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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第二章「王都の病は数字に宿る」

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20/25

第20話 悪役令嬢、申請する

金曜日の朝、レオノーラは七時前に執務室に入った。


机の上には、昨夜のうちに揃えておいた四点の資料があった。確認事項の詳細資料。差分メモの清書。共同捜査申請書の王国側ドラフト。精査委員会の最新報告書の抜粋。


通読した。


最初から最後まで、一ページずつ確認した。誤字はなかった。数字の不一致もなかった。論理の飛躍もなかった。


(形が、揃っていますわ)


今日は、手続きに入る日だった。


マリアが紅茶を持ってきた。「……お嬢様、今日は早いですね。いつもより」


「資料を読み返していましたわ」


「もう読んだんですか」


「昨夜も読みましたわ。今朝が二度目です」


マリアはそれを聞いて、少しだけ口元を緩めた。何も言わなかったが、その表情がうっかり出ていることを、レオノーラは今日も視界に入れないことにした。


──────


子爵の茶館に着いたのは、約束の時刻の五分前だった。


今日はオットーを連れていた。書類の管理が必要になると判断した。


先に着いていたのは、カール殿下とゲルハルト文官だった。


続いて、帝国側が入室した。


クラウス・フォン・ハルナが先に入り——その後から、アドリアンが入った。


「今日は主たる担当はクラウスです」アドリアンは席に着きながら言った。「私は確認役として同席します」


「承知しました」レオノーラは言った。「では、始めましょうか」


──────


三点の確認事項を、順番に確認した。


一点目——国境をまたぐ法人の資産帰属について。


クラウスが説明した。「帝国の商法では、法人の主たる業務拠点がある国の法が適用されます。ランドルフ商会の帝国側の関連法人——ヴァルテン不動産管理とノルデン資産管理組合は、いずれも帝都に登記があります。したがって帝国法が適用されます」


「王国側のルドルフ・アセット管理組合は、王都に登記があります」レオノーラは言った。「王国法が適用されます。ただ、両組合の代表者が同一人物であることは、今回の申請書に記載する必要がありますね」


「はい。同一人物による二国籍の法人運営として、捜査の対象が双方に及ぶことを明記します」


「問題ありません」


二点目——王国側が申請書に添付する証拠書類の形式について。


クラウスが書式の見本を机に広げた。「帝国では、提出書類に以下の条件が求められます。書類の原本または公証付きの写し。作成機関の印章。発行日と発行者名の明記。第三者機関による認証がある場合はその記録も添付」


「精査委員会の報告書は、カール殿下の命により設置された独立委員会の発行ですわ」レオノーラはゲルハルト文官に確認した。「委員長の署名入りの写しを取り寄せることは可能ですか」


「可能です。委員長に今日中に依頼します」


「もう一点——土地収用計画書の写しは、都市整備課からの提出書類ですから、課の印章が入っています。これは原本扱いになりますか」


クラウスが少しだけ考えた。「……課長代行の署名が入っていますね」


「入っています」


「課長代行による提出であっても、機関の印章がある以上、書類の効力は担保されます。ただ——」クラウスはアドリアンを一度見た。「課長本人の署名がないことを、申請書の注記に明記した方が望ましい。説明責任の観点から」


「そうしましょう」


三点目——申請から差し押さえ執行までの所要期間。


「帝国の手続きでは、申請受理から審査に五営業日から七営業日かかります」クラウスは言った。「審査通過後、執行令状の発行に三営業日。執行は令状発行の翌日から可能です」


「合計で、早くて九営業日、標準で十二営業日ですわね」


「そうなります」


「王国側の司法局の書面発行は——」レオノーラはゲルハルト文官を見た。


「今日、申請すれば月曜か火曜には発行できる見込みです」


「では、月曜に書面が揃えば、最短で翌々週の木曜には執行令状が出る計算ですわ」


クラウスがメモを取った。「概算として、その日程で調整します」


──────


三点の確認が終わったのは、一時間半後だった。


テーブルの上には、両国の書類が整然と並んでいた。レオノーラは共同捜査申請書のドラフトを開いた。


「修正が必要な箇所を、今日中に反映させます。法人の登記情報の確認。書類形式の修正。課長代行署名についての注記。以上三点を追記した最終版を、本日夕方にゲルハルト文官経由でクラウス殿にお送りします」


「ありがとうございます」クラウスは言った。「王国側の司法局への申請は、週明けの月曜でよろしいですか」


「月曜の朝、第一便で申請します」


「了解しました」


カール殿下が言ったを開いた。「ゲルハルト、司法局への手続きは、私の名義で申請するよう手配してください」


「かしこまりました」


(カール殿下の名義。これで申請が滞る可能性は、ほぼなくなりましたわ)


レオノーラは書類を揃えながら、その事実を確認した。


──────


会合が終わりに近づいたとき、アドリアンが初めて実務の話ではない言葉を言った。


「ヴァレンシュタイン嬢」


「はい」


「今日の会合で、手続きが整いました。あとは——」


「執行を待つだけですわ」レオノーラは言った。「正確には、執行が完了するまで、次の状況変化に備え続けることが仕事ですが」


「そうですね」アドリアンは静かに言った。「ただ——今日まで来るのに、時間がかかりました」


「第八話以来ですわ。診療所の数字から始まりましたから」


「そうですね」


「……数えていましたの、殿下も」


アドリアンは少しだけ、目元を和らげた。「数えていました」


それが何を数えていたのかを、今日も直接は確認しなかった。ただ——確認する必要が、以前よりは、少し小さくなっていた。


(わからないことは、調べればわかる。ただ——これは、調べ方が違うかもしれません)


