第19話 悪役令嬢、手続きに入る
木曜日の午前、カール殿下との実務会合に向けた準備メモを仕上げていたとき、ゲルハルト文官から急報が届いた。
「第二稿、出てきましたわ」
オットーが封を開ける前に、レオノーラはそう言った。ゲルハルト文官の書状は薄かった。ページ数の多い追加書類なら、もっと分厚いはずだった。
「……いかがでしょうか」
「第二稿が出てきた、という報告だけですわ。中身ではなく、出てきたという事実の連絡です。中身は今日の会合で直接確認できます」
オットーは書状を開いた。
「『カール王太子殿下より。都市整備課より第二稿の提出あり。本日の実務会合にて精査委員会と合わせて確認いたします。なお、ゲオルク・ファール課長は本日も欠勤中。課長代行の課員が提出手続きを行いました。以上』」
レオノーラは少しだけ、ペンを止めた。
(課長代行が提出した。ファール課長本人ではない)
「オットー、今日の会合に第二稿の実物が出席者全員の手元に届くよう、ゲルハルト文官に確認してください。私のものは、会合前に受け取れますか」
「かしこまりました。確認いたします」
マリアが小声で言った。「……ファール課長、どうするつもりなんですかね。ずっと欠勤して」
「さあ」レオノーラはメモに書き込みながら言った。「ただ、欠勤は時間を稼ぐ手段にはなりません。手続きは、人が欠けていても進みますわ」
「……欠勤している間も、調査は続くんですね」
「それが精査委員会の意味ですわ。本人が来なくても、書類は出てくる。書類が出てくれば、照合ができる。照合ができれば、事実は動かせません」
──────
午前中に第二稿の写しが届いた。
レオノーラは会合の一時間前に開いた。
表題は「王都外縁部公共施設跡地利活用計画 試案(第二稿)」。作成日付は三年前の四月。第三稿が二年前の十一月だったから、約一年半の差があった。
(一年半の間に、何が変わったか)
第三稿との差分を確認した。
変更点は、大きく二か所だった。
一つ目は、購入者の選定方法だった。第二稿には「入札を原則とする」という記載があった。第三稿では「都市整備課長の推薦リストから選定する」に変わっていた。
(入札から裁量選定へ。競争原理を排除した)
二つ目は、北西区画の取得手順だった。第二稿には「地権者との交渉による任意取得」と書かれていた。第三稿では「都市計画上の収用手続きを活用する」に変わっていた。
(任意交渉から収用手続きへ。強制取得の手段を準備した)
レオノーラはその二か所に、それぞれ線を引いた。
(帝国では、北西の地権者が売却を拒否した。それを踏まえて、王国では強制収用の手続きに切り替えた。そしてランドルフ商会に有利な「推薦リスト選定」も追加した。これが「改良版」の内容ですわ)
「オットー」
「はい」
「第二稿と第三稿の差分を二点にまとめます。今日の会合に持参します。アドリアン殿下にも今日の書簡で共有します」
「かしこまりました。……精査委員会への提言は」
「会合で出します。この差分は、改ざんや隠蔽ではなく、商会との共同作業で計画を『改良』した証拠になります。第一稿の廃棄と合わせて、一連の経緯として整理する必要がありますわ」
──────
実務会合は午後の一時に始まった。
出席者は、カール殿下、ゲルハルト文官、精査委員会の委員長、そしてレオノーラだった。
テーブルの上に、第二稿と第三稿の写しが並べられた。
レオノーラは差分メモを委員長に渡した。
「本日、第二稿と第三稿を照合しました。変更点は主に二か所です。購入者選定方式の変更と、北西区画の取得手段の変更です。前者は競争入札から裁量選定への移行、後者は任意交渉から強制収用手続きへの切り替えです」
委員長が資料を見ながら言った。「……強制収用というのは、法的に可能なのですか。民間の再開発のために」
「都市計画法上の特定地区指定を前提とすれば、可能です。ただし、その場合には議会への提案と承認が必要になります。この計画書には、その手続きが書かれていません」
「……つまり」
「この計画を実行するには、もう一段の準備が必要だったということですわ。議会への提案を通すための、政治的な工作が。ただ——その段階には、まだ至っていなかった。凍結と精査が先に入りましたから」
カール殿下が言った。「それは、幸いでした」
「タイミングの問題ですわ」レオノーラは静かに言った。「計画の成熟度が、まだ途中でした。完成していなかったから、止められた。完成していれば——もっと難しかったと思います」
──────
