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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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24/38

第24話 悪役令嬢、名前で呼ぶ

木曜日の朝、レオノーラは書簡を書き終えていた。


夜は、まだ明けていなかった。


窓の外は、藍色から灰色に変わる途中だった。


書き上げた書簡を、もう一度読んだ。


二行だった。


「『好意』という名前で、お呼びください。——同じ名前で、私のことも、お呼びいただいて構いません」


二行。これまでで、一番短い書簡だった。


(短い、ということが——今日は、物足りなさではありませんわ)


行数を数える。以前はその行為に意味があった。実務とそれ以外の比率、増減、密度——数えることで、何かを確認していた。


今日は、数えて、それで終わりだった。


(数える必要が、なくなってきている、ということですわ)


それに気づいて、少しだけ、間を置いた。


「オットー」


声をかけると、すぐに扉が開いた。老執事は、すでに身支度を整えて立っていた。


「——お早うございます。お嬢様」


「届けてください。今から」


「かしこまりました」


オットーは書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は、深くはなかった。ただ——速かった。


彼は部屋を出て、廊下を歩いた。歩きながら、少しだけ、自分の足音を聞いた。


(三十年——こんなに早い時刻に、書簡を届けに出たことは、一度もございませんでした)


(お嬢様が「今から」とおっしゃったのは、昨夜のことでございました。そして今、夜明け前に、その書簡を、もう書き終えておられました)


三十年の経験は、その速さに、追いつくことを諦めた。諦めて、ただ、歩いた。


──────


その日の午前、精査委員会の解散に関する書類が届いた。


レオノーラはそれに目を通し、必要な署名を済ませた。委員長への謝意の書簡は、すでに昨日送っていた。残る手続きは、形式的なものだけだった。


午後、マリアが紅茶を持ってきた。


「お嬢様、今日はいつもより——お顔が、明るいですね」


「そうですか」


「はい。何かあったんですか」


レオノーラは少しだけ、考えた。


(何があったか、を——今日は、説明できますわ)


「——名前が、定着しましたわ」


「名前、ですか」


「先週、名前がつきました。今日は——その名前を、お互いに使ってよいことになりました」


マリアは少しの間、紅茶を置く手を止めた。それから、ゆっくりと言った。


「……それは——おめでとうございます、ということですよね」


「そう、なりますわね」


マリアは、今日は何も付け加えなかった。ただ、いつもより少しだけ丁寧に、紅茶を置いた。


部屋を出てから、廊下で、小さく——本当に小さく、ガッツポーズをした。それから、すぐに、いつもの顔に戻った。


──────


夕方、カール殿下からの書簡が届いた。


ランドルフ商会関連の件は、両国とも正式に完了した。今後は、奪還した予算の再配分計画——南区診療所、西区水路、周縁部の土地利用——について、改めて協議したいという内容だった。


末尾に、一文があった。


「——それと、ヴァレンシュタイン嬢。来月、帝国から正式な使節団が来る予定です。今回の連携への謝意を、両国の代表者が公式に表明する場になります。詳細は追って連絡します」


レオノーラはその一文を読んだ。


(正式な使節団。公式な場)


(——その場に、アドリアン殿下も、いらっしゃるのでしょうか)


それは実務上の問いだった。同時に——実務上だけの問いではなかった。


(公式な場で、殿下と顔を合わせる。それは、これまでとは——違う種類の「会合」になりますわ)


今日は、その違いについて、深く考えないことにした。


(今日、考えることではありませんわ。今日は——水曜日の準備をすることですわ)


書簡を閉じた。


──────


水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。


マリアがコートを用意した。今日は、少しだけ違う色を選んだ。


マリアは何も言わなかった。ただ、渡すときに、小さく微笑んだ。


子爵の茶館に着いたのは、約束の時刻の、ちょうどだった。


遅くも早くもなかった。


(——時間を、比べませんでしたわ。今日は)


