第11話 悪役令嬢、動かす
ランツ子爵の執務室は、財務局の本庁舎からひと区画離れた場所にある、小さな建物の二階にあった。
「お越しいただきありがとうございます、侯爵令嬢」
子爵は立ち上がって出迎えた。眼鏡の奥の目に、緊張と、それを押し込めようとする意志が見えた。
「急なお願いをして申し訳ありません」とレオノーラは言った。「お時間をいただきました。早速、確認させてください」
子爵は机の上の書類を一束、レオノーラの前に置いた。
「これが、昨年六月の補助金減額の決裁書類です。内部稟議書の写しを……正確には、写しの写しを用意しました。原本は庁内にあります」
レオノーラはそれを受け取り、表紙から静かに読み始めた。
起案日。件名。起案者の欄。
(ブロッサー財務次官補。やはり、ここにある)
彼女は起案者欄から目を離さずに、短く言った。
「決裁者は誰ですか」
「財務局長官の印があります。ただ——」子爵は少し声を落とした。「局長官は当時、療養中でした。決裁は代行者が行ったと思われます」
「代行者の名前は書類に記載されていますか」
「……記載はありません。印だけです」
レオノーラはそれを聞いて、短く息をついた。印だけで代行者名の記載がない。これは手続き上の瑕疵だ。意図的なものかどうかは、今の段階では断言できない。しかし、結果として追跡を困難にしている。
「代行者については、別途確認します。今日はこの写しをいただけますか」
「……はい。そのためにお呼びしました」
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執務室を出たのは、夕方の五時を過ぎた頃だった。
馬車の中で、レオノーラはオットーに書類を渡した。
「ブロッサー財務次官補が起案者であることが書面で確定しました。証拠の最後の一点が揃いましたわ」
「では——」
「明日、カール殿下に報告します。ゲルハルト文官を通じて、夕刻に時間をいただけるよう調整してください」
「かしこまりました」
マリアが静かに言った。「お嬢様、怖くないんですか」
「何が、ですか」
「財務次官補って……えらい人ですよね。そこに向かって、証拠を持って行くわけですよね」
「相手が偉いかどうかは、今の話に関係ありません」レオノーラは窓の外に目を向けたまま言った。「証拠が揃った。動かす。それだけのことです」
マリアはそれ以上何も言わなかった。しかし、膝の上でそっと指を組んだ。それが彼女なりの祈り方だということを、レオノーラは知らなかった。
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翌日の夕刻、王城の小会議室。
カール王太子は、机を挟んでレオノーラの正面に座っていた。ゲルハルト文官が隅で控え、筆記の準備をしている。
「財務局の件、事前に知らせてくれたことに感謝する」カールは静かに言った。「詳しく聞かせてほしい」
レオノーラは書類を机に並べ、順を追って説明した。感情のない、事実の羅列だった。補助金の減額。積立金という名目の資金移動。ランドルフ商会系の信託業者への還流。人的な繋がりの確認。そして——ブロッサー財務次官補の名前が記された稟議書。
カールは一度も口を挟まなかった。書類を手に取り、数字を目で追った。ゲルハルト文官の筆が止まる場面が、二度あった。
説明が終わると、カールはしばらく沈黙した。
「……これは」と彼は言った。「南区の診療所だけではなく」
「公共施設の複数に、同様の構造がある可能性があります。現時点で確認できているのは診療所、共同井戸の二件、初等学院の一棟。ただし、同じ仕組みが他の予算区分にも存在するかどうかは、財務局の内部調査を要します」
「財務局の内部調査……それを誰が行うかが問題だな。ブロッサーが関与しているとすれば、通常のラインを使えない」
「ご明察の通りです」レオノーラは静かに言った。「だからこそ、殿下のご判断で、外部の監察を立ち上げる必要があります」
カールはもう一度、書類に目を落とした。
「……ランツ子爵は、この件に協力してくれているのか」
「はい。ただし、子爵の立場を守る形での対応をお願いします。今後の手続きで子爵の名前が表に出ることは、できる限り避けていただきたい」
「わかった。そこは配慮する」カールは顔を上げた。「レオノーラ、一つ聞いていいか」
「何でしょう」
「なぜ、これを——私に持ってきたのか」
レオノーラは少しだけ間を置いた。
「財務局の不正を動かせる権限を持つのは、殿下です。私にできることは、証拠を揃えることと、それを正しい人間に届けることです。それが済みましたので、後はよろしくお願いします」
カールは少しの間、彼女を見た。それからゲルハルト文官に目を向けた。
「ゲルハルト、記録を」
「はい、殿下」
カール王太子の声が、静かに、しかし明確な意志を持って続いた。「財務局の公共支出監査課について、独立した精査を開始する。対象はブロッサー財務次官補の関与が疑われる案件全般。実施にあたっては、通常の財務ラインを外した第三者委員会を設置する。ランツ子爵には、安全な立場で協力いただく形を取る。以上、記録せよ」
ゲルハルト文官の筆が走った。
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会議室を出たのは、夜になってからだった。
廊下でオットーが待っていた。
「いかがでしたか、お嬢様」
「動きましたわ」
「それは——」
「カール殿下が、独立した精査の開始を決めました。後は殿下が動かします。私の仕事は、ここで一段落ですわ」
オットーは少しだけ息をついた。それは安堵に近いものだった。
「……診療所は」
「精査の開始を受けて、財務局が補助金の凍結を解除する手続きに入るはずです。早ければ来週中には正式な通知が診療所に届く見込みです」
マリアが小さな声で言った。「……閉まらないですみますか」
「それが目的でしたわ。最初から」