共同捜査の確認事項は、会合の後半で議題になった。
カール殿下の二点——連名時の位置づけと、差し押さえ資産の処分基準——についてレオノーラが説明した。
「帝国商務局との共同捜査において、王国の司法局は対等な共同当事者として連名する形式が提案されています。補助当事者ではなく対等な当事者ですので、手続きの主導権は双方で分担します。資産の処分については、帝国内の資産は帝国の法に基づき、王国内で確認された取引の返還については王国の基準が適用される形になります。これは二か国間の不正取引に対する一般的な処理方式です」
委員長が言った。「クラウス・フォン・ハルナ殿と直接確認した方がよい点は、残っておりますか」
「三点あります。一——国境をまたぐ法人の資産が帝国と王国のどちらに帰属するかの判断基準。二——差し押さえ申請書に添付する王国側の証拠書類の形式の確認。三——申請から実際の差し押さえ執行までの所要期間の見通し」
「では、次の実務会合はクラウス・フォン・ハルナ殿を交えた場になりますね」
「そうなります」
カール殿下が言った。「日程は、今週金曜の午前で調整できますか」
「子爵の茶館を使えるか確認します。帝国の使節団に日程を打診するのは——ゲルハルト文官、お願いできますか」
「かしこまりました」
──────
会合が終わったのは夕方前だった。
帰り際、カール殿下が言った。「ヴァレンシュタイン嬢。今回の件で——あなたが動かなければ、どうなっていたか、改めて考えることがあります」
「殿下が判断してくださったからです。私は材料を整えたに過ぎません」
「そう言いますが」カール殿下は少しだけ言い淀んだ。「……これだけ広い計画が、表に出てきたのは、あなたが最初の一本の糸を引いたからです。診療所の数字から始めて——ここまで来た」
「糸は、最初からありましたわ。ただ、誰も引いていなかっただけです」
殿下はそれを聞いて、少しだけ笑った。「……あなたは本当に、褒められるのが苦手ですね」
「褒め言葉は、実務の判断材料になりません」
「わかっています」殿下は言った。「でも——記録として、言っておきたかった」
(記録として)
レオノーラは少しだけ、間を置いた。
「……承知しました」
──────
屋敷に戻って、アドリアンへの書簡を書いた。
今日の内容は整理しやすかった。第二稿との差分。共同捜査の確認事項の整理。金曜の実務会合の日程調整依頼。そして——カラウス・フォン・ハルナ殿に確認が必要な三点。
書き進めながら、ふと思った。
(今日の会合には、アドリアン殿下はいなかった)
それは当然のことだった。今日はカール殿下との実務会合で、帝国の会合ではない。それはわかっていた。
(ただ——第二稿の差分を確認したとき、最初に「アドリアン殿下に伝えなければ」と思った。カール殿下への報告より先に、その思考が来た)
それが何を意味するかは、今日も整理が難しかった。
書き終えた。七行だった。
「本日の実務会合の報告です。第二稿との差分を確認しました。変更点は二か所——購入者選定方式の裁量化と、北西区画の強制収用手続きへの切り替えです。後者は帝国での地権者拒否を踏まえた修正と見られます。第三稿が『改良版』であることが、文書上で確認できました。共同捜査の確認事項を三点にまとめましたので、金曜の実務会合でクラウス殿に確認をお願いします。日程はゲルハルト文官を通じて調整中です。引き続き、記録として」
書き終えて、七行を見た。
(前回は六行だった。今回は七行。実務の内容が増えた分、増えた)
ただ——今日は行数を数えてから、少しだけ可笑しかった。
(いつから行数を数えるようになりましたわ)
封をして、オットーに渡した。
「帝国の使節団に、今日中に届けてください。金曜の日程調整が入っていますので」
「かしこまりました。……今日の会合は、いかがでしたか」
「成果がありました。第二稿の差分が確認でき、共同捜査の具体的な確認事項が整理できました。金曜の実務会合が設定できれば、手続きに入れます」
「……それだけ、でございますか」
レオノーラは少しだけ、間を置いた。
「——カール殿下が『記録として言っておきたかった』とおっしゃいました。……不思議な言葉の使い方をされるものだ、と思いましたわ」
老執事は何も言わなかった。ただ、一礼した。
──────
翌朝、帝国から返信が届いた。
四行だった。
「報告ありがとうございます。第二稿の差分——特に収用手続きへの切り替えは、帝国での経緯と正確に対応しています。金曜の実務会合、クラウスと共に出席します。三点の確認事項、準備します。引き続き、記録として」
