第23話 悪役令嬢、名前をつける
月曜日の朝、クラウス・フォン・ハルナから書簡が届いた。
二行だった。
「執行令状、本日発行されました。差し押さえの実行は明日以降、可能です。以上」
レオノーラはその二行を読んだ。
(月曜日。予定より一日早い)
机の上に置いた。置いてから、少しの間、その二行を見た。
見ている、ということに、今日は気づいた。
(二行を読んで、それで終わりのはずですわ。なぜ——まだ見ていますの)
答えは、出なかった。出ない理由も、今日はわかっていた。
「オットー」
「はい」
「ゲルハルト文官に至急連絡してください。令状が本日発行されました。カール殿下へのご報告と、差し押さえ執行の日程調整を。——クラウス殿への返信は、私が書きます」
「かしこまりました」
「それと」レオノーラは少しだけ、間を置いた。「アドリアン殿下への書簡も、今日書きます」
「……今日中に、でございますか」
「——今夜中に」
老執事は一礼した。その礼に、何も余分なものは含まれていなかった。ただ——含まれていないことで、すべてが伝わる礼だった。
「御意でございます」
──────
午前のうちに、カール殿下との打ち合わせが入った。
ゲルハルト文官を通じて、執行日程を火曜日に確定した。ランドルフ商会の王国側法人——ルドルフ・アセット管理組合——の資産を、司法局の執行官が差し押さえる。帝国側のヴァルテン不動産管理とノルデン資産管理組合も、同日に帝国商務局が執行に入る。
両国が同日に動く。
(それが、「共同」の意味ですわ)
カール殿下が言った。「ヴァレンシュタイン嬢。第七話の穀物協定から数えれば——ずいぶん、来ましたね」
「第八話からですわ」レオノーラは言った。「診療所の数字から、始まりましたから」
「そうでしたね」カール殿下は少しだけ、目を細めた。「記録として、言っておきたい。あなたがいなければ、弧は閉じていました」
(弧は、閉じていた)
「殿下のご決断がなければ、精査委員会も存在しませんでした。数字を動かしたのは、私ではありません」
「——両方が、なければ」
「はい」レオノーラは言った。「両方が、必要でした」
カール殿下はそれを聞いて、今日これまでで一番、穏やかな顔をした。
「明日の執行が、終われば」
「ランドルフ商会については、終わります。施設は残ります。診療所も、水路も、周縁部の土地も」
「——それで、十分ですね」
「十分ですわ」
──────
午後、マリアが紅茶を持ってきた頃、レオノーラはクラウスへの返信を書き終えていた。
三行だった。実務の確認だった。問題はなかった。
「……お嬢様」マリアが少しだけ、声のトーンを変えた。「明日で——終わるんですね」
「ランドルフ商会については」
「……寂しくないですか」
レオノーラは少しだけ、手を止めた。
「寂しい」という言葉が、今日は少し、変な場所に刺さった。
(寂しい——という感情は、実務上の評価ではありませんわ)
「……寂しいかどうかは、今日はまだ、わかりません」
マリアは少しの間、何も言わなかった。それから、静かに言った。「……正直なお答えですね」
「マリア」
「はい」
「今日のあなたは——余計なことを言いませんわね」
「……言わない方がよい日と、言った方がよい日があると思いますので」
レオノーラは少しだけ、書類から目を上げた。マリアの顔を、今日は少しだけ、ちゃんと見た。
(この方は——ずっと、見ていてくれていましたわ)
それが今日、初めてはっきりわかった。
「……そうですわね」それだけ言った。
マリアは何も言わなかった。 Nissan 、紅茶を丁寧に置いて、部屋を出た。
廊下に出てから、今日は息を吐かなかった。吐く必要がなかった。
──────
夕方、精査委員会から最終報告が届いた。
ゲオルク・ファール課長は、本日午前、自ら司法局に出頭したという報告だった。
レオノーラはその一文を読んだ。
(自ら、出頭した)
「オットー」
「はい」
「精査委員会に返信してください。ファール課長の自主出頭を記録として確認しました。委員会の業務は、明日の執行をもって一区切りとなります。これまでの尽力に感謝を」
「かしこまりました」
老執事は書き留めながら、少しだけ顔を上げた。「……ファール課長は——覚悟を決めたのですね」
「昨日、荷物を整理していた。今日、出頭した。——順番通りですわ」
「順番、でございますか」
「覚悟にも、手順がありますわ」レオノーラは言った。「それが実務と違うのは——誰かに作ってもらえない、という点だけです」
老執事は一礼した。「……御意でございます」
彼は廊下に出てから、三十年の経験の中で初めて、その言葉の意味を、お嬢様のことではなく、自分のこととして受け取った。
──────