それに気づいて、少しだけ、可笑しかった。


アドリアンは、すでに席にいた。


席に着く前に、彼が言った。


「——レオノーラ」


はじめて、その名前で、呼ばれた。


部屋に、短い間が落ちた。それは、これまでの「短い間」とは、違う種類の間だった。


「——アドリアン」


レオノーラは、その名前を、口にした。


二人とも、しばらく、何も言わなかった。


それが、不快ではなかった。


(不快ではない沈黙——これまでも、何度もありました。ただ——今日の沈黙は、これまでのどれとも違いますわ)


茶が運ばれてきた。


「——名前で呼ぶというのは」アドリアンが、ようやく言った。「思っていたより——大きな出来事ですね」


「思っていたより、ですか」


「ええ。『好意』という名前をつけたときより——今日の方が、何かが、変わった気がします」


レオノーラは、少しだけ考えた。


「——名前は、つけた瞬間のものですわ。呼ぶことは——毎日、繰り返すことです」


「……毎日」


「来週も、再来週も。これから、毎週——その名前で、呼び合うことになります」


「——なりますね」


「一回限りの確認ではなく——繰り返す事実になる、ということですわ。今日、それに気づきました」


アドリアンは、少しだけ、目を細めた。「——それは、また一段、深い言葉ですね」


「一段、かどうかは」レオノーラは少しだけ、茶碗を見た。「——もう、数えていませんわ」


「数えるのを、やめましたか」


「やめた、というより——数える意味が、なくなりました。一段ずつ進む段階ではなく——もう、その場所にいる、ということですから」


アドリアンは、何も言わなかった。ただ、今日これまでで、一番、静かな顔をした。


──────


二煎目の茶が来た頃、レオノーラは言った。


「——一点、確認したいことがありますわ」


「どうぞ」


「来月、帝国の使節団が来ると、カール殿下から伺いました。——その場に、あなたも、いらっしゃいますか」


アドリアンは少しだけ、間を置いた。


「——います。正式な代表として」


「……正式な代表として、ですわね」


「ええ。——その場では、私たちは、これまでの呼び方に戻ります。『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』に」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ——本当に少しだけ、笑った。


「——それは、わかっていますわ」


「わかっていますか」


「実務の場と、それ以外の場は——別のものです。これまでも、ずっと、そうでした。今日、名前で呼び合えるようになったことは——公式の場での呼び方を、変えるものではありませんわ」


「……それで、構いませんか」


「構いません」レオノーラは言った。「——むしろ、それでいいと思います。公式の場で『レオノーラ』と呼ばれたら——わたくし、たぶん、実務に集中できませんもの」


アドリアンは、今日一番、声を出して、小さく笑った。


「——それは、困りますね」


「困りますわ。だから——公式の場は『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』。それ以外の——この場所では」


「——『アドリアン』と『レオノーラ』」


「そうですわ」


「——使い分け、ですね」


「使い分けですわ」レオノーラは言った。「実務上の判断と、それ以外の判断を——これまでも、わたくしは、ずっと使い分けてきました。今回も、同じことですわ」


「——いつもの、あなたらしい結論ですね」


「らしい、でしょうか」


「はい」アドリアンは、静かに言った。「——とても」


──────


茶館を出る前に、アドリアンが言った。


「——書簡について、一点」


「どうぞ」


「これまで、書簡の中では、お本互いの名前を——書きませんでした。『あなた』や、敬称で、書いてきました」


「……そうですわね」


「今日からの書簡では——名前を、書いてもいいですか」


レオノーラは、少しだけ考えた。


(書簡は、記録ですわ。記録に——名前を、残す)


(——残してよい、と思いますわ。今日は)


「——いいと思いますわ」


「では」


「では」レオノーラは言った。「——今夜の書簡から」


──────


夜、書簡を書いた。


今日の書簡は、これまでと——書き出しが、違った。


「アドリアン。今日、名前で呼び合いました。——公式の場では、これまでの呼び方に戻ることも、確認できました。使い分け、ということですわ。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として」


