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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第二章「王都の病は数字に宿る」

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14/21

第14話 悪役令嬢、周縁を踏む

 「王都周縁部開発準備費」という予算区分の調査報告が、オットーの手でレオノーラの机に届いたのは、第十三話の翌々朝だった。


 書類は二枚。簡潔だった。


 設置年度は三年前。所管は財務局都市整備課。過去二年の執行実績は——


 (……ゼロ)


 レオノーラはその数字を三秒見た。


 「オットー」


 「はい」


 「三年間、一度も執行されていない予算区分が、精査委員会の書類に出てきた理由を考えなさい」


 老執事は少し間を置いた。


 「……予算として確保しておくことに、意味がある、ということでしょうか」


 「そうですわ。執行しないまま積み上げておく。いつでも動かせる状態にしておく——これは財布ですわ。特定の目的のための、手付かずの財布」


 「どのような目的でしょうか」


 「それをこれから調べます」レオノーラは書類をオットーに戻した。「都市整備課の課長名と、この予算区分の設置に関わった稟議書を取り寄せてください。ランツ子爵に打診できるかどうか、確認を。今回は書類閲覧の範囲で構いません」


 「かしこまりました」


 マリアが執務室の隅で小声で言った。「……三年間も執行ゼロって、そんなことあるんですか」


 「通常はありません」レオノーラは次の書類に手を伸ばしながら言った。「だから、気になるのですわ」


──────


 その日の午後、ランツ子爵から短い返答が届いた。


 「都市整備課の書類であれば、予算配分委員会の記録に一部含まれています。ただ、『王都周縁部開発準備費』については、私も詳細を把握していません。設置の経緯を確認するには、財務局の旧稟議台帳への照会が必要になります。明後日、お時間をいただけますか」


 レオノーラはそれを読んで、短く答えた。


 「明後日、伺います」


 それから少しだけ、手を止めた。


 (子爵は「把握していない」と書いた。財務局の人間が把握していない予算区分が、精査委員会の書類に出てくる。これは——意図的に見えにくくされているか、あるいは、設置した者が限られた人間しか知らない状態を作っているか)


 どちらにせよ、調べる価値がある。


──────


 翌朝、アドリアンからの返信が届いた。


 六行だった。


 「直接会合の日程について、帝国側の準備は整っています。精査委員会の最終報告が出次第、一週間以内に調整可能です。帝国商務局の担当者は、王都滞在中の使節団員が兼任する形で対応します。場所については、御提案通り記録を残さない形を希望します。一点追加で申し上げます。『王都周縁部開発準備費』という予算区分について、帝国側でも類似の名称の予算操作が確認された事例があります。詳細は直接お会いした際にお伝えします。引き続き、記録として」


 レオノーラは、その六行を二度読んだ。


 (「王都周縁部開発準備費」を——帝国側も知っている?)


 前日に調査を始めたばかりの項目が、アドリアンの書簡に出てきた。これは偶然ではない。帝国が王国の予算構造を詳細に把握しているか、あるいは——


 (ランドルフ商会が、帝国でも同じ手口を使っていた。その「準備費」という形式も、同じだった)


 レオノーラはペンを取った。今回の返信は、少し考えてから書いた。


 五行になった。


 「書簡を受け取りました。日程については精査委員会の進捗に合わせます。『王都周縁部開発準備費』の件、帝国側に類似事例があるとのこと、至急確認したい点です。直接会合の優先議題として加えていただけますか。詳細をお持ちください。引き続き、記録として」


 書き終えて、最後の五文字を見た。


 (今日の「記録として」は、早く会いたいという意味には、なっていませんわね)


 その先の言葉は、今日も来なかった。


 封をして、オットーに渡した。


 「帝国の使節団に、今日中に届けてください」


 「……先回は明朝でよろしかったかと」


 「今日は急ぎですわ」


 老執事は一礼した。廊下に出てから、小さく首を振った。それは咎めではなかった。


 (「今日中に」とおっしゃった。「明朝」と「今日中」は、このお嬢様にとって意味が違う)


