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悪女は正しい  作者: Dちゃん
第二章「王都の病は数字に宿る」

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12/14

第12話 悪役令嬢、次を読む

 王都西区からの陳情書は、六枚だった。


 表紙には「西区公共水利組合 連名陳情」とある。差出人は三名。文面は丁寧で、しかし内容は切迫していた。レオノーラは一枚目を読み終えて、続きをめくった。


 西区の公共水利組合が管理する水路の補修費が、今年度の予算申請で全額却下された。却下の理由は「財政状況の逼迫による優先度の見直し」。担当部署は土木局。しかし水路の劣化は昨年から進んでおり、今夏の雨季までに修繕しなければ一部区画で浸水リスクが生じる、という現場からの報告が添付されていた。


 (土木局の予算調整。そして今夏の雨季)


 レオノーラは六枚目まで読み終えて、書類を机に置いた。


 「オットー」

 「はい」

 「土木局の今年度予算の総額と、昨年度からの増減を調べなさい。それと——西区公共水利組合の補修申請が却下された経緯の書類を、取り寄せられますか」

 「土木局は財務局ほど閲覧に融通が利きません。正式な開示請求になります。数日かかるかと」

 「ではランツ子爵に、土木局の予算執行に関する記録を確認できるかどうかだけ確認してください。内容は問いません。できるかどうか、だけ」


 老執事は少し足を止めた。


 「子爵は、今回の件も……」

 「強制はしません。打診するだけです」レオノーラは書類から目を上げずに言った。「できる、と言えば動く。できない、と言えば別の道を探す。それだけのことですわ」


 「……かしこまりました」


──────


 その日の午後、ランツ子爵から短い返答が届いた。


 「土木局の予算記録であれば、確認できます。ただ、財務局と土木局は管轄が異なるため、私が直接アクセスできる範囲は限られます。それでも、共通の予算配分委員会の記録には目を通せます。明後日の午前中、いかがでしょうか」


 レオノーラはそれを読んで、短く答えた。


 「明後日、伺います」


 マリアが執務室の隅から小声で言った。「……子爵、快諾してくれましたね」

 「ご自分の判断でしょう」

 「でも、なんか、お嬢様のためなら、って感じじゃないですか」

 「仕事の話ですわ」


 マリアは少しだけ口を引き結んだ。それ以上は言わなかった。ただ、なんとなく、お嬢様には「ご自分のためにと動いてくれる人間がいる」ということが、もう少し見えていてほしいと思った。


 その感想は声に出さなかった。


──────


 翌日、アドリアンからの書簡が届いた。


 四行だった。


 「精査委員会の設置を確認しました。ランドルフ商会については、帝国商務局が王国側の調査に支障のない範囲で協力する意向です。一点だけ申し上げます。同商会の国外資産については、王国の司法の手が届かない可能性があります。参考まで」


 レオノーラは四行を二度読んだ。


 (国外資産。これは——精査委員会への情報提供としては、実務的すぎる内容ですわ)


 つまり、精査委員会が動いたとしても、ランドルフ商会が国外に逃がした資産については追えない可能性がある、という警告だ。


 しかし、それをなぜアドリアンが知っているのか。帝国商務局が「別件で注視している」と以前の書簡にあった。ということは、帝国は既に同商会の資産構造を把握している。


 (精査委員会の結果だけでは、回収できないものが残るかもしれない。それを、このタイミングで知らせてきた)


 レオノーラは少しの間、手元の書簡を見た。


 (これは——追加の警告。それとも、次の連携の提案?)


 どちらとも取れる四行だった。もっとも、アドリアンが書くものは、たいていそういう構造をしている。


 彼女はペンを取り、返信を書いた。


 今回は五行になった。


 「書簡を受け取りました。国外資産の件、把握しました。精査委員会の調査範囲との兼ね合いについては、カール殿下にも状況を伝えます。帝国商務局の協力について、具体的な形があればお知らせいただけますか。引き続き、記録として」


 書き終えて、最後の五文字を見た。


 「引き続き、記録として」


 先回、アドリアンの返信にも同じ五文字があった。自分が書いたものが、そのまま返ってきた。


 (……相手も、消す理由を見つけていない、ということかしら)


