第16話 悪役令嬢、照合する
帝国の取引記録の写しは、予告通り翌朝に届いた。
封を開けたのは朝の七時だった。オットーがそれを持ってきたとき、レオノーラはすでに机の前に座っていた。
「……帝国からの書状でございます」
「ありがとうございます」
老執事は一礼して、部屋を出た。廊下に出てから、小さく首を振った。それは咎めではなかった。
(昨日も七時前には起きていらした。おとといも)
その観察は、胸に仕舞った。
──────
取引記録は四十七ページだった。
レオノーラはまず目次を確認し、次に末尾の一覧表を開いた。取引の件数は九十一件。期間は四年前から現在まで。対象は帝都外縁部の不動産取引と、関連する資産移転の記録だった。
(クラウス・フォン・ハルナは、仕事が丁寧ですわ)
一覧表の右端に、購入者名義の法人名が列記されていた。昨日オットーに依頼した照合リストを傍らに引き寄せ、レオノーラはペンを取った。
最初の一致は、七件目だった。
「ヴァルテン不動産管理」。王国側の精査委員会の認定書類には、ランドルフ商会と顧問契約を持つ関連業者として同名の法人が登録されていた。帝国側の記録には、同法人が四年前に帝都外縁の旧公共集会施設の跡地を購入したと記されていた。購入価格は市場評価額の三割以下だった。
(三割以下)
レオノーラはその数字に線を引いた。
次の一致は、十二件目だった。「ノルデン資産管理組合」。王国の精査資料には、ルドルフ・アセット管理組合との接点が指摘されていた法人だった。帝国側の記録では、三年前に帝都外縁の診療施設跡地の購入に関与していた。
(診療施設。王国の南区と同じですわ)
「オットー」
「はい」
「照合作業を続けます。今日中に終わらせたい。午前中の予定を確認してください」
「侯爵家の定例収支査定が一件、午後に入っています。午前は空いております」
「では午前は、これに集中します。午後の査定の前に、照合結果をまとめます」
「かしこまりました」
マリアが紅茶を持ってきた。テーブルの端に置いて、横から書類を覗き込もうとして、やめた。
「……お嬢様、難しそうな資料ですね」
「照合作業ですわ。同じ人物と法人が、帝国と王国で同じ手口を使っている。その重なりを確認しています」
「それって……つまり」
「ランドルフ商会は一つの国の問題ではない、ということですわ。帝国でやっていたことを、王国でも同じ手順でやっている。同じ人物が、国境をまたいで動いている」
マリアは少しだけ青ざめた顔で言った。「……それ、怖くないですか」
「怖い、という評価は、実務上の判断材料になりません」レオノーラはペンを動かしながら言った。「ただ、規模が想定より大きかった、という認識の修正は必要ですわ」
「……はい」
「紅茶、ありがとうございます」
マリアは少し驚いた顔をした。それから小声で言った。「……いえ、そんな」
その感想は、声に出したまま置いておいた。
──────
午前中の照合作業で、一致が確認された法人は十一件だった。
うち七件は、王国の精査委員会の認定書類に直接名前が出ている。残り四件は、認定書類に出てくる法人と「代表者が同一」または「住所が近接」という間接的な紐付きだった。
(七件の直接一致。これは偶然ではありません)
レオノーラは一覧表に数字を書き込んだ。一致した件数。購入価格の市場評価額からの乖離率。取引の時系列。
時系列を並べると、一つのことが見えてきた。
帝国での取引が先行していた。帝都外縁部での取引が本格化したのは四年前から三年前。王国での取引——南区の補助金削減が本格化したのは三年前から。
(帝国でやり方を確立してから、王国に持ち込んだ。手順が洗練されている。三年前の「王都周縁部開発準備費」の設置も、その文脈に収まる)
「オットー」
「はい」
「今日の照合結果を、三点に整理してカール殿下に報告します。一、直接一致した法人の件数と取引内容。二、帝国での取引が王国より先行している時系列の事実。三、同一手口の「型」が国境をまたいで展開されているという推定。内容は今日の午後、ゲルハルト文官経由で送ります」
「かしこまりました。……それと、帝国のクラウス・フォン・ハルナ殿への報告は、いかがいたしますか」
レオノーラは少しだけ、ペンを止めた。
(クラウス・フォン・ハルナへの報告)
照合の結果は、帝国側にとっても有用な情報だ。差し押さえの対象を特定するためにも、法人の一致リストは必要になる。