書き終えて、数えた。


……数えなかった。


(数える前に、もう、書き終えた、という感覚しかありませんでしたわ)


それが、今日の、一番新しいことだった。


封をして、オットーに渡した。


「——今夜中に」


「かしこまりました」


オットーは、書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は——これまでで、一番、何も特別なものを含んでいなかった。


ただ——「いつも通り」という、それ自体が、すでに特別なことだった。


彼は廊下に出てから、立ち止まらなかった。三十年の経験は、今日、立ち止まる必要を、感じなかった。


(——日常に、なったのでございます)


──────


翌朝、帝国から返信が届いた。


「レオノーラ。——同じです。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として. ——それと、来月の使節団について. あなたと、公式の場で、もう一度、初めて会うような気持ちになると思います. 『ヴァレンシュタイン嬢』と、最初に呼ぶときの——その瞬間が、楽しみです」


レオノーラは、「初めて会うような気持ち」という一文を読んだ。


(初めて——会うような)


第一話を、思い出した。


歓迎式典の会場で、毅然と佇んでいたときのこと。アドリアンに「悪役だと思っているか」と問われたときのこと。


(あの日から——数えれば)


数えなかった。


(数える必要は、もう——ありませんわ)


窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——弧が閉じることなく、今日もある。


実務は、一区切りついていた。


それ以外のものは——名前がつき、呼び方が決まり、これからも、続いていく。


「オットー」


「はい」


「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。——それと、来月の使節団の準備も、並行して進めます。両方とも、わたくしの仕事ですわ」


「かしこまりました」


老執事は一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。ただ——いつも通りだった。


それが、今日、一番——正確な礼だった。


「御意でございます」


──────


(第二十四話 了)悪女は正しい


第三章「静かな日に、名前をつける」


第24話 悪役令嬢、名前で呼ぶ


──────


木曜日の朝、レオノーラは書簡を書き終えていた。


夜は、まだ明けていなかった。


窓の外は、藍色から灰色に変わる途中だった。


書き上げた書簡を、もう一度読んだ。


二行だった。


「『好意』という名前で、お呼びください。——同じ名前で、私のことも、お呼びいただいて構いません」


二行。これまでで、一番短い書簡だった。


(短い、ということが——今日は、物足りなさではありませんわ)


行数を数える。以前はその行為に意味があった。実務とそれ以外の比率、増減、密度——数えることで、何かを確認していた。


今日は、数えて、それで終わりだった。


(数える必要が、なくなってきている、ということですわ)


それに気づいて、少しだけ、間を置いた。


「オットー」


声をかけると、すぐに扉が開いた。老執事は、すでに身支度を整えて立っていた。


「——お早うございます。お嬢様」


「届けてください。今から」


「かしこまりました」


オットーは書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は、深くはなかった。ただ——速かった。


彼は部屋を出て、廊下を歩いた。歩きながら、少しだけ、自分の足音を聞いた。


(三十年——こんなに早い時刻に、書簡を届けに出たことは、一度もございませんでした)


(お嬢様が「今から」とおっしゃったのは、昨夜のことでございました。そして今、夜明け前に、その書簡を、もう書き終えておられました)


30年の経験は、その速さに、追いつくことを諦めた。諦めて、ただ、歩いた。


──────


その日の午前、精査委員会の解散に関する書類が届いた。


レオノーラはそれに目を通し、必要な署名を済ませた。委員長への謝意の書簡は、すでに昨日送っていた。残る手続きは、形式的なものだけだった。


午後、マリアが紅茶を持ってきた。


「お嬢様、今日はいつもより——お顔が、明るいですね」


「そうですか」


「はい。何かあったんですか」


レオノーラは少しだけ、考えた。


(何があったか、を——今日は、説明できますわ)


