第21話 悪役令嬢、確かめる
月曜日の朝、第一便で申請書を提出した。
カール殿下の名義で、王国司法局からの正式書面が添付された申請一式が、帝国商務局宛てに発送された。書類に不備はなかった。手続きに遅延はなかった。
「オットー、申請の控えを一部保管してください。受理確認が来たら、すぐに知らせること」
「かしこまりました」
「それと——ゲルハルト文官に、申請完了の報告を今日中に。クラウス・フォン・ハルナ殿には、アドリアン殿下への書簡に同封します」
「書簡は、今日お書きになりますか」
「午後に」
レオノーラは窓の外を少しだけ見た。月曜の朝の王都が、いつもと同じように動いていた。
(申請が出た。あとは——待つだけですわ)
「待つ」という動詞が、今日の実務に初めて出てきた。これまでの二か月間、「待つ」という言葉は仕事の中になかった。常に、次の手が先にあった。調べる、整える、動かす——その連鎖だった。
今日から、少しだけ、違う。
(違う、ということが——不思議と、不快ではありませんわ)
その事実を、今日は少しの間だけ、机の前で受け取った。
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午後、アドリアンへの書簡を書いた。
「月曜の朝、第一便で共同捜査の申請書を送付しました。カール殿下名義の書面が添付されています。クラウス殿への受理確認をお願いします。申請から執行令状まで、最短で翌々週の木曜の見込みです。実務の報告は、以上です。——水曜の午後について。子爵の茶館が空いていることを確認しました。午後二時を提案します。実務の会合ではありません。引き続き、記録として」
書き終えて、数えた。
六行だった。
(実務の報告が三行。実務でない部分が二行。「引き続き、記録として」が一行。六行の内訳が、今日は自分でわかっていますわ)
以前は行数を数えた後で、可笑しかった。今日は可笑しくなかった。ただ——内訳を把握していることが、少しだけ、自分でも意外だった。
封をして、オットーに渡した。
「今日中に届けてください」
「かしこまりました。……今日は、今夜中ではなく、でございますか」
「……今日中で十分ですわ」
老執事は何も言わなかった。ただ、一礼した。
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火曜日に、帝国から二通届いた。
一通はクラウス・フォン・ハルナ名義だった。「申請書、受理しました。審査を開始します。経過は随時報告します。以上」——三行の実務報告だった。
もう一通は、アドリアンからだった。
「申請の完了、確認しました。クラウスが受理の通知を送っているはずです。——水曜の午後二時、承知しました。子爵の茶館に参ります。実務の会合ではない、ということも、承知しています。引き続き、記録として」
レオノーラは、「実務の会合ではない、ということも、承知しています」という一文を、少しの間、読んだ。
(こちらが書いた言葉を、確認として返してきましたわ。これまでと同じ構造です。ただ——これまでは、実務上の言葉を返してきた。今日は、実務ではないことを、確認として返してきた)
前回と同じ構造で、前回と違う内容だった。
(それが、今日の正確な状態ですわ)
「オットー」
「はい」
「明日の午後二時、子爵の茶館。二名分の席を頼んでください。帝国の使節団には確認済みです」
「かしこまりました。……お供は」
「一人でよろしい」
老執事は少しだけ、間を置いた。「……かしこまりました」
それだけだった。それだけで十分だった。
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水曜日の午後、いつもより一枚薄いコートを選んだ。
マリアが少しだけ目を丸くした。「……お嬢様、今日は珍しいですね。そのコート、もう何年も着ていなかったような」
「状態が良いものを選びましたわ」
「状態というか……その、色が、いつもより」
「何ですか」
「——いえ、よく似合います」レオノーラ・マリアは少しだけ笑った。「とても」
「余計なことを言わなくてよろしい」
「はい」
ただ、マリアはその後ずっと、うっかり嬉しそうな顔をしていた。レオノーラは今日も、それを視界に入れないことにした。
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子爵の茶館に着いたのは、約束の三分前だった。
アドリアンは、すでに席にいた。
今日は一人だった。クラウス・フォン・ハルナも、従者の姿もなかった。
「……今日は、本当にお一人ですのね」
「あなたも一人ですね」