「……アドリアン殿下への書簡に、照合結果の概要を添えます。クラウス殿への直接の連絡は、殿下経由で行うのが適切ですわ」
「御意でございます」
老執事は一礼した。廊下に出てから、ゆっくりと歩いた。
(「殿下経由で」とおっしゃった。内容を伝えるだけなら、クラウス殿へ直接連絡することもできる。それをしないのは——)
その考えは、胸に仕舞った。三十年の経験が、このあたりのことは待つものだと知っていた。
──────
午後の収支査定を終えたのは、夕方近くだった。
レオノーラは査定書類を片付けてから、カール殿下への報告書の下書きを仕上げた。それをオットーに渡してから、アドリアンへの書簡を書き始めた。
今日の内容は多かった。
照合の結果。七件の直接一致。時系列の先行関係。帝国での手口が王国に展開された経緯の推定。そして——司法局への書面要請の進捗確認。
(書くことは多い。ただ、どこまでが実務で、どこからが——)
レオノーラは少しだけ、ペンを止めた。
「……何でもありませんわ」
誰にも向けていない言葉だった。マリアは部屋の隅で別の書類を整理していて、聞こえなかった。
書き直すことなく、続きを書いた。
──────
書簡は八行になった。
「帝国の取引記録の照合が完了しました。王国側の精査資料との直接一致は七件です。うち法人の代表者が同一の案件を含めると十一件。帝国での取引は王国より一年から一年半先行しており、手口が帝国で確立された後に王国へ展開されたと推定されます。一覧表を別添します。差し押さえの対象特定に使えるかどうか、クラウス・フォン・ハルナ殿にご確認いただけますか。司法局への書面要請については、明日カール殿下に改めて確認します。周縁部の土地収用計画書については、精査委員会が追加精査に入る見込みです。引き続き、記録として」
書き終えて、最後の五文字を見た。
(八行ですわ)
これまでの書簡の行数が、頭の中で並んだ。六行、七行、四行、五行、六行、七行、七行。今日は八行だった。
(増えているか、減っているかは——今日は考えませんわ)
そう決めて、封をした。
「オットー、帝国の使節団に明朝届けてください」
「……本日の返信は、何行でしたか」
「八行ですわ」
「先回は七行でございましたね」
「照合の結果を入れましたので、内容が増えました」
「さようでございますか」老執事は何も言わなかった。「御意でございます」
彼は一礼して、扉を閉めた。廊下に出てから、小さく息をついた。それは溜息ではなかった。
(八行。そして「クラウス殿にご確認いただけますか」という一文が、クラウス殿への直接連絡ではなく、殿下を経由する形で書かれている)
老執事は、それ以上何も考えないことにした。考えれば、顔に出る。顔に出れば、叱られる。
──────
翌朝、二通の書状が届いた。
一通は帝国からだった。
五行だった。
「照合結果、確認しました。七件の直接一致は、帝国商務局の差し押さえ申請に使用できます。クラウスが詳細を精査します。別添の一覧表について、三件追加で確認できた法人があります。こちらからの補足を別途送ります。司法局の書面が揃い次第、帝国側は速やかに手続きに入れます。引き続き、記録として」
レオノーラはその五行を読んだ。
(三件追加。こちらが十一件、先方が三件補足——合計十四件の一致)
それは想定より多かった。
もう一通は、ゲルハルト文官からだった。
「カール王太子殿下より。昨日の報告について、二点。一、司法局への書面要請は本日付けで正式に行いました。発行までおよそ五日から七日の見込みです。二、精査委員会の追加精査については、委員長が本日中に周縁部の土地収用計画書の提出要請を都市整備課に発出します。なお、殿下より一点ご確認です——ゲオルク・ファール課長が昨日、局内で長時間の個別面談を行ったとの報告が届いています。相手は三名。いずれも都市整備課の部下です。念のため。以上」
レオノーラはその最後の三行を、少しだけ長く見た。
(長時間の個別面談。三名の部下)
二つの読み方があった。一つは、追加精査の圧力に備えて口裏を合わせている。もう一つは、単純な業務の引き継ぎや確認をしている。
(タイミングが、また美しくありませんわ)
「オットー」
「はい」
