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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第三章「静かな日に、名前をつける」

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22/29

第22話 悪役令嬢、待つ

木曜日の朝、クラウス・フォン・ハルナから書簡が届いた。


 三行だった。


 「審査、順調に進んでいます。本日が五営業日目です。明日以降、追加書類の照合に入ります。経過は随時報告します。以上」


 レオノーラはその三行を読んで、机の上に置いた。


(五営業日目。順調であれば、あと二営業日から四営業日で審査が通る。執行令状の発行が三営業日。早ければ来週の木曜には令状が出る)


 スケジュールは、予定通りだった。


(予定通り、ということは——今日の仕事は、待つことですわ)


 「待つ」という状態に、今日で四日目になっていた。


 最初の一日は、それが奇妙に感じられた。次の手が先に来ない仕事というのが、この二か月間の習慣にはなかった。しかし三日目あたりから、その奇妙さが薄れてきた。


(慣れた、というより——待つ間に、別のことを考える時間ができた、ということですわ)


 別のこと、というのが何を指すか、今日は曖昧にしておくことにした。

──────

 午前の半ばに、マリアが紅茶を持ってきた。


 「お嬢様、今日は書類仕事がないんですか。珍しいですね」


 「審査の待機中ですわ。急ぎの案件がありませんので」


 「……お嬢様が急ぎの案件なしで午前を過ごしているのは——何か月ぶりですかね」


 「第一章の前から数えれば、半年近くかもしれませんわ」


 マリアは少しだけ、目を丸くした。「それは——お疲れ様でした、ですね」


 「疲れていた自覚は、当時はありませんでした」


 「それが一番疲れているときなんですよ」マリアは言った。それから、少しだけ笑った。「……今は、どうですか」


 レオノーラは少しだけ、窓の外を見た。


 「——今日は、今日の自覚があります」


 マリアは何も言わなかった。ただ、紅茶を丁寧に置いて、部屋を出た。


 廊下に出てから、小さく息を吐いた。


(「今日の自覚がある」——これまでのお嬢様は、「今日も昨日と同じ」とおっしゃっていた。「今日」という言葉が単独で出てきたのは、いつからでしたかしら)

──────

 午後、精査委員会から経過報告が届いた。


 ゲオルク・ファール課長の動向だった。


 課長は依然として欠勤中だった。ただ——昨日、都市整備課に一度だけ姿を見せたという報告が入っていた。荷物の整理のためだった。課員数名が目撃していた。


 レオノーラはその一文を読んだ。


(荷物の整理。姿を消す前の準備ではなく——逃げられないとわかった上での、身辺整理ですわ)


 「オットー」


 「はい」


 「精査委員会に返信してください。ファール課長の昨日の出勤事実は記録として残すよう、委員長に申し送りを。欠勤中の動向が把握できている状態を、今後も維持してください」


 「かしこまりました。……ファール課長は、逃げないのですね」


 「逃げようとしても、包囲網は既に敷いてあります。それを本人も理解しているのでしょう。だから荷物の整理をした」


 「……覚悟を決めた、ということですか」


 「覚悟か、諦めか——どちらかはわかりません」レオノーラは報告書を閉じながら言った。「ただ、どちらであっても、手続きは変わりません」


 オットーは一礼した。「御意でございます」


 彼は廊下に出てから、少しだけ立ち止まった。


(「どちらであっても、手続きは変わりません」——以前のお嬢様であれば、「どちらでも同じことです」とおっしゃっていた。「変わりません」は、違いを認めた上での言葉でございます)


 三十年の経験は、その一文字の差を、今日も静かに受け取っていた。

──────

 夕方近く、アドリアンからの書簡が届いた。


 四行だった。


 「クラウスから経過報告を受けています。審査は順調です。来週の木曜、令状が出る見込みで準備を進めます。——今日は、それだけです。引き続き、記録として」


 レオノーラはその四行を読んだ。


(「今日は、それだけです」)


 これまでのアドリアンからの書簡に、そのような言葉はなかった。実務の報告は常に必要な情報を過不足なく記していた。「それだけです」という言葉は——実務上の報告の枠外にある、別の何かを示唆していた。


(実務はそれだけで、他に言いたいことがあるのだけれど、書簡には書かない——ということですわ)


 それが何かは、明日になればわかる。


(明日は、水曜日ですわ)