「——名前が、定着しましたわ」


「名前、ですか」


「先週、名前がつきました。今日は——その名前を、お互いに使ってよいことになりました」


マリアは少しの間、紅茶を置く手を止めた。それから、ゆっくりと言った。


「……それは——おめでとうございます、ということですよね」


「そう、なりますわね」


マリアは、今日は何も付け加えなかった。ただ、いつもより少しだけ丁寧に、紅茶を置いた。


部屋を出てから、廊下で、小さく——本当に小さく、ガッツポーズをした。それから、すぐに、いつもの顔に戻った。


──────


夕方、カール殿下からの書簡が届いた。


ランドルフ商会関連の件は、両国とも正式に完了した。今後は、奪還した予算の再配分計画——南区診療所、西区水路、周縁部の土地利用——について、改めて協議したいという内容だった。


末尾に、一文があった。


「——それと、ヴァレンシュタイン嬢。来月、帝国から正式な使節団が来る予定です。今回の連携への謝意を、両国の代表者が公式に表明する場になります。詳細は追って連絡します」


レオノーラはその一文を読んだ。


(正式な使節団。公式な場)


(——その場に、アドリアン殿下も、いらっしゃるのでしょうか)


それは実務上の問いだった。同時に——実務上だけの問いではなかった。


(公式な場で、殿下と顔を合わせる。それは、これまでとは——違う種類の「会合」になりますわ)


今日は、その違いについて、深く考えないことにした。


(今日、考えることではありませんわ。今日は——水曜日の準備をすることですわ)


書簡を閉じた。


──────


水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。


マリアがコートを用意した。今日は、少しだけ違う色を選んだ。


マリアは何も言わなかった。ただ、渡すときに、小さく微笑んだ。


子爵の茶館に着いたのは、約束 of 時刻の、ちょうどだった。


遅くも早くもなかった。


(——時間を、比べませんでしたわ。今日は)


それに気づいて、少しだけ、可笑しかった。


アドリアンは、すでに席にいた。


席に着く前に、彼が言った。


「——レオノーラ」


はじめて、その名前で、呼ばれた。


部屋に、短い間が落ちた。それは、これまでの「短い間」とは、違う種類の間だった。


「——アドリアン」


レオノーラは、その名前を、口にした。


二人とも、しばらく、何も言わなかった。


それが、不快ではなかった。


(不快ではない沈黙——これまでも、何度もありました。ただ——今日の沈黙は、これまでのどれとも違いますわ)


茶が運ばれてきた。


「——名前で呼ぶというのは」アドリアンが、ようやく言った。「思っていたより——大きな出来事ですね」


「思っていたより、ですか」


「ええ。『好意』という名前をつけたときより——今日の方が、何かが、変わった気がします」


レオノーラは、少しだけ考えた。


「——名前は、つけた瞬間のものですわ。呼ぶことは——毎日、繰り返すことです」


「……毎日」


「来週も、再来週も。これから、毎週——その名前で、呼び合うことになります」


「——なりますね」


「一回限りの確認ではなく——繰り返す事実になる、ということですわ。今日、それに気づきました」


アドリアンは、少しだけ、目を細めた。「——それは、また一段、深い言葉ですね」


「一段、かどうかは」レオノーラは少しだけ、茶碗を見た。「——もう、数えていませんわ」


「数えるのを、やめましたか」


「やめた、というより——数える意味が、なくなりました。一段ずつ進む段階ではなく——もう、その場所にいる、ということですから」


アドリアンは、何も言わなかった。ただ、今日これまでで、一番、静かな顔をした。


──────


二煎目の茶が来た頃、レオノーラは言った。


「——一点、確認したいことがありますわ」


「どうぞ」


「来月、帝国の使節団が来ると、カール殿下から伺いました。——その場に、あなたも、いらっしゃいますか」


アドリアンは少しだけ、間を置いた。


「——います。正式な代表として」


「……正式な代表として、ですわね」


「ええ。——その場では、私たちは、これまでの呼び方に戻ります。『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』に」