 その先の考えは、今日も来なかった。


 封をして、オットーに渡した。


 「帝国の使節団に、明朝届けてください」

 「……本日の返信は、何行でしたか」

 「五行ですわ」

 「先回は五行でございましたね」

 「同じですわ」


 老執事は、何も言わなかった。「御意でございます」


 彼は一礼して、扉を閉めた。


──────


 翌朝、ランツ子爵の書記官組合の閲覧室ではなく、子爵の自宅に近い小さな茶館で会うことになった。子爵の提案だった。


 「財務局の外で話す方が、今回は適切かと思いまして」

 「そうですね」レオノーラは席に着きながら言った。「今回は土木局ですから」


 子爵は書類の束を机に置いた。財務局から土木局への配分予算の記録と、予算配分委員会の議事録の要約だった。


 「今年度の土木局予算は、昨年比で七パーセントの減額になっています。全体の財政見直しの一環、という説明が付いています」

 「七パーセント。どの項目が削られましたか」

 「軒並み、維持・補修費の類です。道路補修、水路整備、橋梁点検費。新規建設の項目は維持されています」


 レオノーラはそれを聞いて、少しだけ眉を動かした。


 (新規建設は維持して、維持・補修を削る。老朽化を放置すれば、施設は使えなくなる。使えなくなれば、新規に建て替える名目が立つ。建て替えの入札に——誰が入るか)


 「子爵、予算配分委員会の構成を確認させてください。委員の名前と、所属は」


 子爵は議事録の表紙をめくった。


 「委員長が財務局から。副委員長が土木局から。委員は五名で——」子爵が一瞬、声を止めた。「……一名が、財務局公共インフラ予算担当、となっています」


 「担当者名は」


 子爵は静かに指で示した。


 そこには、ブロッサー財務次官補の名前があった。


 部屋に、少しの間、沈黙が落ちた。


 「……子爵」

 「はい」

 「精査委員会は、現在ブロッサー次官補に関わる財務局案件を調査対象としています。しかし——この委員会への参加が精査の範囲に含まれているかどうかは、確認が必要ですわ」

 「……つまり、精査委員会が動き出した後も、この委員会での決定が覆らない可能性がある」

 「現時点では、そうです」レオノーラは静かに言った。「土木局の維持・補修費の削減は、精査委員会の調査が終わる前に既成事実として執行されているかもしれません」


 子爵は少しの間、目を伏せた。


 「……侯爵令嬢、私は数字を見ている人間です。数字は嘘をつかないとおっしゃる。しかし——数字を操る人間は、存在する」

 「ええ」

 「今回もまた、同じ構造ですわね」子爵は珍しく、独り言のように言った。「削って、壊して、取る」

 「そうですわ」レオノーラは淡々と答えた。「型が同じということは、動かした人間も同じか、同じ指示系統にあるということです」


 子爵は眼鏡を直した。それから、書類をもう一枚出した。


 「一点だけ、追加でお伝えします。今年度の西区水利組合への補修費却下の決裁書——起案者の欄に、ブロッサー次官補の名前は、ありません。土木局の課長名になっています」

 「……土木局の課長」

 「ブロッサー次官補は委員会の決定には関与しましたが、個別の却下決裁の起案者ではない。そこだけ、形式上切り離されています」


 (委員会レベルで予算を削らせ、個別の却下は土木局の課長名で処理させている。南区の診療所の件とは、署名の構造が少し違う。学習している、ということかしら)


 レオノーラは短く息をついた。それは苛立ちではなかった。ただの観察だった。


 「わかりました。今日いただいた情報は、カール殿下への報告に使います。子爵、ありがとうございます」

 「……また、同じことをしてしまいましたね、私は」

 「何がですか」

 「侯爵令嬢が来るたびに、つい全部話してしまう」子爵は少し苦笑した。「これでは、また関わってしまうことになりそうで」


 レオノーラは少しだけ間を置いた。


 「子爵、あなたは数字に誠実な人間です。誠実な人間が、数字の歪みに気づいて、報告する——それは職務の範囲内ですわ。いつも通りのことをしているだけです」

 「……そのように言っていただけると、少し、楽です」

 「事実ですから」


 子爵はまた眼鏡を直した。今度は、少しだけ目の奥が和らいでいた。


──────


 屋敷に戻ったのは昼過ぎだった。


 レオノーラは執務室の机に今日の書き付けと陳情書を並べ、メモを取り始めた。


 わかっていること。


 土木局の維持・補修費が今年度七パーセント削減。予算配分委員会にブロッサー次官補が参加。削減対象は道路補修・水路整備・橋梁点検費など維持費全般。新規建設予算は維持。西区水利組合の補修申請は今年度全額却下。却下の起案者は土木局課長名。ブロッサー次官補の直接署名はない。


 わかっていないこと。


 土木局課長とブロッサー次官補の指示系統の関係。今後、削減された施設がどの業者の名義で建て替えられるか。同じ構造が西区以外の地区にも展開されているか。精査委員会の調査範囲に、土木局案件が含まれるかどうか。


 レオノーラはそのリストを見て、短く考えた。


 (精査委員会への追加情報の提出が必要ですわ。ゲルハルト文官を通じてカール殿下に伝えれば、委員会の調査範囲を広げる判断ができる)


 「オットー」

 「はい」

 「ゲルハルト文官に、今日の夕方に書状を一通。内容は——土木局の予算配分委員会にブロッサー次官補が関与していること、西区の補修費却下との関連が疑われること、精査委員会の調査範囲の確認を求めること。この三点です」

