第15話 悪役令嬢、直接会う
精査委員会の最終報告書が届いたのは、第十四話の翌週、木曜日の朝だった。
書類は分厚かった。百十二ページ。レオノーラは表紙を開き、目次を確認してから、最初の要旨ページを読んだ。
要旨は三ページにまとめられていた。
調査対象は財務局案件・土木局案件・都市整備課案件の三本。ブロッサー財務次官補の関与が確認された案件は十七件。うち不正認定が確定したものは九件。補助金の不当削減・予算配分委員会を通じた維持費の意図的削減・都市整備課を通じた準備費の積み立て操作が、それぞれ記録と証拠によって裏付けられた。
「王都周縁部開発準備費」については、同予算区分がゲオルク・ファール課長の起案によりブロッサー次官補の人事関与下で設置されたこと、および執行の意思決定がブロッサー次官補の指示系統に属していたことが認定された。
(九件。十七件のうち九件が確定。残りの八件は証拠不十分、ということですわ)
レオノーラは要旨の最終行を確認した。
「以上の認定に基づき、委員会はブロッサー財務次官補の職務停止および司法局への引き渡しを勧告する。なお、ランドルフ商会については別途、司法局において捜査が開始される見込みである」
(職務停止と司法局への引き渡し。精査委員会としての仕事は、これで終わり)
レオノーラは報告書を閉じた。机の上に置いた。少しだけ、手を止めた。
「オットー」
「はい」
「精査委員会の最終報告が出ました。アドリアン殿下の使節団に、今日中に通知を入れてください。内容は——報告書が出たこと、不正認定が確定したこと、帝国との連携について調整に入れる段階になったこと。この三点」
「……かしこまりました。直接会合の日程も、併せて打診しますか」
「お願いします」
老執事は一礼して、部屋を出た。マリアが執務室の隅から小声で言った。「……終わったんですね、ブロッサーの件」
「精査委員会の仕事は、ここまでですわ。司法の仕事が始まります」
「それって、つまり……」
「次官補は逮捕される見込みです。ランドルフ商会も、捜査に入る」
マリアは少しだけ、息を吐いた。それから小声で言った。「……よかった」
レオノーラは次の書類に手を伸ばしながら、短く言った。
「予定通りです」
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翌日の夕方、アドリアンからの返信が届いた。
四行だった。
「最終報告の確認、ありがとうございます。帝国商務局との調整を開始します。直接会合について、明後日の午前はいかがでしょうか。場所は御提案に委ねます。引き続き、記録として」
レオノーラはその四行を一度読んだ。
(明後日の午前)
二日後。それは十分な時間だった。資料を準備するには。
(……資料を準備するには、という理由で考えたのが、少し可笑しいですわね)
その先の考えは、来なかった。
「オットー」
「はい」
「明後日の午前、子爵の茶館を使えるか確認してください。先方は——帝国の使節団員が数名来る形になります。記録を残さない会合として」
「……子爵の茶館、でございますか。つまり、今回も子爵が同席されますか」
「ランツ子爵には場所だけ借ります。今回の会合の主たる目的は帝国商務局との実務調整ですので、子爵は同席不要ですわ。ただ、慣れた場所の方が——」
レオノーラは少しだけ、言葉を止めた。
(慣れた場所の方が、何ですか)
「……実務上の効率が良いですわ」
老執事は何も言わなかった。「御意でございます」
彼は一礼して、扉を閉めた。廊下に出てから、小さく息をついた。それは溜息ではなかった。
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当日の朝、レオノーラは早めに執務室に入った。
準備した書類は三束だった。ランドルフ商会の国内資産に関する精査委員会の認定書類の写し。帝国商務局が差し押さえを行うために必要な証跡の形式についての整理メモ。そして——「王都周縁部開発準備費」の詳細資料。
(「周縁部」の件は、まだ終わっていません)
ブロッサー次官補の不正認定は確定した。しかし、四十二万ルタールがどこに向かうはずだったのか——その先の計画は、まだ明らかになっていなかった。帝国での類似事例を聞くことが、今日の優先事項のひとつだった。
マリアが紅茶を持って来た。「お嬢様、今日は本当に早いですね」
「仕事があれば、早くなります」
「あの……今日、アドリアン殿下とも会われますよね」
「帝国商務局の担当者と会います。殿下も同席されるかどうかは、聞いていませんわ」
マリアは少しだけ口を引き結んだ。(聞いていない、って言ったけど、書簡のやり取りの感じだと……)
その感想は声に出さなかった。