「はい」
席に着いた。茶が運ばれてきた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
それが、不快ではなかった。
(不快ではない沈黙が、この方との間にはあります。それはいつからでしたわ)
最初からそうだったかもしれない。ただ——最初はそれに気づいていなかっただけかもしれない。
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「実務の話から始めますか」アドリアンが言った。
「……今日は、実務の会合ではないとおっしゃっていましたわ」
「そうですね」アドリアンは少しだけ、目元を和らげた。「では、実務の話はなしにしましょう」
「……それも、少し困りますわ」
アドリアンは小さく笑った。「困りますか」
「実務の話がない会合を、どう進めるかの手順が——まだ、整っていませんので」
「整っていない手順の会合というのは——珍しいですね、あなたには」
「珍しいですわ」レオノーラは少しだけ、手元の茶碗を見た。「ただ——今日は、整えてから来る必要はないと判断しました」
アドリアンはその言葉を少しの間、受け取った。
「……それは」彼は静かに言った。「進歩ですね」
(進歩)
「進歩かどうかは——まだわかりません。ただ、整っていない状態で来ることを、今日は選べました。それが今日の正確な状態ですわ」
「それで、十分だと思います」
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「一点、確認させてください」レオノーラは言った。
「どうぞ」
「第二十話——先週の金曜日の会合の後、殿下がおっしゃった言葉について」
「実務上は、という三文字ですね」
「ええ」レオノーラは続けた。「『実務上は、クラウスと直接やり取りする形で十分』。——その後に言葉が続かなかった。あの場では確認できませんでした。今日確認したいのは——あの言葉の後に、何がありましたか」
部屋に、短い間が落ちた。
アドリアンは手元を見た。それから、レオノーラを見た。
「実務上は、という言葉の後には——実務上以外では、という言葉が続くつもりでした」
「……実務上以外では」
「実務上以外では、私が関わりたいと思っている、という意味です」
(実務上以外では、関わりたい)
レオノーラは少しの間、机の端を見た。
「……それは」
「案件の話ではありません」アドリアンは静かに言った。「もう、そのことはわかっていると思いますが」
「……わかっています」
「では」
「では——」レオノーラは続けた。「確認できました」
それが今日の、正確な返答だった。「承知しました」ではなかった。今日は「確認できました」だった。
アドリアンは少しだけ、今日これまでで一番、目元を和らげた。
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その後、しばらくの間、二人は実務の話をしなかった。
それが奇妙なことではなかった。
アドリアンが、王都の今の季節の話をした。帝都とは緯度が違うので、この時期の光の角度が——と言いかけて、途中で止めた。
「すみません、実務と関係のない話をしていますね」
「関係のない話をするために来ましたわ」レオノーラは言った。「続けてください」
アドリアンは少しだけ、意外そうな顔をした。それから、続けた。
帝都の秋は王都より早く来ること。街路の木の葉が変わる色が、帝都では赤く、王都では黄色い傾向があること。それがなぜかは、植生の違いなのか土壌の違いなのか——調べたことはないが、毎年気になっていること。
レオノーラはそれを聞きながら、一度も「実務上の意味があるか」を考えなかった。
(実務上の意味を考えなかった。それが今日、初めてのことですわ)
その気づきを、今日は言葉にしなかった。ただ、静かに受け取った。
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茶が二煎目になった頃、レオノーラは言った。
「……一点、もう一つ確認させてください」
「どうぞ」
「これは——実務の確認ではありません」
「わかっています」
「……殿下は、第八話からのことを、数えているとおっしゃっていましたわ」
「はい」
「何を数えていましたか」
アドリアンは少しの間、考えた。考えてから、言った。
「あなたが、正確に動いた回数です」
(正確に動いた、回数)
「実務上の評価ですわね」
「最初は、そうでした」アドリアンは続けた。「ただ——途中から、数えているものが変わりました」
「……何に変わりましたか」
「あなたが、実務以外のことを認識した回数です」
