第22話 悪役令嬢、待つ
木曜日の朝、クラウス・フォン・ハルナから書簡が届いた。
三行だった。
「審査、順調に進んでいます。本日が五営業日目です。明日以降、追加書類の照合に入ります。経過は随時報告します。以上」
レオノーラはその三行を読んで、机の上に置いた。
(五営業日目。順調であれば、あと二営業日から四営業日で審査が通る。執行令状の発行が三営業日。早ければ来週の木曜には令状が出る)
スケジュールは、予定通りだった。
(予定通り、ということは——今日の仕事は、待つことですわ)
「待つ」という状態に、今日で四日目になっていた。
最初の一日は、それが奇妙に感じられた。次の手が先に来ない仕事というのが、この二か月間の習慣にはなかった。しかし三日目あたりから、その奇妙さが薄れてきた。
(慣れた、というより——待つ間に、別のことを考える時間ができた、ということですわ)
別のこと、というのが何を指すか、今日は曖昧にしておくことにした。
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午前の半ばに、マリアが紅茶を持ってきた。
「お嬢様、今日は書類仕事がないんですか。珍しいですね」
「審査の待機中ですわ。急ぎの案件がありませんので」
「……お嬢様が急ぎの案件なしで午前を過ごしているのは——何か月ぶりですかね」
「第一章の前から数えれば、半年近くかもしれませんわ」
マリアは少しだけ、目を丸くした。「それは——お疲れ様でした、ですね」
「疲れていた自覚は、当時はありませんでした」
「それが一番疲れているときなんですよ」マリアは言った。それから、少しだけ笑った。「……今は、どうですか」
レオノーラは少しだけ、窓の外を見た。
「——今日は、今日の自覚があります」
マリアは何も言わなかった。ただ、紅茶を丁寧に置いて、部屋を出た。
廊下に出てから、小さく息を吐いた。
(「今日の自覚がある」——これまでのお嬢様は、「今日も昨日と同じ」とおっしゃっていた。「今日」という言葉が単独で出てきたのは、いつからでしたかしら)
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午後、精査委員会から経過報告が届いた。
ゲオルク・ファール課長の動向だった。
課長は依然として欠勤中だった。ただ——昨日、都市整備課に一度だけ姿を見せたという報告が入っていた。荷物の整理のためだった。課員数名が目撃していた。
レオノーラはその一文を読んだ。
(荷物の整理。姿を消す前の準備ではなく——逃げられないとわかった上での、身辺整理ですわ)
「オットー」
「はい」
「精査委員会に返信してください。ファール課長の昨日の出勤事実は記録として残すよう、委員長に申し送りを。欠勤中の動向が把握できている状態を、今後も維持してください」
「かしこまりました。……ファール課長は、逃げないのですね」
「逃げようとしても、包囲網は既に敷いてあります。それを本人も理解しているのでしょう。だから荷物の整理をした」
「……覚悟を決めた、ということですか」
「覚悟か、諦めか——どちらかはわかりません」レオノーラは報告書を閉じながら言った。「ただ、どちらであっても、手続きは変わりません」
オットーは一礼した。「御意でございます」
彼は廊下に出てから、少しだけ立ち止まった。
(「どちらであっても、手続きは変わりません」——以前のお嬢様であれば、「どちらでも同じことです」とおっしゃっていた。「変わりません」は、違いを認めた上での言葉でございます)
三十年の経験は、その一文字の差を、今日も静かに受け取っていた。
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夕方近く、アドリアンからの書簡が届いた。
四行だった。
「クラウスから経過報告を受けています。審査は順調です。来週の木曜、令状が出る見込みで準備を進めます。——今日は、それだけです。引き続き、記録として」
レオノーラはその四行を読んだ。
(「今日は、それだけです」)
これまでのアドリアンからの書簡に、そのような言葉はなかった。実務の報告は常に必要な情報を過不足なく記していた。「それだけです」という言葉は——実務上の報告の枠外にある、別の何かを示唆していた。
(実務はそれだけで、他に言いたいことがあるのだけれど、書簡には書かない——ということですわ)
それが何かは、明日になればわかる。
(明日は、水曜日ですわ)
レオノーラは書状を机の端に置いた。置いてから、少しだけ窓の外を見た。
今日の王都は曇りがちだった。南の方角に、診療所があるはずだった。その光は今日も、変わらず機能しているはずだった。