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茶館に着いたのは、約束の時刻の十分前だった。
オットーが先に入り、部屋の確認をした。奥の個室は、三人掛けのテーブルが二つある静かな部屋だった。窓は中庭に面していて、通りからは見えない。
帝国の側が来たのは、約束の時刻ちょうどだった。
先に入ってきたのは、三十代とおぼしき男性だった。落ち着いた濃紺の上着に、帝国商務局の紋章を示す小さな留め具が胸元にあった。
「帝国商務局、通商監査部のクラウス・フォン・ハルナと申します。アドリアン王太子殿下の命により、参りました」
「ヴァレンシュタイン侯爵家のレオノーラです。本日はお時間をいただきありがとうございます」
男性の後ろから、もう一人が入ってきた。
レオノーラは、入り口を向いたまま、少しだけ動きを止めた。
「——直接来るとは、書いていませんでしたわね」
「書くと来にくくなると思いまして」
アドリアンは、静かに部屋に入った。使節団の正装ではなく、目立たない濃い灰色の上着だった。ただ、姿勢と目の光は、どんな服を着ていても変わらなかった。
「来にくい理由があると思ったのですか」レオノーラは言った。
「ありませんでしたか」
「……実務の会合ですから」
「そうですね。実務の会合です」アドリアンは席に着きながら言った。「ですから来ました。帝国商務局の担当者だけでは、判断できない事項があるかもしれないと思いまして」
それは合理的な理由だった。
(合理的な理由ですわ。ええ)
レオノーラは席に着いた。向かいにアドリアン、その隣にクラウス・フォン・ハルナが座った。
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会合は、実務から始まった。
クラウス・フォン・ハルナが最初に口を開いた。「精査委員会の認定書類を確認しました。帝国側で差し押さえを行うにあたり、必要な書類の確認から始めさせてください」
「こちらが対象資産の特定書の草案です」レオノーラは一束目の書類を机に置いた。「ランドルフ商会の帝国内資産については、アドリアン殿下の書簡にあった品目・所在地・推定評価額の形式で整理しています。ご確認ください」
クラウスは書類を受け取り、静かに目を通した。「……品目の特定は正確です。ただ、評価額については帝国の基準で再計算が必要になります。それは帝国側で行います」
「了解しました。王国の精査委員会の不正認定書面については——」レオノーラは二束目の書類を出した。「本日付けで委員会委員長名義のものが正式に発行されています。これが必要な書面の形式を満たしているかどうか、確認をお願いします」
クラウスは確認した。「形式は問題ありません。ただ、帝国の司法手続きには、王国の司法当局の署名も必要になります。精査委員会の委員長ではなく、司法局の正式な書面が必要です」
「それは——」レオノーラは少し考えた。「精査委員会が司法局に引き渡した後、司法局から書面を取得するということですわね。引き渡しのタイミングと、書面発行までの所要期間を確認します」
「帝国側は、書面が届き次第、一週間以内に手続きを開始できます」
(一週間以内。それは早い)
レオノーラはメモを取った。アドリアンは、この間、一度も口を挟まなかった。ただ、静かに聞いていた。
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実務の確認が一通り終わった後、レオノーラは三束目の書類を机に置いた。
「次の議題です。『王都周縁部開発準備費』について、帝国側に類似事例があるとのことでした。詳細をお聞きしたい」
アドリアンが初めて口を開いた。
「それについては、私から直接お話しします」
クラウスが静かに一礼して、手元の書類の確認に視線を落とした。二人だけで話せ、という意味だとわかった。
「帝国では三年前、王都の外縁にあたる地区で同様の予算操作が行われました」アドリアンは静かに言った。「名称は『帝都外縁整備予備費』。設置から四年間、執行ゼロ。残高は当時の換換でおよそ六十万ルタール相当でした」
(六十万。王国の四十二万より、大きい)
「その資金は、最終的にどこへ向かいましたか」
「土地の収用に使われました」アドリアンは言った。「帝都の外縁にある複数の区画——老朽化した公共施設の跡地——が、特定の不動産業者に対して、市場価格を大幅に下回る価格で売却されました。ランドルフ商会の関連企業が、その購入者の一つです」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
(土地の収用。老朽化した公共施設の跡地。市場価格を大幅に下回る価格での売却)
レオノーラは少しの間、その言葉を整理した。