夜、アドリアンへの書簡を書いた。
書き始めて、止まらなかった。
(今日は——止まりませんわ)
それが少し、不思議だった。これまでは、実務外のことを書こうとすると、必ず一度、手が止まった。何を書くべきかを確認する間が、必要だった。
今日は、その間が、なかった。
「令状、本日発行されました。明日、両国で同時執行に入ります。カール殿下との打ち合わせも完了しています。実務は、明日で一区切りです。——それ以外の件について。今日の午後、マリアに『寂しくないか』と聞かれました。答えられませんでした。答えられなかったことが、答えだったかもしれません。ただ——何が寂しいのかは、まだ言葉になっていません。実務が終わることへの寂しさではない、ということだけは、わかっています。確認したいことが、また一点あります。今回も、実務の確認ではありません。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」
書き終えて、数えた。
八行だった。
(実務が三行。それ以外が四行。「引き続き、記録として」が一行。今日初めて、実務以外が実務の倍を超えましたわ)
(ただ——行数を数えた後で、今日は可笑しくも、不思議でもありませんでした)
(書くべきことを書いた、という感覚が、今日はありましたから)
封をして、オットーに渡した。
「今夜中に届けてください」
「かしこまりました」
彼は廊下に出て、書簡を両手で持ち直した。
(今日の書簡は——八行でございました。そして今夜のお嬢様は、書き終えた後に、止まりませんでした)
(これまでは、書いた後にしばらく、机の前で考えておられた。今日は、書き終えてすぐ、私に渡してくださった)
三十年の経験は、その速さの意味を、今日は言葉にできた。
(覚悟が、できたのでございます)
──────
翌朝、帝国から返信が届いた。
六行だった。
「令状の発行、確認しました。本日、帝国側も執行に入ります。クラウスから経過を報告させます。——それ以外の件について。『何が寂しいのかはわからない』という言葉を受け取りました。私にも、同じ言葉が使えます。実務が終わることへの寂しさではない——その点も、同じです。確認したいことが、同じくあります。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として。記録の名前は——あなたと同じものに、変わりました」
レオノーラは、「私にも、同じ言葉が使えます」という一文を読んだ。
(同じ言葉が使える、とおっしゃった)
これまでのアドリアンの返信は、こちらの言葉を「確認した」か「受け取った」と返してきた。今日は——「使える」だった。
(確認でも、受け取りでもなく——同じ場所に立っている、ということですわ)
それが一段、前に進んだ言葉だということを、今日は数秒で理解できた。
(以前なら、もう少し時間がかかりましたわ。今日は——速くなりましたわ)
その速さが、何を意味するかは、水曜日に確認できる。
──────
午前のうちに、クラウスから執行完了の報告が届いた。
四行だった。
「本日、両国同時執行、完了しました。ルドルフ・アセット管理組合、ヴァルテン不動産管理、ノルデン資産管理組合、三法人の資産を差し押さえました。ランドルフ商会の王国内および帝国内の活動は、本日をもって実質的に停止します。以上」
レオノーラはその四行を読んだ。
(完了、した)
机の上に置いた。置いてから——今日は、ただ窓の外を見た。
南の方角に、診療所があるはずだった。今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——今日から、弧が閉じることなく、ある。
施設は、残った。
(残りましたわ)
「オットー」
「はい」
「カール殿下とゲルハルト文官に、執行完了の報告を。精査委員会の委員長にも、お礼の書簡を今日中に。ランツ子爵にも——今回の件では大変お世話になりました、と」
「かしこまりました」
「それと」レオノーラは少しだけ、間を置いた。「南区の診療所に、書簡を一本。実務上の内容ではありません。ただ——届けてください」
老執事は少しの間、何も言わなかった。
「……何とお書きになりますか」
「『施設が残りました。それだけです』と」
「……それだけでよろしいですか」
「それだけで、十分ですわ」
オットーは一礼した。その礼は、今日これまでで——三十年で——一番、静かで、深かった。
「御意でございます」
──────
水曜日の午後、子爵の茶館に向かった。
マリアが今日もコートを用意した。今日は何も言わなかった。ただ、渡すときの手が、少しだけ丁寧だった。
レオノーラは今日も鏡を確認した。