 三十年の経験が、それを教えていた。


──────


 翌日の午前、ランツ子爵との会合は、今回も子爵の自宅近くの茶館で行われた。


 子爵は、旧稟議台帳の写しを一枚、机に置いた。


 「『王都周縁部開発準備費』の設置稟議書です。起案日は三年前の四月。起案者は——」子爵は少し声を落とした。「都市整備課長名義です。ただ、稟議の中に、予算区分の目的として一行だけ記載があります」


 「何と書いてありますか」


 「『王都外縁部における将来的な公共施設整備に備えた先行的予算確保』」


 (将来的な、先行的、備えた。すべて曖昧な言葉ですわ)


 「子爵、『王都外縁部』とは、具体的にどの地区を指しますか」


 「定義されていません。稟議書のどこにも、具体的な地区名も施設名も出てきません」


 レオノーラは少しだけ眉を動かした。


 (目的地のない予算。施設名のない先行確保。三年間、一度も執行されていない。これは——)


 「子爵、都市整備課長の名前を確認させてください」


 子爵は稟議書の表紙を指で示した。


 「ゲオルク・ファールという人物です。現在も在職しています。財務局では比較的長く同じ課に留まっている人間です」


 「ブロッサー次官補との関係は」


 子爵は少しだけ間を置いた。


 「……直接の上下関係ではありません。ただ、ゲオルク・ファール課長は、三年前に都市整備課長に昇格しています。その時期の人事を主導したのは——ブロッサー次官補が人事委員会に参加していた時期と重なります」


 部屋に、短い沈黙が落ちた。


 「子爵」


 「はい」


 「この予算区分の残高は、現在いくらですか」


 子爵は書類をもう一枚出した。


 「三年分の積み上げで——約四十二万ルタールです」


 四十二万。南区診療所への年間補助金のおよそ八十倍にあたる額だった。


 レオノーラは、その数字を少しの間、静かに見た。


 「……わかりました。今日の情報は、精査委員会への追加提出に使います。子爵、ありがとうございます」


 「……また、話してしまいましたわね」子爵は苦笑した。「侯爵令嬢の前では、いつも。不思議なことに」


 「子爵が、数字に誠実だからですわ」レオノーラは静かに言った。「誠実な人間は、話すべき相手の前では話す。それだけのことです」


 子爵は眼鏡を直した。目の奥が、また少し和らいでいた。


──────


 屋敷に戻ったのは昼過ぎだった。


 レオノーラはメモを広げ、今日わかったことを書き付けた。


 「王都周縁部開発準備費」の設置は三年前。起案は都市整備課長・ゲオルク・ファール。目的は「将来的な先行確保」で具体性なし。執行実績ゼロ。現在の残高四十二万ルタール。ファール課長の昇格時期とブロッサー次官補の人事委員参加時期が重なる。


 そして——帝国にも、類似の手口があった。


 (三年分の積み立て。診療所の補助金削減が本格化したのも、ちょうど三年前だ)


 それは偶然かもしれない。しかし、数字が偶然に見えるとき、それはたいてい偶然ではない。


 「オットー」


 「はい」


 「今日の内容を、ゲルハルト文官経由でカール殿下に。二点です。ひとつ——精査委員会の調査範囲に、都市整備課の『王都周縁部開発準備費』を追加すること。ふたつ——同予算区分の設置から現在までの執行記録と、ゲオルク・ファール課長の人事経緯の提出を委員会から財務局に求めること。以上です」


 「かしこまりました」


 マリアが少し心配そうな顔で言った。「……また大きい案件ですか」


 「まだわかりません」レオノーラは書き付けを片付けながら言った。「わかっていることは、三年間動かされなかった四十二万ルタールがある、ということだけです。それがなぜそこにあるのかが、わかっていない」