──────


カール殿下が退席した後、帝国側の二人も立ち上がった。


クラウスが先に部屋を出た。


アドリアンは書類を鞄に収めながら、少しだけ動作をゆっくりにした。


「……次の会合は、執行令状が出た後になりますね」


「そうなりますわ。実務上は、クラウス殿と直接やり取りする形で十分かと思います」


「そうですね」アドリアンは言った。「実務上は」


部屋に、少しの間が落ちた。


「——実務上以外の件については」レオノーラは少しだけ、間を置いた。「また、別の機会に確認できますか」


アドリアンは、その言葉を受け取った。受け取ってから、短く言った。


「——確認します」


それが実務の返答ではないことは、今日は二人とも、わかっていた。


──────


屋敷に戻ってから、申請書の修正に取りかかった。


三点の追記を行った。法人登記情報の補足。書類形式の調整。課長代行署名の注記。


一時間かからずに仕上がった。


「オットー、ゲルハルト文官に送ってください。クラウス殿への転送をお願いします。今日中に」


「かしこまりました」


マリアが言った。「……お嬢様、今日の会合、どうでしたか」


「手続きが整いました。月曜に申請が出れば、翌々週には執行令状が出ます。弧が閉じる前に、止まります」


「……それで、終わりになるんですね」


「ランドルフ商会については、はい」レオノーラはメモを閉じながら言った。「王都の外縁部の弧は、閉じません。施設は残ります。診療所も、水路も」


マリアは少しだけ、息を吐いた。「……よかった」


レオノーラはその言葉を聞いて、少しだけ——本当に少しだけ、何かが胸の中で動いた。


(よかった、という言葉が、今日は少し違う場所に届いた気がします)


その「違う場所」が何処なのかは、今日も言葉にならなかった。


──────


夜、アドリアンへの書簡を書いた。


書き始めて、止まった。


(今日の書簡は、何を書くべきですわ)


実務の報告は、もう申請書の修正で完了していた。次の日程も、クラウスとゲルハルト文官を通じて調整される。


(実務の報告をすることは、ない)


ただ——書こうとしていた。


(書こうとしている理由が、実務上の理由ではありませんわ)


その事実を、今日初めて、真正面から確認した。


(わかっていましたわ。ただ——確認したのは、今日が初めてですわ)


ペンを取った。


書いた。


「今日の会合、ありがとうございました。申請書の最終版を夕方に送付しました。月曜に司法局へ申請します。手続きは、整いました。——あとは、執行を待つだけですわ。ただ、その前に。今日の会合の後で、殿下がおっしゃった一言を、今日も考えています。実務上は、クラウス殿と直接やり取りする形で十分——とおっしゃった後の、『実務上は』という三文字について。確認したいことが、また一点あります。ただ今回は、実務の確認ではないことは、わかっています。引き続き、記録として」


書き終えて、数えた。


八行だった。


(また八行になりましたわ。前回の七行より一行多い。ただ——今日は、行数を数えてから可笑しいとは思いませんでした)


(自分が何を書いているか、わかっていて書きましたから)


封をして、オットーに渡した。


「帝国の使節団に、今夜中に届けてください」


「……今夜中に、でございますか」


「明日の朝には届いている方がよいのです」


「さようにございますか」老執事は一礼した。「御意でございます」


彼は扉を閉めて、廊下に出た。


(「今夜中に」——でございました。いつもは「今日中に」とおっしゃる。「今夜中に」は、初めてでございます。そして——今日の書簡は、実務の報告が終わった後に、もう三行続いておりました)


三十年の経験は、その三行の意味を、今日は静かに、穏やかに、確かめていた。


──────


翌朝、早い時刻に帝国からの返信が届いた。


五行だった。


「申請書の最終版、受領しました。クラウスが確認します。月曜の申請、待っています。——そして。『実務上は』の三文字について。確認したいこと、同じくあります。次の会合は、実務の日程で調整しています。ただ——その会合の前に、もう一度、別の機会を作れますか。日程は、あなたに委ねます。引き続き、記録として」


レオノーラは、その五行を読んだ。


(「その会合の前に、もう一度、別の機会を作れますか」)


(日程は、あなたに委ねます)


今日初めて、日程の主導権が、こちらに来た。


(これは——実務上の委任ではありませんわ。わかっています)


窓の外の王都が、朝の光に染まっていた。南の方角に、診療所があるはずだった。西区の水路は、今日も機能しているはずだった。周縁部の弧は——月曜の申請が通れば、閉じることなく止まる。


仕事は、あとひと段落で終わりに近づく。


ただ——終わらないものが、一つあった。


(終わらせる必要が、あるかどうかも——今日も、定かではありませんわ)


「オットー」


「はい」


「ゲルハルト文官に確認してください。来週の水曜の午後、子爵の茶館が空いているかどうか」


老執事は少しだけ、間を置いた。


「……実務の会合の日程調整、でございますか」


レオノーラは少しだけ、書類から目を上げた。


「——そうではないかもしれませんわ」


それが今日の、正確な答えだった。


老執事は一礼した。その礼には、これまでのどの礼とも少し違う、かすかな何かが含まれていた。


「御意でございます」


彼は廊下に出て、三十年ぶりに、少しだけ足取りが軽かった。


──────


(第二十話 了)

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