「ゲルハルト文官経由でカール殿下に。二点です。一——ゲオルク・ファール課長の個別面談の相手三名について、精査委員会が参考人として事情聴取を検討するよう提案してください。理由は、周縁部予算区分の追加精査に関連して重要な事実を知り得る立場にある可能性があるため、という形で。二——計画書の提出期限について、都市整備課への要請に『三営業日以内の提出』という期限を明記するよう委員会に依頼してください。期限を明示しないと、引き延ばしが起きます。以上」
「……迅速でございますね」
「タイミングの問題ですわ」レオノーラは次の書類に手を伸ばしながら言った。「動ける時に動く。それだけのことです」
「御意でございます」
老執事は一礼した。
マリアが小声で言った。「……お嬢様って、本当に、全部見えてるんですね」
「見えているわけではありません」レオノーラは書類から目を上げずに言った。「見えていないことの方が多い。ただ、見えていないものは、見えるようにするのが仕事ですわ」
「……それって」マリアは少し考えた。「見えているのと、同じじゃないですか」
「違います」
「どう違うんですか」
「見えていることは、確かなことです。見えるようにすることは——まだ、不確かなことを確かにしていく過程ですわ。その二つは、別のことです」
マリアはそれを聞いて、少しだけ間を置いた。それから小声で言った。「……なんか、それ、別のことにも聞こえます」
「何のことですか」
「い、いえ。何でもないです」
レオノーラは書類に視線を戻した。
(別のこと)
その言葉の意味を考えて、少しだけ間を置いた。
(……今日も、わかりませんわ)
──────
午後、帝国からの補足書類が届いた。
三件の追加一致法人と、その取引の詳細だった。
レオノーラはそれを照合リストに追記しながら、一つのことに気がついた。
追加の三件のうち、二件の取引日付が——王国の「王都周縁部開発準備費」の設置日より、わずかに前だった。
(帝国での取引が完了した直後に、王国で準備費が設置されている)
これは——偶然ではなかった。帝国での成功を確認してから、王国でも同じ手順に入ったということだ。
「オットー」
「はい」
「今日の補足書類について、一点気づいたことがあります。帝国の追加取引の完了日と、王国の準備費設置日の時系列を確認しました。帝国の取引完了が先行しています。この事実をアドリアン殿下への明日の書簡に追記します。今日は急ぎの連絡は不要ですわ」
「かしこまりました。……今日はここで、でございますか」
「今日は、ここまでですわ」
レオノーラは照合リストを一束にまとめた。書類を揃えて、端を机に打ちつけて整えた。
今日確認できたこと。直接一致十四件。時系列の先行関係の証拠。ファール課長の動き。司法局書面の発行見込み日。
(形が、見えてきた)
全体の輪郭は、今日でかなり明確になった。ランドルフ商会が何をしているか。どの国で、どの手順で。誰が動いて、どこに資金が流れているか。
ただ——一点だけ、まだ見えていないものがあった。
(土地収用計画書。あれが出てくれば、目的が確定しますわ。王都の外縁にある土地を取った後、商会は何をするつもりだったか)
それが確定すれば、「排除」の次の段階に入れる。不正を止めるだけでなく、取られた土地や資金を取り戻す手続きに。
(ただ、今日はここまで)
レオノーラは窓の外を一度見た。
橙の光が、王都の上に広がっていた。南の方角に、いつものように小さな灯りの群れが見えた。診療所の光も、その中にあるはずだった。西区の水路は、雨季の前に補修が終わっているはずだった。周縁部は——まだ、その先の計画が残っている。
(でも、形は見えた。次が読める)
机の上には、帝国からの書状が一通、整然と置かれていた。補足書類の添状だった。クラウス・フォン・ハルナの署名がある、簡潔な実務文書だった。
ただ——その一枚の下に、昨日届いた書簡がまだあった。「実務上以上に、有益でした」という言葉が書かれた方ではなく、今日届いた「引き続き、記録として」の五行の方。
(これは、業務書類として保管できますわ)
そう思った。思ってから、少しだけ間を置いた。
(……今日の書簡は、実務の確認だけですから。「実務上以上に」という言葉は、今日は含まれていなかった)
その事実を確認して、レオノーラはまた少しだけ間を置いた。
(……今日の書簡に「実務上以上に」が含まれていなかったことを、確認しましたわ)
それが何を意味するのか、今日もうまく言葉にならなかった。
レオノーラは次の書類を引き寄せた。明日のカール殿下への報告書の下書きだった。
仕事は、まだ終わっていなかった。
──────
(第十六話 了)