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水曜日の午後、今週も子爵の茶館に向かった。
マリアが今週も、コートを用意しながら少しだけ笑っていた。レオノーラは今週も、それを視界に入れないことにした。
ただ——今日は、出かける前に鏡を一度だけ確認した。
(確認しましたわ。それだけです)
子爵の茶館に着いたのは、約束の時刻の二分前だった。
先週より一分遅かった。
アドリアンは今週も、すでに席にいた。今週も一人だった。
「今日も、時間通りですね」
「二分前ですわ。先週は三分前でした」
「……一分の差を記録していますか」
「記録していたわけではありませんわ」レオノーラは席に着きながら言った。「ただ、比べてしまいました」
アドリアンは少しだけ、目元を和らげた。「それは——実務的な比較ですか」
「……そうではないと思います」
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茶が運ばれてきた。
今日は最初から、しばらく何も言わなかった。
それが、先週と違った。先週は「実務の話から始めますか」という問いかけがあって、それを受けて「実務の会合ではない」という確認があった。今日は、その手順がなかった。
(手順が、必要なくなっていますわ。一週間で)
「昨日の書簡」レオノーラは言った。「『今日は、それだけです』とありましたわ」
「はい」
「それ以外に、何かありましたか」
アドリアンは少しだけ考えた。考えてから言った。「……書簡に書けないことが、一点ありました」
「今日、確認できますか」
「できます」
「では」
アドリアンは手元の茶碗を少しだけ見た。それから、レオノーラを見た。
「先週の会合の後、帝都に戻る馬車の中で——考えていたことがありました」
「何をですか」
「あなたがおっしゃった言葉について。『整っていない手順で来ることを選んだ』という言葉です」
「……覚えていますわ」
「その言葉を聞いたとき——私が感じたことを、まだ言葉にできていませんでした。だから書簡には書けなかった」
部屋に、短い間が落ちた。
「……今日は、言葉になりましたか」
アドリアンはゆっくりと言った。「——あなたが手順を整えずに来てくださったことが、嬉しかった、ということです」
(嬉しかった)
レオノーラは少しの間、机の端を見た。「嬉しかった」という言葉が、どこに届いたかを、今日は少しだけ確認できた。
「……その言葉が——今日、こちらにも届きました」
「届きましたか」
「届きましたわ」
アドリアンは何も言わなかった。ただ、少しだけ、今日これまでで一番静かな顔をした。
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二煎目の茶が来た頃、アドリアンが言った。
「一点、確認させてください」
「どうぞ」
「これは——実務の確認ではありません」
「わかっています」
「……あなたは、第八話から今日までの間で——一番、変わったと思う日は、いつですか」
レオノーラは少しだけ、考えた。
実務上で言えば、第十五話の直接会合だった。帝国と王国の連携が確立した、手続き上の転換点だった。
ただ——今の問いは、実務上の変化を聞いているのではなかった。
(一番、変わったと思う日)
「……先週の水曜日ですわ」
「この茶館に来た日ですか」
「整っていない手順で来ることを、選んだ日です。手順を整えてから動く——それがこれまでの私の動き方でした。それ以外の方法を、あの日に初めて選びました」
「……それ以前には、一度もなかったのですか」
「なかったと思います。少なくとも——選んでいる、と自覚したことは」
アドリアンはその言葉を少しの間、受け取った。
「私にとっては」彼は静かに言った。「あなたが最初に『ただ、記録として』と書いてきた日が——一番印象に残っています」
(記録として)
それは第八話だった。南区の診療所を訪ねた日。書簡の末尾に、初めてその言葉を添えた日。
「……あれは」レオノーラは言った。「当時は、自分でも理由がわかりませんでした」
「わかっていましたか、今は」
「……少しだけ」
「それで、十分だと思います」
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三煎目の茶は頼まなかった。
今日は、先週より少しだけ早く、帰ることにした。実務の令状が明日以降に出る可能性があった。準備を確認しておく必要があった。
それは事実だった。
(ただ——早く帰ると言いながら、まだ席にいますわ)
「来週の水曜日も」アドリアンが言った。
「……はい」レオノーラは言った。「同じ時刻で」
「承知しました」
「実務の令状は、来週の木曜に出る見込みですわ。水曜の時点では、まだ実務の話題はありません」