 「四十二万って……どのくらいですか」


 「南区の診療所が、八十年分の補助金を受け取れる額ですわ」


 マリアは少しの間、黙った。それから小声で言った。「……それは、まずいですね」


 「ええ。ですから、調べますわ」


──────


 夕方、ゲルハルト文官から早い返信が届いた。


 「カール王太子殿下より。精査委員会に対し、都市整備課案件の調査対象追加および関連書類の提出要請を指示しました。また、殿下より一点ご確認です——『王都周縁部開発準備費』の資金が特定の事業に紐付けられる前に、精査委員会として預かりの措置を取ることは可能かどうか、確認しています。何か知恵をいただけますか。以上」


 (預かりの措置——つまり、執行凍結ですわ)


 レオノーラは少しだけ考えた。


 通常、未執行の予算区分に「凍結」をかけるには、執行の動きがなければ手続きの根拠が薄い。しかし——


 (ブロッサー次官補は今、精査中で異動も止まっている。もし同次官補が都市整備課を通じて、この四十二万を動かそうとするなら——精査の圧力が高まったタイミングほど、急いで実行に移そうとする可能性がある)


 つまり、今が最も動かされやすい時期だ。


 レオノーラはペンを取り、短く書いた。


 「カール殿下へ。凍結の根拠は、精査委員会の『調査関連予算区分に対する保全措置』として処理できます。ブロッサー次官補が関与した案件として同予算区分を認定すれば、前回の書類保全と同じ手続きの延長線上にあります。委員長の権限で本日中に発出可能なはずです。時間を惜しんでください。レオノーラ・フォン・ヴァレンシュタイン」


 「オットー、今すぐゲルハルト文官に届けてください」


 「……今すぐ、でございますか」


 「今すぐです」


 老執事は一礼して、足早に部屋を出た。廊下でほとんど走った。三十年の経験が、このお嬢様の「今すぐ」に誇張はないと知っていた。


──────


 その夜、レオノーラはアドリアンへの書簡を書いた。


 七行になった。


 「今日、ランツ子爵と会合し、『王都周縁部開発準備費』の詳細を確認しました。設置は三年前、目的の記載は曖昧、執行実績はゼロ、残高は四十二万ルタールです。設置の起案者と、ブロッサー次官補の人事関与との関連が疑われます。カール殿下の指示により、精査委員会が本日中にこの予算区分への凍結措置を発出する見込みです。帝国でも類似事例があるとのこと——直接会合の際に詳細をお聞きすることを、今から楽しみにしています。引き続き、記録として」


 書き終えて、六行目を見た。


 (「楽しみにしています」)


 レオノーラは少しだけ、ペンを止めた。


 この五文字は、合理的な情報交換の文脈に収まるだろうか。「詳細をお聞きすることを」という実務的な前置きがある。だから文脈上は問題ない。問題ない、はずだ。


 (……ただ、書く必要があったかどうかは、別の話ですわ)


 消す理由を探した。見つからなかった。


 封をした。


 「帝国の使節団に、明朝届けてください」


 「……本日の返信は、何行でしたか」


 「七行ですわ」


 「先回は五行でございましたね」


 「案件が増えましたので」


 「さようでございますか」老執事は、何も言わなかった。「御意でございます」


 彼は一礼して、扉を閉めた。廊下に出てから、今夜は首を振らなかった。


 (七行。「楽しみにしています」と書かれた七行目が、お嬢様の筆跡で、封の中にある)


 老執事は、それ以上何も考えないことにした。考えれば、顔に出る。顔に出れば、叱られる。ただ、足取りは心なしか軽かった。


──────


 翌朝、二通の書状が机に届いていた。


 一通は、ゲルハルト文官から。


 「カール王太子殿下より。昨夜の提案を受け、精査委員会委員長が本日未明に『王都周縁部開発準備費』への保全措置を発出しました。財務局都市整備課の関連書類も、本日付けで封印対象に追加されています。迅速なご判断に感謝します。以上」