(「周縁部開発準備費」の正体が、見えましたわ。あの四十二万ルタールは——王都の外縁にある土地を、安く買い叩くための原資だった。公共施設を老朽化させて使えなくし、立ち退かせて、跡地を特定業者に売る。その「購入費用」として積み立てていた)
「……帝国では、その業者の購入は正式な手続きで行われましたか」
「形式上は、はい。しかし価格の決定に、内部の関与がありました。それが今、帝国でも問題になっています。ランドルフ商会は、同じ手口を複数の国で展開している」
(複数の国)
「周縁部開発準備費は、王国では凍結されています」レオノーラは静かに言った。「凍結が続く限り、資金は動きません。ただ——土地の収用計画が既に存在するなら、計画書の類が残っているはずですわ。精査委員会に書類の追加精査を求めます」
「王国の手続きについては、そちらにお任せします」アドリアンは言った。「帝国側からは、帝都での取引記録の写しを提供できます。ランドルフ商会が関与した取引の記録です。それが王国側の調査の参考になれば」
「……ありがとうございます。いただきます」
レオノーラはメモに追記した。クラウスが静かに顔を上げ、アドリアンと目を合わせた。それだけだった。
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会合の終わりに、クラウスが席を外した。書類の確認のため、という名目だった。
部屋に二人が残った。
「今日は来ていただきありがとうございました」レオノーラは言った。「実務上、助かりました」
「そうですか」アドリアンは言った。「実務上、だけですか」
レオノーラは少しだけ、手の動きを止めた。
「……殿下は、常にそういう問い方をされますね」
「あなたが常に、実務上、という言い方をされるからです」
「事実ですわ」
「事実の中に、それ以外のものが含まれていないとは言っていません」
部屋に、短い間が落ちた。
(「それ以外のもの」)
レオノーラは机の端を見た。書類が三束、整然と並んでいた。実務の痕跡だった。
「……判断材料が、今日も足りていませんわ」
「どのような判断のための材料ですか」
「それが——」レオノーラは少しだけ間を置いた。「わからないのですわ。判断するべき事案が何であるかが、まだ定まっていない」
アドリアンは、少しだけ目を細めた。それから静かに言った。
「急ぐ必要はないと思います。私は——待てます」
レオノーラはその言葉を、少しの間、聞いていた。聞いてから、短く言った。
「……承知しました」
それが返答として正しいかどうかも、今日はわからなかった。ただ、それ以上の言葉が、来なかった。
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屋敷に戻ったのは昼過ぎだった。
マリアが玄関で待っていた。顔を見た瞬間、何かを言おうとして、口を閉じた。
「……何ですか」
「い、いえ。お帰りなさいませ。紅茶を用意します」
「お願いします」
執務室に入り、今日のメモを机に広げた。
やるべきこと。司法局への書面要請。精査委員会への書類追加精査の申し入れ。帝国商務局からの取引記録の受け取り。クラウス・フォン・ハルナへの確認事項の整理。
(やることは多い。ただ——今日は整理だけでいい。実際に動くのは、明日以降ですわ)
そう決めて、メモを書き続けた。
マリアが紅茶を持って来た。置いてから、少しだけ躊躇して、口を開いた。
「……お嬢様」
「何ですか」
「今日の会合、どうでしたか」
「実務上、成果がありました。帝国側の手続きの要件が明確になり、こちらで準備すべき書面のリストが揃いました。また、周縁部開発準備費の目的についても——」
「……実務の話だけじゃなくて」マリアは小さく言った。「アドリアン殿下も、いらっしゃったんですよね」
レオノーラはペンを持ったまま、少しだけ間を置いた。
「……来ていただきました。実務上、助かりました」
「そうですか」マリアは少しだけ目を細めた。「でも——お嬢様の顔が、少し違います」
「何が違うのですか」
「なんか……今日は、少し——」マリアはうまく言葉が見つからないようだった。「穏やか、です」
レオノーラはその言葉を聞いた。
(穏やか)
「仕事が片付いているからですわ」
「……そうですね」マリアは微笑んだ。「そうですよね」
その感想の残りは、声に出さなかった。
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夜、アドリアンへの書簡を書いた。
七行になった。
