「悪役だと思っているか」と問われたときのこと。
(あの日から——数えれば)
数えなかった。
(数える必要は、もう——ありませんわ)
窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——弧が閉じることなく、今日もある。
実務は、一区切りついていた。
それ以外のものは——名前がつき、呼び方が決まり、これからも、続いていく。
「オットー」
「はい」
「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。——それと、来月の使節団の準備も、並行して進めます。両方とも、わたくしの仕事ですわ」
「かしこまりました」
老執事は一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。ただ——いつも通りだった。
それが、今日、一番——正確な礼だった。
「御意でございます」
──────
(第二十四話 了)悪女は正しい
第三章「静かな日に、名前をつける」
第24話 悪役令嬢、名前で呼ぶ
──────
木曜日の朝、レオノーラは書簡を書き終えていた。
夜は、まだ明けていなかった。
窓の外は、藍色から灰色に変わる途中だった。
書き上げた書簡を、もう一度読んだ。
二行だった。
「『好意』という名前で、お呼びください。——同じ名前で、私のことも、お呼びいただいて構いません」
二行。これまでで、一番短い書簡だった。
(短い、ということが——今日は、物足りなさではありませんわ)
行数を数える。以前はその行為に意味があった。実務とそれ以外の比率、増減、密度——数えることで、何かを確認していた。
今日は、数えて、それで終わりだった。
(数える必要が、なくなってきている、ということですわ)
それに気づいて、少しだけ、間を置いた。
「オットー」
声をかけると、すぐに扉が開いた。老執事は、すでに身支度を整えて立っていた。
「——お早うございます。お嬢様」
「届けてください。今から」
「かしこまりました」
オットーは書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は、深くはなかった。ただ——速かった。
彼は部屋を出て、廊下を歩いた。歩きながら、少しだけ、自分の足音を聞いた。
(三十年——こんなに早い時刻に、書簡を届けに出たことは、一度もございませんでした)
(お嬢様が「今から」とおっしゃったのは、昨夜のことでございました。そして今、夜明け前に、その書簡を、もう書き終えておられました)
30年の経験は、その速さに、追いつくことを諦めた。諦めて、ただ、歩いた。
──────
その日の午前、精査委員会の解散に関する書類が届いた。
レオノーラはそれに目を通し、必要な署名を済ませた。委員長への謝意の書簡は、すでに昨日送っていた。残る手続きは、形式的なものだけだった。
午後、マリアが紅茶を持ってきた。
「お嬢様、今日はいつもより——お顔が、明るいですね」
「そうですか」
「はい。何かあったんですか」
レオノーラは少しだけ、考えた。
(何があったか、を——今日は、説明できますわ)
「——名前が、定着しましたわ」
「名前、ですか」
「先週、名前がつきました。今日は——その名前を、お互いに使ってよいことになりました」
マリアは少しの間、紅茶を置く手を止めた。それから、ゆっくりと言った。
「……それは——おめでとうございます、ということですよね」
「そう、なりますわね」
マリアは、今日は何も付け加えなかった。ただ、いつもより少しだけ丁寧に、紅茶を置いた。
部屋を出てから、廊下で、小さく——本当に小さく、ガッツポーズをした。それから、すぐに、いつもの顔に戻った。
──────
夕方、カール殿下からの書簡が届いた。
ランドルフ商会関連の件は、両国とも正式に完了した。今後は、奪還した予算の再配分計画——南区診療所、西区水路、周縁部の土地利用——について、改めて協議したいという内容だった。
末尾に、一文があった。
「——それと、ヴァレンシュタイン嬢。来月、帝国から正式な使節団が来る予定です。今回の連携への謝意を、両国の代表者が公式に表明する場になります。詳細は追って連絡します」
レオノーラはその一文を読んだ。
(正式な使節団。公式な場)
(——その場に、アドリアン殿下も、いらっしゃるのでしょうか)
それは実務上の問いだった。同時に——実務上だけの問いではなかった。
(公式な場で、殿下と顔を合わせる。それは、これまでとは——違う種類の「会合」になりますわ)
今日は、その違いについて、深く考えないことにした。
(今日、考えることではありませんわ。今日は——水曜日の準備をすることですわ)
書簡を閉じた。
──────
水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。
マリアがコートを用意した。今日は、少しだけ違う色を選んだ。
マリアは何も言わなかった。ただ、渡すときに、小さく微笑んだ。
子爵の茶館に着いたのは、約束 of 時刻の、ちょうどだった。
遅くも早くもなかった。
(——時間を、比べませんでしたわ。今日は)
それに気づいて、少しだけ、可笑しかった。
アドリアンは、すでに席にいた。
席に着く前に、彼が言った。
「——レオノーラ」
はじめて、その名前で、呼ばれた。
部屋に、短い間が落ちた。それは、これまでの「短い間」とは、違う種類の間だった。
「——アドリアン」
レオノーラは、その名前を、口にした。
二人とも、しばらく、何も言わなかった。
それが、不快ではなかった。
(不快ではない沈黙——これまでも、何度もありました。ただ——今日の沈黙は、これまでのどれとも違いますわ)
茶が運ばれてきた。
「——名前で呼ぶというのは」アドリアンが、ようやく言った。「思っていたより——大きな出来事ですね」
「思っていたより、ですか」
「ええ。『好意』という名前をつけたときより——今日の方が、何かが、変わった気がします」