レオノーラは、それを聞いて、少しだけ——本当に少しだけ、笑った。


「——それは、わかっていますわ」


「わかっていますか」


「実務の場と、それ以外の場は——別のものです。これまでも、ずっと、そうでした。今日、名前で呼び合えるようになったことは——公式の場での呼び方を、変えるものではありませんわ」


「……それで、構いませんか」


「構いません」レオノーラは言った。「——むしろ、それでいいと思います。公式の場で『レオノーラ』と呼ばれたら——わたくし、たぶん、実務に集中できませんもの」


アドリアンは、今日一番、声を出して、小さく笑った。


「——それは、困りますね」


「困りますわ。だから——公式の場は『殿下』と『ヴァレンシュタイン嬢』。それ以外の——この場所では」


「——『アドリアン』と『レオノーラ』」


「そうですわ」


「——使い分け、ですね」


「使い分けですわ営業」レオノーラは言った。「実務上の判断と、それ以外の判断を——これまでも、わたくしは、ずっと使い分けてきました。今回も、同じことですわ」


「——いつもの、あなたらしい結論ですね」


「らしい、でしょうか」


「はい」アドリアンは、静かに言った。「——とても」


──────


茶館を出る前に、アドリアンが言った。


「——書簡について、一点」


「どうぞ」


「これまで、書簡の中では、お互いの名前を——書きませんでした。『あなた』や、敬称で、書いてきました」


「……そうですわね」


「今日からの書簡では——名前を、書いてもいいですか」


レオノーラは、少しだけ考えた。


(書簡は、記録ですわ。記録に——名前を、残す)


(——残してよい、と思いますわ。今日は)


「——いいと思いますわ」


「では」


「では」レオノーラは言った。「——今夜の書簡から」


──────


夜、書簡を書いた。


今日の書簡は、これまでと——書き出しが、違った。


「アドリアン。今日、名前で呼び合いました。——公式の場では、これまでの呼び方に戻ることも、確認できました。使い分け、ということですわ。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として」


書き終えて、数えた。


……数えなかった。


(数える前に、もう、書き終えた、という感覚しかありませんでしたわ)


それが、今日の、一番新しいことだった。


封をして、オットーに渡した。


「——今夜中に」


「かしこまりました」


オットーは、書簡を受け取った。受け取ってから、一礼した。その礼は——これまでで、一番、何も特別なものを含んでいなかった。


ただ——「いつも通り」という、それ自体が、すでに特別なことだった。


彼は廊下に出てから、立ち止まらなかった。三十年の経験は、今日、立ち止まる必要を、感じなかった。


(——日常に、なったのでございます)


──────


翌朝、帝国から返信が届いた。


「レオノーラ。——同じです。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き——好意、として。——それと、来月の使節団について。あなたと、公式の場で、もう一度、初めて会うような気持ちになると思います。『ヴァレンシュタイン嬢』と、最初に呼ぶときの——その瞬間が、楽しみです」


レオノーラは、「初めて会うような気持ち」という一文を読んだ。


(初めて——会うような)


第一話を、思い出した。


歓迎式典の会場で、毅然と佇んでいたときのこと。アドリアンに「悪役だと思っているか」と問われたときのこと。


(あの日から——数えれば)


数えなかった。


(数える必要は、もう——ありませんわ)


窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——弧が閉じることなく、今日もある。


実務は、一区切りついていた。


それ以外のものは——名前がつき、呼び方が決まり、これからも、続いていく。


「オットー」


「はい」


「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。——それと、来月の使節団の準備も、並行して進めます。両方とも、わたくしの仕事ですわ」


「かしこまりました」


老執事は一礼した。その礼は、深くも、静かでも、軽やかでもなかった。ただ——いつも通りだった。


それが、今日、一番——正確な礼だった。


「御意でございます」


──────


(第二十四話 了)

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