(確認しましたわ。今日は——確認することが、自然になりましたわ)
子爵の茶館に着いたのは、約束の時刻の三分前だった。
先週は二分前だった。
(一分、早くなりましたわ。記録していたわけではありませんが——比べてしまいました)
アドリアンは今週も、すでに席にいた。
「今日は三分前ですね」
「先週は二分前でしたわ」
「……やはり、記録していますか」
「——比べてしまうのです。記録しているわけではありませんが」
「それは」アドリアンは少しだけ、目元を和らげた。「先週も、同じことをおっしゃっていましたね」
「……おっしゃっていましたわ」レオノーラは席に着きながら言った。「繰り返してしまいました」
「繰り返すことが——悪いわけではないと思います」
「そうですわね」レオノーラは少しだけ、手元の茶碗を見た。「ただ——繰り返しの中に、変わるものがある。今日気づきました」
──────
茶が運ばれてきた。
今日は最初から、沈黙がなかった。
それが、先週と違った。先週は、少しの沈黙の後に言葉が始まった。今日は——着席してから、ほぼ間をおかずに言葉があった。
(沈黙が、必要なくなっていますわ。先週より)
「執行が完了しました」レオノーラは言った。
「はい。クラウスから報告を受けました」
「弧は、閉じませんでした」
「閉じませんでしたね」アドリアンは少しだけ、窓の外を見た。「診療所は」
「今日も機能しているはずですわ」
「水路は」
「今日も通っているはずです」
短い間が落ちた。それは実務の報告の間ではなかった。
「……第八話から、数えていましたわ」レオノーラは言った。
「私も、数えていました」
「殿下が数えていたのは——私が実務以外を認識した回数、でしたわね」
「最初は、そうでした」アドリアンは言った。「途中から、変わりました。——今は、何を数えているか、わかりますか」
(今は、何を数えているか)
レオノーラは少しの間、考えた。
「……わかりません」正直に言った。「ただ——今日確認できますか」
「できます」
「では」
──────
アドリアンは少しの間、手元の茶碗を見た。それから、レオノーラを見た。
「今は——あなたが、名前のついていないものに、名前をつけようとしている回数を、数えています」
(名前のついていないものに、名前をつけようとしている回数)
レオノーラは、その言葉を受け取った。受け取るのに、今日は時間がかからなかった。
(速くなりましたわ。受け取るのが)
「……名前のついていないものが、あります」レオノーラは言った。
「わかっています」
「今日——つけられますか。名前を」
部屋に、短い間が落ちた。
アドリアンは静かに言った。「——あなたが、つける言葉を、聞きたいと思っています」
(あなたが、つける言葉を)
こちらに委ねた。実務上の判断ではなく——言葉の選択を、委ねた。
(日程はいつも、あなたに委ねます、とおっしゃっていた。今日は——言葉を、委ねてくださいましたわ)
レオノーラは少しの間、机の端を見た。
見てから——顔を上げた。
「……確認したいことが、ありますわ。一点だけ」
「どうぞ」
「第八話の診療所から、今日まで——殿下は、私のことを、どのように——」レオノーラは少しだけ、言葉を選んだ。「実務上の評価以上の意味で、見ていてくださいましたか」
「——はい」
アドリアンは間を置いた。
「第八話からずっと」
──────
(はい)
(第八話からずっと)
レオノーラは、その二つの言葉を、今日は声に出して確認しなかった。
確認する必要が、なかった。
今日初めて、言葉を受け取った後に、確認しなかった。
(受け取れましたわ。確認なしで)
それが何を意味するかを、今日は少しだけ、わかっていた。
「……私も」レオノーラは言った。「同じです」
「同じ、ですか」
「第八話から——実務上の評価以上の意味で、殿下のことを——」
少しだけ、止まった。止まってから、続けた。
「——見ていました」
アドリアンは何も言わなかった。
ただ、今日これまでで一番、静かで、穏やかで——人の顔をした表情を、した。
──────
二煎目の茶が来た頃、アドリアンが言った。
「名前は——つきましたか」
レオノーラは少しだけ、考えた。
(名前。今日、つけられますわ)
「……一点、確認させてください」
「どうぞ」
「これが——実務の確認ではないことは、わかっています」
「わかっています」
「……殿下が私に持っている、実務上の評価以上の意味。それに、名前をつけるとしたら——何ですか」
アドリアンは少しの間、考えた。考えてから、静かに言った。
「——好意、と呼んでいます」
(好意)
レオノーラは、その言葉を受け取った。
(好意。それが、名前ですわ)
「……私も」
「同じですか」