「本日の会合、ありがとうございました。クラウス・フォン・ハルナ殿の実務上の説明は明確で、王国側で準備すべき事項の整理が進みました。司法局への書面要請と、精査委員会への追加精査の申し入れは、明日以降に行います。帝国での取引記録の写し、受け取り次第、確認します。周縁部開発準備費の件——土地収用の計画書が残っているかどうかを、精査委員会に調査させます。それが最後の一点です。直接お話しできたことは、実務上、有益でした。引き続き、記録として」
書き終えて、六行目を見た。
「直接お話しできたことは、実務上、有益でした」
(「実務上、有益でした」。ええ。それは事実ですわ)
ただ、それだけかどうかは、今日も言葉にならなかった。
封をして、オットーに渡した。
「帝国の使節団に、明朝届けてください」
「……本日の返信は、何行でしたか」
「七行ですわ」
「先回は四行でございましたね」
「今日は案件が増えましたので」
「さようでございますか」老執事は何も言わなかった。「御意でございます」
彼は一礼して、扉を閉めた。廊下に出てから、ゆっくりと歩いた。
(七行。そして「直接お話しできたことは、実務上、有益でした」という一文が、七行目の前にある)
三十年の経験が、静かに、穏やかに、それを受け取っていた。
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翌朝、帝国の使節団から短い返信が届いた。
三行だった。
「本日、帝国の取引記録の写しを使節団経由でお送りします。土地収用の計画書については、帝国側の記録とも照合できます。直接お話しできたことは——私も、実務上以上に、有益でした。引き続き、記録として」
レオノーラは、その「実務上以上に」という部分を、少しの間、眺めた。
(「実務上以上に、有益でした」)
自分が書いた「実務上、有益でした」に、「以上に」という三文字が足されて返ってきた。
(……今回は、足してきましたわ)
これまでは、同じ言葉をそのまま返してくる構造だった。「記録として」も、「楽しみにしています」も。しかし今回は——三文字、増えていた。
(これを、どう分類するかは——)
マリアが紅茶を持って来た。「お嬢様、今日も早いですね」
「取引記録の写しが今日届きます。確認の準備をしておきます」
「……何か、嬉しいことがありましたか」
「仕事の進捗が良いですわ。それだけのことです」
マリアは紅茶を置きながら、少しだけ微笑んだ。(「それだけのこと」って言うときは、たいてい、それだけじゃないんですよね)
その感想は、今日も声に出さなかった。
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午後、帝国の取引記録の写しが届いた。
レオノーラはそれを、精査委員会の認定書類と並べて見た。
帝国のランドルフ商会関連取引の記録には、確かに「帝都外縁部」の複数の土地取引が記されていた。購入者名義はいくつかの法人に分散されていたが、その法人の代表者名が——王国側のランドルフ商会の関連業者名と、一部重複していた。
(同じ人物が、帝国でも王国でも動いている。ランドルフ商会は、国境をまたいで同じ手口を使い続けている)
「オットー」
「はい」
「帝国の取引記録に出てきた法人名のリストと、王国の精査委員会の認定書類に出てきた関連業者名を照合します。今日中に一覧を作ってください。それを、明日カール殿下への報告書に添付します」
「かしこまりました。……また、案件が広がりましたか」
「形が見えてきただけですわ」レオノーラは書類から目を上げずに言った。「ランドルフ商会の全体像は、最初からこの大きさだったはずです。ただ、今まで見えていなかった」
「……御意でございます」
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夕暮れ時、窓の外の王都が橙に染まる頃、レオノーラは机の上の書類をひとまとめにした。
今日動いたこと。帝国の取引記録の受け取りと照合開始。カール殿下への報告書の準備。精査委員会への追加精査の申し入れ内容の整理。
そして——「実務上以上に、有益でした」という三文字分の出来事。
(後者は業務報告の分類には入りませんわ。今日も)
窓の外に、南の方向が見えた。南区の灯りの中に、診療所の光があるはずだった。西区の水路は、雨季前に補修が完了したはずだった。周縁部は——まだ、その先が見えていない。見えていないが、形は掴んだ。
(わからないことは、調べればわかる。形が見えれば、次が読める)
ただ、机の端に置いた帝国からの書状だけは——どこに分類すればいいかが、今日もわからなかった。
わからないことは、調べればわかる。
ただし。調べ方が、まだわかっていないものもある。
レオノーラは次の書類を引き寄せた。精査委員会への追加精査申し入れの下書きだった。
仕事は、まだ終わっていなかった。
──────
(第十五話 了)