 レオノーラは書状を机の端に置いた。置いてから、少しだけ窓の外を見た。


 今日の王都は曇りがちだった。南の方角に、診療所があるはずだった。その光は今日も、変わらず機能しているはずだった。

──────

 水曜日の午後、今週も子爵の茶館に向かった。


 マリアが今週も、コートを用意しながら少しだけ笑っていた。レオノーラは今週も、それを視界に入れないことにした。


 ただ——今日は、出かける前に鏡を一度だけ確認した。


(確認しましたわ。それだけです)


 子爵の茶館に着いたのは、約束の時刻の二分前だった。


 先週より一分遅かった。


 アドリアンは今週も、すでに席にいた。今週も一人だった。


 「今日も、時間通りですね」


 「二分前ですわ。先週は三分前でした」


 「……一分の差を記録していますか」


 「記録していたわけではありませんわ」レオノーラは席に着きながら言った。「ただ、比べてしまいました」


 アドリアンは少しだけ、目元を和らげた。「それは——実務的な比較ですか」


 「……そうではないと思います」

──────

 茶が運ばれてきた。


 今日は最初から、しばらく何も言わなかった。


 それが、先週と違った。先週は「実務の話から始めますか」という問いかけがあって、それを受けて「実務の会合ではない」という確認があった。今日は、その手順がなかった。


(手順が、必要なくなっていますわ。一週間で)


 「昨日の書簡」レオノーラは言った。「『今日は、それだけです』とありましたわ」


 「はい」


 「それ以外に、何かありましたか」


 アドリアンは少しだけ考えた。考えてから言った。「……書簡に書けないことが、一点ありました」


 「今日、確認できますか」


 「できます」


 「では」


 アドリアンは手元の茶碗を少しだけ見た。それから、レオノーラを見た。


 「先週の会合の後、帝都に戻る馬車の中で——考えていたことがありました」


 「何をですか」


 「あなたがおっしゃった言葉について。『整っていない手順で来ることを選んだ』という言葉です」


 「……覚えていますわ」


 「その言葉を聞いたとき——私が感じたことを、まだ言葉にできていませんでした。だから書簡には書けなかった」


 部屋に、短い間が落ちた。


 「……今日は、言葉になりましたか」


 アドリアンはゆっくりと言った。「——あなたが手順を整えずに来てくださったことが、嬉しかった、ということです」


 (嬉しかった)


 レオノーラは少しの間、机の端を見た。「嬉しかった」という言葉が、どこに届いたかを、今日は少しだけ確認できた。


 「……その言葉が——今日、こちらにも届きました」


 「届きましたか」


 「届きましたわ」


 アドリアンは何も言わなかった。ただ、少しだけ、今日これまでで一番静かな顔をした。

──────

 二煎目の茶が来た頃、アドリアンが言った。


 「一点、確認させてください」


 「どうぞ」


 「これは——実務の確認ではありません」


 「わかっています」


 「……あなたは、第八話から今日までの間で——一番、変わったと思う日は、いつですか」


 レオノーラは少しだけ、考えた。


 実務上で言えば、第十五話の直接会合だった。帝国と王国の連携が確立した、手続き上の転換点だった。


 ただ——今の問いは、実務上の変化を聞いているのではなかった。


(一番、変わったと思う日)


 「……先週の水曜日ですわ」


 「この茶館に来た日ですか」


 「整っていない手順で来ることを、選んだ日です。手順を整えてから動く——それがこれまでの私の動き方でした。それ以外の方法を、あの日に初めて選びました」


 「……それ以前には、一度もなかったのですか」


 「なかったと思います。少なくとも——選んでいる、と自覚したことは」


 アドリアンはその言葉を少しの間、受け取った。


 「私にとっては」彼は静かに言った。「あなたが最初に『ただ、記録として』と書いてきた日が——一番印象に残っています」


 (記録として)


 それは第八話だった。南区の診療所を訪ねた日。書簡の末尾に、初めてその言葉を添えた日。


 「……あれは」レオノーラは言った。「当時は、自分でも理由がわかりませんでした」


 「わかっていましたか、今は」


 「……少しだけ」


 「それで、十分だと思います」

──────

 三煎目の茶は頼まなかった。


 今日は、先週より少しだけ早く、帰ることにした。実務の令状が明日以降に出る可能性があった。準備を確認しておく必要があった。


 それは事実だった。


(ただ——早く帰ると言いながら、まだ席にいますわ)