 (昨夜のうちに動いた。カール殿下が迷わなかった)


 もう一通は、帝国の使節団からだった。


 四行だった。


 「凍結措置の発出を確認しました。動きが速かった。帝国での類似事例については、直接会合の際にお伝えします。楽しみにしています。引き続き、記録として」


 レオノーラは、その四行目を少しの間、眺めた。


 「楽しみにしています」


 自分が昨夜書いた言葉が、そのまま返ってきた。


 (……また)


 第八話の「記録として」と、同じ構造だった。自分が使い始めた言葉を、アドリアンが返してくる。これは——確認だろうか。鏡だろうか。それとも——


 (合理的な解釈が、今日も見つかりませんわ)


 マリアが紅茶を持って来た。


 「お嬢様、今日は早いですね。何かありましたか」


 「凍結措置が昨夜のうちに発出されました。予定より速かった」


 「よかった……ですよね?」


 「ええ。速いほど良い。この件は時間が大事でしたわ」


 マリアはお茶を置きながら、お嬢様の顔を少しだけ覗き込んだ。(何か、もう一つある気がするけど)


 その感想は声に出さなかった。


──────


 午後、レオノーラは今後の見通しを整理した。


 精査委員会の調査対象は、財務局案件・土木局案件・都市整備課案件の三本柱になった。ブロッサー次官補の関与が疑われる予算区分は、南区・西区・周縁部と、王都の三方向に広がっている。


 (南区は診療所。西区は水路。周縁部は——まだわからない。ただ、四十二万ルタールがそこにある)


 次に動くべきことは、二つ。


 ひとつは、帝国との直接会合。ランドルフ商会の国外資産の差し押さえと、「周縁部開発準備費」の類似事例の確認。


 もうひとつは、精査委員会の最終報告を待つこと。それが出なければ、帝国側は正式に動けない。


 (待つのは好きではありませんわ。ただ、待つことが正しい局面というものは、ある)


 レオノーラはその見通しをメモにまとめ、一束にした。


 「オットー」


 「はい」


 「精査委員会の最終報告の目途を、ゲルハルト文官に確認してください。一週間以内か、それ以上かかるか、だけで構いません」


 「かしこまりました。……お嬢様、今週はかなり動いていらっしゃいますが、お体は——」


 「問題ありません」


 「……そうおっしゃると思いましたが」


 「何か」


 「いいえ、何も」老執事は一礼した。「御意でございます」


 彼は扉を閉めて、廊下に出た。小さく息をついた。それは溜息ではなかった。


 (お体のことは「問題ない」とおっしゃる。しかし、帝国からの書状をいつもより早く開けていらっしゃる。それは——体の話とは、別の話だ)


 三十年の経験が、ただ静かに、そこにあった。


──────


 夕暮れ時、窓の外の王都が橙に染まる頃、レオノーラは机の上の書類をひとまとめにした。


 今日動いたこと。周縁部予算区分の詳細確認。凍結措置の促進。帝国への報告と、返信の受領。


 そして——「楽しみにしています」という五文字を、書いたこと。返ってきたこと。


 (後者は業務報告の分類には入りませんわ。どこにも分類できない)


 窓の外に、今日も南の方向が見えた。南区の灯りの中に、診療所の光があるはずだった。西区の水路の方角には、雨季を前に補修が進んでいるはずだった。周縁部は——まだ暗い。まだわからない。


 (わからないことは、調べればわかる。調べればわかることは、怖くない)


 ただ、机の端に置いた帝国からの書状だけは、どこに分類すればよいかが、今日もわからなかった。


 レオノーラは次の書類を引き寄せた。精査委員会からの追加照会書類だった。


 仕事は、まだ終わっていなかった。


──────


(第十四話 了)

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