「では、また実務ではない会合ですね」
「そうなります」レオノーラは少しだけ、立ち上がりながら言った。「……慣れてきましたわ、実務ではない会合に」
アドリアンは少しだけ、笑った。それは先週より、一段、穏やかな笑い方だった。
「それは——本当に進歩ですね」
「進歩かどうかは——まだ数えている途中ですわ」
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屋敷に戻ると、オットーが書簡を持って待っていた。
「クラウス・フォン・ハルナ殿より。審査が本日通過しました。執行令状の発行手続きに入ります」
レオノーラはそれを受け取った。
(今日、通った。予定より一日早い)
「令状の発行は、三営業日後ですわ。来週の月曜か火曜には出る見込みです」
「では、金曜の予定は——」
「変更なしでよろしい。令状が出てから、カール殿下とゲルハルト文官に報告します。クラウス殿への返信は今日中に。アドリアン殿下への書簡は——今夜書きます」
「かしこまりました。……今日の——会合は」
レオノーラは少しだけ、間を置いた。
「実務上の成果は、ありませんでした」
オットーは何も言わなかった。
「ただ」レオノーラは続けた。「先週より——一段、何かが確かになりました」
「一段、でございますか」
「……一段、ですわ。段階がある、ということが、今日わかりました」
老執事は一礼した。その礼には、これまでのどの礼とも違う、かすかな温かさがあった。それは先週よりも、もう少しだけ深かった。
「御意でございます」
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夜、書簡を書いた。
「審査通過の報告、ありがとうございます。令状の発行を待ちます。来週月曜から火曜の見込みで、カール殿下への報告を準備します。実務は、あとひと段落です。——それ以外の件について。今日の会合で、一点確認できました。『嬉しかった』という言葉が、届きました。届いた場所が、実務上の判断をする場所とは違う場所でした。それが今日の正確な状態です。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」
書き終えて、数えた。
七行だった。
(実務が三行。それ以外が三行。「引き続き、記録として」が一行。先週は六行で、実務以外が実務より一行多かった。今日は同数ですわ)
(ただ——内容の密度が、今日の方が、先週より深い。行数では測れないものが、あるということですわ)
それが今日の、新しい気づきだった。
封をして、オットーに渡した。
「今夜中に届けてください」
「かしこまりました」
彼は廊下に出てから、三十年の経験の中で最も穏やかに、書簡を両手で持ち直した。
(「今夜中に」——でございます。そして今日の書簡は、行数では先週と同じでも——文の重さが、違うようでございました)
三十年の経験は、その重さを、今日は言葉にしなかった。言葉にする必要がなかった。
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翌朝、帝国から返信が届いた。
五行だった。
「審査通過、おめでとうございます。令状の発行を、こちらでも待っています。——それ以外の件について。『届きました』という言葉を、受け取りました。届いた場所が違う、という表現が——正確だと思います。私の方でも、同じ言葉が使えます。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」
レオノーラは、「届いた場所が違う、という表現が——正確だと思います」という一文を読んだ。
(正確だと思います、とおっしゃった。これまでは「確認できました」と返してきた。今日は「正確だ」という評価が来た)
こちらの言葉を確認するのではなく——評価した。それは、一段、前に進んだ言葉だった。
(一段、と思いましたわ。今日もまた)
窓の外に、王都の朝があった。南の診療所は今日も機能しているはずだった。西区の水路は今日も通っているはずだった。周縁部の弧は——令状が来週出れば、差し押さえの実行に入る。
実務は、もうひと段落で終わりに近づく。
ただ——終わらないものが、ある。
(終わらない、ということが、今日も不安ではありませんわ)
それは先週も同じだった。ただ、今日はその不安のなさが——先週より、少しだけ確かだった。
「オットー」
「はい」
「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。実務の会合ではありません」
「かしこまりました」老執事は一礼した。
その礼は、今日これまでで、最も軽やかだった。
「御意でございます」
──────
(第二十二話 了)