マリアは目頭を押さえた。レオノーラはため息をついて、歩き始めた。
(いつになったら、この子は理由もなく泣くのをやめるのかしら)
ただ、その感想を口に出す気にはならなかった。
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屋敷に戻ったのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
レオノーラは執務室の机に先週から並べていた書類を一つにまとめ、整理した。わかっていることと、わかっていないことのリスト。途中まで線を引いた確認項目。そして「動かす」という言葉が初めて書かれた昨日のメモ。
それらを一つのまとめの束にして、オットーに渡した。
「この件の記録として、保管してください。精査の経過は殿下の側で管理されますが、こちらで動いたことの記録は別途残しておきます」
「かしこまりました。……お嬢様、今夜はお休みになれますか」
「何故そんなことを聞くのですか」
「今週は毎晩遅うございましたので」
「仕事ですわ。問題はありません」
老執事は一礼して部屋を出た。廊下に出てから小さく首を振った。それは苦言ではなかった。こういう方なのだ、と、三十年が教えていた。
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その夜、アドリアンへの書簡を書いた。
今回は五行だった。
「本日、カール王太子に証拠を提出し、財務局の独立した精査の開始を取り付けました。ブロッサー財務次官補を対象とした第三者委員会が設置される見込みです。南区の補助金についても、凍結解除の手続きが近く動くと思われます。ランドルフ商会については、王国内での精査の進展に応じて、改めてお知らせします。引き続き、記録として」
書き終えて、最後の五文字を見た。
「引き続き、記録として」
第八話からずっと、この五文字はある。変える必要を感じたことがない。変えない理由を考えたこともない。ただそこにある。
(合理的な価値がないことは、最初からわかっていますわ)
それでも今夜も消さなかった。
封をしてオットーに渡すと、老執事はいつも通り何も言わなかった。
「帝国の使節団に、明朝届けてください」
「……本日の返信は、何行でしたか」
「五行ですわ」
「先回は七行でございましたね」
「案件が一段落しましたので、短くなりました」
「さようにございますか」老執事は、また何も言わなかった。「御意でございます」
彼は一礼して、扉を閉めた。
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翌朝、珍しくレオノーラが執務室に入ったのは、午前九時を過ぎてからだった。
マリアが紅茶を持って来た。
「……今日は、ゆっくりですね」
「昨夜が遅かったので」
「珍しい」
「何が」
「お嬢様が、そういうこと言うの」
レオノーラは少し間を置いた。
「……今日の午前の予定は」
「侯爵家の定例査定が一件と、新しい書類が届いています。でも——どれも,急ぎじゃないです」
「わかりました。紅茶が済んでから片付けます」
マリアはそれを聞いて、少し目を細めた。
(紅茶が済んでから、って言った。今日のお嬢様、少しだけ違う)
その感想は声に出さなかった。声に出せば、確実に叱られる。ただ、なんとなく、今日はいいことがある気がした。
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午後、ゲルハルト文官から短い書状が届いた。
「カール王太子殿下より。財務局の独立精査委員会、本日付けで正式に設置されました。委員長には、司法局の第三監察官を充てる予定です。ランツ子爵については、協力者としての参加を求める予定ですが、立場の保護については殿下が直接対応されます。また、南区の補助金については、精査期間中も凍結解除を認める方向で財務局に指示が出ています。以上、ご報告まで」
レオノーラはそれを一度読んで、机の上に置いた。
(南区の補助金は、今週中に解除される。診療所は来月も開いている)
それを確かめるように、もう一度読んだ。変わらなかった。
マリアが覗き込んだ。
「お嬢様、何かいいことありましたか」
「予定通りです」
「でも、なんか——」
「何ですか」
「なんか、ちょっとだけ、顔が違います」
レオノーラは書状をオットーに渡した。
「保管してください」
「御意でございます」
(顔が違う、ですって。何が違うのか、わかりませんわ。ただ——)
窓の外に、今日も南の方向が見えた。王都の午後の光の中で、南区の街並みは普通の街並みと変わらなかった。
ただ、確かにそこにあった。
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翌朝、アドリアンからの返信が届いた。
三行だった。
「報告を受け取りました。精査委員会の設置について把握しています。ランドルフ商会の帝国内の動向については、王国側の精査の進展と並走する形で情報を共有します。引き続き、記録として」
レオノーラは、しばらくその最後の五文字を眺めた。
「引き続き、記録として」
自分の書いた文言が、そのまま返ってきた。
(……これは)
何を意味するのかは、わからなかった。ただ、その三行を二度読んで、机の隅に置いた。
(合理的な価値がないことは、相手も承知で書いてきているということ?)
その先の言葉は、今日も来なかった。
レオノーラは次の書類を引き寄せた。新しい案件の書類だった。侯爵家の収支査定ではなく、今朝届いた王都西区からの陳情書だった。
表紙を開いた。
最初の一行に、「予算の不当な流用の疑い」という文字があった。
(……またですわ)
ため息の代わりに、彼女はペンを取った。
窓の外で、王都の午前が静かに続いていた。
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(第十一話 了)