レオノーラは、少しだけ考えた。
「——名前は、つけた瞬間のものですわ。呼ぶことは——毎日、繰り返すことです」
「……毎日」
「来週も、再来週も。これから、毎週——その名前で、呼び合うことになります」
「——なりますね」
「一回限りの確認ではなく——繰り返す事実になる、ということですわ。今日、それに気づきました」
アドリアンは、少しだけ、目を細めた。「——それは、また一段、深い言葉ですね」
「一段、かどうかは」レオノーラは少しだけ、茶碗を見た。「——もう、数えていませんわ」
「数えるのを、やめましたか」
「やめた、というより——数える意味が、なくなりました。一段ずつ進む段階ではなく——もう、その場所にいる、ということですから」
アドリアンは、何も言わなかった。ただ、今日これまでで、一番、静かな顔をした。
──────
二煎目の茶が来た頃、レオノーラは言った。
「——一点、確認したいことがありますわ」
「どうぞ」
「来月、帝国の使節団が来ると、カール殿下から伺いました。——その場に、あなたも、いらっしゃいますか」
アドリアンは少しだけ、間を置いた。
「——います。正式な代表として」
「……正式な代表として、ですわね」
「ええ。——その場では、私たちは、これまでの呼び方に戻ります。『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』に」
レオノーラは、それを聞いて、少しだけ——本当に少しだけ、笑った。
「——それは、わかっていますわ」
「わかっていますか」
「実務の場と、それ以外の場は——別のものです。これまでも、ずっと、そうでした。今日、名前で呼び合えるようになったことは——公式の場での呼び方を、変えるものではありませんわ」
「……それで、構いませんか」
「構いません」レオノーラは言った。「——むしろ、それでいいと思います。公式の場で『レオノーラ』と呼ばれたら——わたくし、たぶん、実務に集中できませんもの」
アドリアンは、今日一番、声を出して、小さく笑った。
「——それは、困りますね」
「困りますわ。だから——公式の場は『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』。それ以外の——この場所では」
「——『アドリアン』と『レオノーラ』」
「そうですわ」
「——使い分け、ですね」
「使い分けですわ営業」レオノーラは言った。「実務上の判断と、それ以外の判断を——これまでも、わたくしは、ずっと使い分けてきました。今回も、同じことですわ」
「——いつもの、あなたらしい結論ですね」
「らしい、でしょうか」
「はい」アドリアンは、静かに言った。「——とても」
──────
茶館を出る前に、アドリアンが言った。
「——書簡について、一点」
「どうぞ」
「これまで、書簡の中では、お互いの名前を——書きませんでした。『あなた』や、敬称で、書いてきました」
「……そうですわね」
「今日からの書簡では——名前を、書いてもいいですか」
レオノーラは、少しだけ考えた。
(書簡は、記録ですわ。記録に——名前を、残す)
(——残してよい、と思いますわ。今日は)
「——いいと思いますわ」
「では」
「では」レオノーラは言った。「——今夜の書簡から」
──────
夜、書簡を書いた。
今日の書簡は、これまでと——書き出しが、違った。
「アドリアン。今日、名前で呼び合いました。——公式の場では、これまでの呼び方に戻ることも、確認できました。使い分け、ということですわ。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として」
書き終えて、数えた。
……数えなかった。
(数える前に、もう、書き終えた、という感覚しかありませんでしたわ)
それが、今日の、一番新しいことだった。
封をして、オットーに渡した。
「——今夜中に」
「かしこまりました」
オットーは、書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は——これまでで、一番、何も特別なものを含んでいなかった。
ただ——「いつも通り」という、それ自体が、すでに特別なことだった。
彼は廊下に出てから、立ち止まらなかった。三十年の経験は、今日、立ち止まる必要を、感じなかった。
(——日常に、なったのでございます)
──────
翌朝、帝国から返信が届いた。
「レオノーラ。——同じです。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として。——それと、来月の使節団について。あなたと、公式の場で、もう一度、初めて会うような気持ちになると思います。『ヴァレンシュタイン嬢』と、最初に呼ぶときの——その瞬間が、楽しみです」
レオノーラは、「初めて会うような気持ち」という一文を読んだ。
(初めて——会うような)
第一話を、思い出した。
歓迎式典の会場で、毅然と佇んでいたときのこと。アドリアンに「悪役だと思っているか」と問われたときのこと。
(あの日から——数えれば)
数えなかった。
(数える必要は、もう——ありませんわ)
窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——弧が閉じることなく、今日もある。
実務は、一区切りついていた。
それ以外のものは——名前がつき、呼び方が決まり、これからも、続いていく。
「オットー」
「はい」
「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。——それと、来月の使節団の準備も、並行して進めます。両方とも、わたくしの仕事ですわ」
「かしこまりました」
老執事は一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。ただ——いつも通りだった。
それが、今日、一番——正確な礼だった。
「御意でございます」
──────
(第二十四話 了)