レオノーラはその言葉を受け取った。受け取るのに、少しだけ時間がかかった。
(実務以外のことを認識した、回数)
「……数えられていましたのね、そちらも」
「はい」
「……何回でしたか」
アドリアンは少しだけ、微かに笑った。それは今日一番、人の顔をした笑い方だった。
「今日で——少し、変わりました。今日の前と、後とで数え方を変えた方がよいかもしれません」
(今日の前と、後)
レオノーラは、その言葉の意味を考えた。考えてから——珍しく、考えることをやめた。
「……そうですわね」
それが今日の、正確な答えだった。
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茶館を出たのは、約束の時刻から一時間半後だった。
帰り際、アドリアンが言った。
「次は——いつにしますか」
「次、というのは」
「実務の会合は、クラウスが調整します。——それ以外の次、です」
(それ以外の次)
レオノーラは少しだけ、門の前で立ち止まった。
「……決めてよろしいですか」
「それを聞いています」
「では——来週の水曜日も、同じ時刻で」
アドリアンは少しだけ、頷いた。「承知しました」
「実務の会合ではありません」
「承知しています」
それが今日の、最後のやり取りだった。
(「承知しました」が、今日は殿下から出ましたわ。いつも自分が着地するその言葉が)
それが少しだけ、可笑しかった。
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屋敷に戻ったとき、オットーが玄関で待っていた。
「帝国商務局より、申請受理の正式確認が届きました。受理日付は本日付けです」
「承知しました。ゲルハルト文官に転送してください」
「かしこまりました。……今日の——会合は、いかがでしたか」
レオノーラは少しだけ、間を置いた。
「実務上の成果は、ありませんでした」
老執事は何も言わなかった。
「ただ——」レオノーラは続けた。「実務上以外の成果が、ありました」
オットーは一礼した。その礼には、これまでのどの礼とも違う、かすかな——本当にかすかな、暖かいものが含まれていた。
「……御意でございます」
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夜、書簡を書いた。
「今日の会合, ありがとうございました。申請受理の確認が本日届きました。実務は、順調です。——それ以外の件について。確認できました。整っていない手順で来ることを選んだのは、今日が初めてでした。それが今日の正確な状態です。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」
書き終えて、数えた。
六行だった。
(申請の件が二行。それ以外が三行。「引き続き、記録として」が一行)
今日は、それ以外が実務より一行多かった。
(それが——今日の内訳ですわ)
封をして、オットーに渡した。
「今夜中に届けてください」
「かしこまりました」老執事は一礼した。
彼は廊下に出てから、三十年の経験の中で最も静かに、最も穏やかに、息を吐いた。
(「今夜中に」——でございます。そして今日の書簡は、実務以外の行が実務より多うございました)
それが何を意味するかは、三十年の経験が、今日は言葉を必要としなかった。
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翌朝、帝国から返信が届いた。
四行だった。
「申請受理の確認、承知しました。実務は順調に進んでいます。——それ以外の件について。整っていない手順で来たことを、確認できました。来週の水曜日、同じ時刻で。引き続き、記録として」
レオノーラは、「整っていない手順で来たことを、確認できました」という一文を読んだ。
(今日も、こちらの言葉が返ってきましたわ。ただ——今日返ってきたのは、実務の言葉ではありませんでした)
それが今日の、正確な変化だった。
窓の外に、王都の朝があった。南の方角に、診療所があるはずだった。西区の水路は今日も機能しているはずだった。周縁部の弧は——申請が通れば、来週には執行令状が出る。
実務は、あとひと段落で完結に近づく。
ただ——完結しないものが、一つあった。
(完結しない、ということが——今日は、不安ではありませんわ)
「オットー」
「はい」
「来週の水曜日の午後、子爵の茶館を確保してください。実務の会合ではありません」
老執事は一礼した。今日の礼は、これまでよりほんの少しだけ、軽やかだった。
「御意でございます」
──────
(第二十一話 了)