「——同じかどうかは、今日確認したばかりですわ」レオノーラは言った。「ただ——同じだと、思います」
「それで、十分だと思います」
「……十分、ですわ」
──────
茶館を出たのは、今日これまでで一番遅い時刻だった。
門のところで、アドリアンが言った。
「来週の水曜日も」
「——はい」レオノーラは言った。「同じ時刻で」
「実務の会合ではありませんね」
「実務の会合ではありません」レオノーラは少しだけ、立ち止まりながら言った。「——ただ、今日からは」
少し、間を置いた。
「名前がつきました」
アドリアンは少しだけ、今日一番、穏やかに笑った。
「——名前がつきましたね」
それが今日の、最後のやり取りだった。
──────
屋敷に戻ると、オットーが玄関で待っていた。
「南区の診療所から、返信が届いております」
レオノーラはそれを受け取った。
一行だった。
「施設が残りました。ありがとうございます。今日も、機能しています」
(今日も、機能しています)
レオノーラは、その一行を読んだ。
(「それだけです」と書いた。「今日も、機能しています」と返ってきた)
(十分ですわ。これで、十分です)
「オットー」
「はい」
「今日の——会合は」老執事が静かに聞いた。
レオノーラは少しだけ、間を置いた。
「実務上の成果は、ありませんでした」
「……左様でございますか」
「ただ」レオノーラは続けた。「名前がつきました」
老執事は何も言わなかった。
「名前のついていなかったものに——今日、名前をつけました。それが今日の、正確な成果ですわ」
オットーは一礼した。その礼は、三十年で一番——深く、長く、静かだった。
「……御意でございます」
彼は廊下に出てから、三十年の経験の中で初めて、仕事の手を止めた。一秒だけ、止めた。
(名前が、つきました)
(お嬢様に、名前がつきました)
それだけで、十分だった。
──────
夜、書簡を書いた。
「今日の会合、ありがとうございました。実務の報告は、ありません。——それ以外の件について。名前がつきました。『好意』という名前が、今日から、あります。その名前を受け取って——こちらにも、同じものがあることを、確認しました。確認できたことが、今日の正確な状態です。来週の水曜日、同じ時刻で。——引き続き、記録として。ただし今日からは、記録の名前が変わりましたわ」
書き終えて、数えた。
七行だった。
(実務が一行。それ以外が五行。「引き続き、記録として」の変奏が一行)
(今日初めて、実務が一行になりましたわ。それ以外が、五行)
(ただ——今日は、行数を数えた後で、数えたことを確認しませんでした)
(それが今日の、一番新しいことですわ)
封をして、オットーに渡した。
「今夜中に届けてください」
「かしこまりました」
彼は廊下に出て、書簡を両手で持ち直した。
(今日の書簡は、七行でございました。実務が一行。それ以外が、五行)
(そして——末尾に、これまでと少しだけ違う言葉がありました)
三十年の経験は、その違いを、今夜は声に出して読んだ。
「——ただし今日からは、記録の名前が変わりましたわ」
廊下に、その言葉が、静かに満ちた。
──────
翌朝、帝国から返信が届いた。
五行だった。
「名前を、受け取りました。こちらも、同じ名前があります。——今日から、その名前で呼んでいいですか。書簡の中では、まだ言葉を選びますが。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として。記録の名前は——あなたと同じものに、変わりました」
レオノーラは、「今日から、その名前で呼んでいいですか」という一文を読んだ。
(呼んでいいですか、と確認してきましたわ)
(これまでは、実務の言葉を確認してきた。今日は——名前を呼ぶことの確認を、してきた)
窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の土地は——弧が閉じることなく、今日もある。
実務は、一区切りついた。
ただ——終わらないものが、ある。
今日は、その「終わらないもの」に、名前があった。
(呼んでいいですか、という確認への返答を——今日は、書簡に書きますわ)
(そして今日の返信は——今夜中ではなく、今すぐ書きますわ)
「オットー」
「はい」
「今から、書簡を書きます。書き終えたら——すぐに届けてください。今夜中でも、今日中でも、ありません」
老執事は少しだけ、間を置いた。
「……『今から』でございますか」
「今から、ですわ」
それが今日の、正確な答えだった。
老執事は一礼した。その礼には——三十年で初めて、かすかに、確かに、笑いが含まれていた。
「御意でございます」
──────
(第二十三話 了)