 「かしこまりました。……今回の件は、南区より動きが速いですね」


 レオノーラは少し考えた。


 「向こうも学習していますわ。署名を一段階ずらした。つまり、前回の調査で何かを察知した可能性がある」

 「……証拠固めより、先に動かれる可能性がある、ということですか」

 「今夏の雨季までに、水路の補修が間に合わない状況が作られれば——浸水が起きる。浸水が起きれば、建て替えの名目が立つ。それが今年の話であれば、急ぐ必要があります」


 老執事は、静かに一礼した。廊下に出てから、少しだけ急いだ。


──────


 翌朝、ゲルハルト文官から早い返信が届いた。


 「カール王太子殿下より。精査委員会の調査範囲について、土木局の案件を対象に追加するよう委員長に指示しました。ブロッサー次官補が関与したとされる予算配分委員会の議事録については、委員会に提出を求めます。水利組合の補修申請の却下については、暫定的に今年度執行の凍結を財務局に指示しました。雨季前の対応については、土木局に確認の上、別途ご報告します。以上」


 レオノーラはそれを一度読んで、机に置いた。


 (凍結解除ではなく、却下の撤回。水路補修の予算が戻る。雨季までに間に合う)


 それを確かめるように、もう一度読んだ。変わらなかった。


 マリアが覗き込んだ。「お嬢様、また何かいいことありましたか」

 「予定通りです」

 「でも、またちょっと顔が……」

 「次の書類を」

 「は、はい」


 マリアは内心で思った。(やっぱりちょっと違う。でも言ったら叱られる)


 声には出さなかった。


──────


 その日の夕方、アドリアンへの返信を書いた。


 六行になった。


 「帝国商務局の協力の申し出、ありがとうございます。土木局の案件について新たな展開がありました。ブロッサー次官補が予算配分委員会を通じて、西区の維持・補修費を意図的に削減していた疑いがあります。カール殿下の指示により、精査委員会の調査範囲が土木局にも拡大されました。国外資産の件については、精査委員会の結果が出た後に改めて確認します。引き続き、記録として」


 書き終えて、最後の五文字を見た。


 「引き続き、記録として」


 前回と同じ五文字。アドリアンが返信で使ったのと、同じ五文字。


 (もはやこれは——挨拶になりましたわね)


 合理的な挨拶ではない。しかし、やめる理由も見当たらなかった。


 封をしてオットーに渡すと、老執事はいつも通り何も言わなかった。


 「帝国の使節団に、明朝届けてください」

 「……本日の返信は、何行でしたか」

 「六行ですわ」

 「先回は五行でございましたね」

 「案件が増えましたので」

 「さようでございますか」老執事は何も言わなかった。「御意でございます」


 彼は一礼して、扉を閉めた。廊下に出てから、小さく首を振った。三十年の経験が、今は少し嬉しそうに振られていた。


──────


 翌朝、執務室の机に新しい書類が三束届いていた。


 ゲルハルト文官からの精査委員会の進捗報告。南区の医療組合への補助金凍結解除の正式通知の写し。そして——帝国使節団からの一通の短い書簡。


 レオノーラは帝国からの書簡を最後に開いた。


 五行だった。


 「土木局への拡大を確認しました。帝国商務局との連携について、一点提案があります。ランドルフ商会の国外資産のうち、帝国内の動産については帝国側での差し押さえが可能です。タイミングについて、王国の精査委員会の最終報告と合わせる必要があります。調整が必要でしたら、私へ直接ご連絡ください。引き続き、記録として」


 レオノーラはその最後の五文字を、少しの間、眺めた。


 (「私へ直接ご連絡ください」)


 これまでは「参考まで」「詳細は別途」という形だった。今回は「直接」という言葉がある。


 (……帝国王太子が「直接」と書く。これは外交上の提案として読むべきか、それとも——)


 その先の言葉が、今日もうまく来なかった。


 レオノーラは書簡を机の端に置き、精査委員会の進捗報告を開いた。仕事は仕事の順番でやる。これが今日の次の書類だ。


 マリアが紅茶を持ってきた。


 「お嬢様、今日も早いですね」

 「当然ですわ」

 「でも……今日は少し、嬉しそうに見えます」


 レオノーラは紅茶に手を伸ばしながら、短く言った。


 「診療所が来月も開く、という話が、公式に確定したからですわ。それだけのことです」


 マリアはそれを聞いて、少しだけ微笑んだ。


 (……本当にそれだけのことかどうかは、わかりませんけど)


 その感想は、声に出さなかった。


 レオノーラは精査委員会の報告書を開き、最初の行から読み始めた。


 窓の外では、王都の朝が静かに続いていた。


──────


(第十二話 了)

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