 「来週の水曜日も」アドリアンが言った。


 「……はい」レオノーラは言った。「同じ時刻で」


 「承知しました」


 「実務の令状は、来週の木曜に出る見込みですわ。水曜の時点では、まだ実務の話題はありません」


 「では、また実務ではない会合ですね」


 「そうなります」レオノーラは少しだけ、立ち上がりながら言った。「……慣れてきましたわ、実務ではない会合に」


 アドリアンは少しだけ、笑った。それは先週より、一段、穏やかな笑い方だった。


 「それは——本当に進歩ですね」


 「進歩かどうかは——まだ数えている途中ですわ」

──────

 屋敷に戻ると、オットーが書簡を持って待っていた。


 「クラウス・フォン・ハルナ殿より。審査が本日通過しました。執行令状の発行手続きに入ります」


 レオノーラはそれを受け取った。


(今日、通った。予定より一日早い)


 「令状の発行は、三営業日後ですわ。来週の月曜か火曜には出る見込みです」


 「では、金曜の予定は——」


 「変更なしでよろしい。令状が出てから、カール殿下とゲルハルト文官に報告します。クラウス殿への返信は今日中に。アドリアン殿下への書簡は——今夜書きます」


 「かしこまりました。……今日の——会合は」


 レオノーラは少しだけ、間を置いた。


 「実務上の成果は、ありませんでした」


 オットーは何も言わなかった。


 「ただ」レオノーラは続けた。「先週より——一段、何かが確かになりました」


 「一段、でございますか」


 「……一段、ですわ。段階がある、ということが、今日わかりました」


 老執事は一礼した。その礼には、これまでのどの礼とも違う、かすかな温かさがあった。それは先週よりも、もう少しだけ深かった。


 「御意でございます」

──────

 夜、書簡を書いた。


 「審査通過の報告、ありがとうございます。令状の発行を待ちます。来週月曜から火曜の見込みで、カール殿下への報告を準備します。実務は、あとひと段落です。——それ以外の件について。今日の会合で、一点確認できました。『嬉しかった』という言葉が、届きました。届いた場所が、実務上の判断をする場所とは違う場所でした。それが今日の正確な状態です。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」


 書き終えて、数えた。


 七行だった。


(実務が三行。それ以外が三行。「引き続き、記録として」が一行。先週は六行で、実務以外が実務より一行多かった。今日は同数ですわ)


(ただ——内容の密度が、今日の方が、先週より深い。行数では測れないものが、あるということですわ)


 それが今日の、新しい気づきだった。


 封をして、オットーに渡した。


 「今夜中に届けてください」


 「かしこまりました」


 彼は廊下に出てから、三十年の経験の中で最も穏やかに、書簡を両手で持ち直した。


(「今夜中に」——でございます。そして今日の書簡は、行数では先週と同じでも——文の重さが、違うようでございました)


 三十年の経験は、その重さを、今日は言葉にしなかった。言葉にする必要がなかった。

──────

 翌朝、帝国から返信が届いた。


 五行だった。


 「審査通過、おめでとうございます。令状の発行を、こちらでも待っています。——それ以外の件について。『届きました』という言葉を、受け取りました。届いた場所が違う、という表現が——正確だと思います。私の方でも、同じ言葉が使えます。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」


 レオノーラは、「届いた場所が違う、という表現が——正確だと思います」という一文を読んだ。


(正確だと思います、とおっしゃった。これまでは「確認できました」と返してきた。今日は「正確だ」という評価が来た)


 こちらの言葉を確認するのではなく——評価した。それは、一段、前に進んだ言葉だった。


(一段、と思いましたわ。今日もまた)


 窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の弧は——令状が来週出れば、差し押さえの実行に入る。


 実務は、もうひと段落で終わりに近づく。


 ただ——終わらないものが、ある。


(終わらない、ということが、今日も不安ではありませんわ)


 それは先週も同じだった。ただ、今日はその不安のなさが——先週より、少しだけ確かだった。


 「オットー」


 「はい」


 「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。実務の会合ではありません」


 「かしこまりました」老執事は一礼した。


 その礼は、今日これまでで、最も軽やかだった。


 「御意でございます」

──────

(第二十二話 了)

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