レオノーラはその四行を読んだ。
(「帝国での経緯と正確に対応しています」。つまり、今日の第二稿の分析は正しかった。アドリアン殿下が確認してくださった)
それから、もう一度だけ読んだ。
(「クラウスと共に出席します」。今日の会合には、アドリアン殿下も来るということですわ)
それは実務上、適切な判断だった。帝国商務局として共同捜査を主導するなら、担当官のクラウスだけでなく、殿下が同席した方が決定の速度が上がる。それは事実だった。
(……ただ、その事実を確認した後で、少しだけ何かが——)
その先を言葉にするのを、今日もやめた。
「オットー」
「はい」
「金曜の実務会合の準備リストを作ります。確認事項三点の詳細資料。第二稿・第三稿の差分メモの清書。帝国との共同捜査申請書の王国側のドラフト。精査委員会の最新報告書の抜粋。以上四点を、木曜の夕方までに揃えてください」
「かしこまりました。……木曜の夕方、でございますか」
「金曜の朝に読み返す時間を確保したいのです」
「さようでございますか」老執事は一礼した。「御意でございます」
彼は廊下に出てから、ゆっくりと歩いた。
(木曜の夕方までに、でございました。これまでであれば「前日の夜で構いません」とおっしゃるか、あるいは「今日中に」とおっしゃっていた。「読み返す時間を確保したい」——それは、いつもの急ぎの言葉とは、少し違う)
三十年の経験は、その違いを静かに、穏やかに、受け取っていた。
──────
木曜日は、準備と待機の一日だった。
精査委員会から第一稿の廃棄記録の追加報告が届いた。廃棄日時の記録は存在していた。日付は——第二稿が作成された三年前の四月より、二週間前だった。
(第一稿の廃棄は、第二稿の完成直前だった)
「オットー」
「はい」
「廃棄日時の記録をゲルハルト文官に転送してください。精査委員会への申し送りとして、廃棄のタイミングと第二稿の作成日の関係を記録に残すよう伝えてください。意図的な証拠の整理である可能性を、委員会が明示的に認識しておく必要があります」
「かしこまりました」
マリアが言った。「……第一稿が廃棄されたのが第二稿の直前、ということは——第一稿には、まずい内容が書かれていたんですね」
「おそらく」レオノーラは照合メモを整理しながら言った。「第一稿には、帝国との直接の取引の痕跡か、あるいは商会との関係がより明示的に書かれていたかもしれません。第二稿では、その記述を削って『計画書』の体裁を整えた」
「証拠を消してから、きれいな書類を作り直したんですね」
「作り直した書類も、比べれば差分が出ます」レオノーラは静かに言った。「消したと思っても、消えていないことがある。それが、書類の性質ですわ」
「……なんか、それ、他のことにも聞こえます」
マリアが小声で言った。レオノーラは書類に視線を戻した。
(他のこと)
今日も、その先は言葉にならなかった。
──────
木曜の夕方、四点の準備資料が揃った。
レオノーラはそれを一度通読してから、端を机に打ちつけて整えた。
確認事項の詳細資料。差分メモの清書。申請書のドラフト。最新報告書の抜粋。
(形が、揃っていますわ)
明日の会合で確認できれば、共同捜査の申請手続きが始まる。申請が通れば、差し押さえの実行に入れる。差し押さえが実行されれば——ランドルフ商会は、動けなくなる。
王都の外縁を囲んでいた弧が、閉じる前に止まる。
(あと、もう一段)
窓の外に、いつものように南の方角が見えた。診療所の光は今日も機能しているはずだった。西区の水路は、雨季を乗り越えていた。周縁部の弧は——明日、次の段階に入る。
机の端に、今朝届いた帝国からの四行の書状があった。「クラウスと共に出席します」という言葉が入った方。
(明日は、実務の会合ですわ)
それは事実だった。
(ただ——「記録として言っておきたかった」と、カール殿下がおっしゃった。そしてアドリアン殿下は、実務の確認事項の書簡に、「同様に、確認できました」と二文字を添えてくる)
記録として残ること。確認できること。
(それは——実務上の言葉ですわ。ただ、実務上だけの言葉ではないかもしれない)
そこまで考えて、今日もうまく続かなかった。
レオノーラは準備資料を一束にまとめた。明日の会合の前に読み返すための、一セット。
(明日は、手続きに入る日ですわ)
それが今日の、正確な状態だった。
──────
(第十九話 了)




