第二章 〈何らか〉の意志・・・③
暗い防空壕の中で友也は目を覚ました。
どれ位経ったのだろうか。
湿った土の匂いが鼻腔に纏わりついた。
ぼやけた視界の焦点が合っていく。
壕の中がオレンジ色に揺らめいていた。
次第に記憶が蘇ってくる。
翼竜のごとく迫りくる戦闘機——全身の血が引き、足が萎えた。
今までに経験したことのない恐怖だった。
(生きてる……んだよな?)
遠くから大勢の人たちの怒号が聞こえてきた。
頭を起こす。激痛が走った。
口の中がカラカラに乾いている。
唾を呑み込むと鉄錆の味がした。
(い、いったい何が起こってるんだ?)
さらに身を起こして振り返る。
思わず息を呑む。
壕の外に見えたのは、紅蓮の炎だった。
(な、何? 火事……爆発?)
恐怖で頭が真っ白になっていく。
(チャト……チャト?)
姿が見えない。よろよろと力なく立ち上がると壕を出る。
「チャト!」
火影に揺らめく茂みを探すも、やはりどこにもいなかった。
まさか——言い得ぬ不安が頭をもたげる。
横の畑を抜けたところで、焼け焦げた戦闘機の尾翼が目に入る。
一瞬、全ての音が耳から消え去った。
(あの戦闘機が……墜落した?)
ショックのあまり、思考が追いつかない。
早く、そして浅くなる呼吸の音が、耳の奥に籠っている。
「そ、そんな……いったい何が——ここはどこなんだ」
傷の痛みが、脈打つたびに疼いた。
悪心が全身を這い回る。
「チャト、チャト……」
足に力が入らない。
次第に視界が白くなり、ゆらゆらと意識が遠のき始める——突然、男たちの怒声が耳に飛び込んだ。
「もっと速く回せ——っ!!」
「亮太、バケツを戻せ! 走れ——っ!!」
はっと我に返る。
声のする方にふらふらと歩み寄ると——赤々と照らし出された男たちが、必死の形相で火に立ち向かっているのが見えた。
(マジかっ!)
目を疑った。
なんと、バケツリレーで、この業火を消そうとしているのだ。
「和正——死ぬんじゃねえぞ——‼」
「和正————っ‼」
口々に叫ぶ声は悲痛に溢れていた。
だがその願いも届かず、炎は消えるどころかどんどんと燃え盛る。
まるで人間の非力を嘲笑うかのようだ。
男たちの心が折れようとしたその時、「こっちよー、早く、早く——っ!」という、女たちの叫ぶ声が耳に飛び込んだ。
目を向けると、炎の向こうに陽炎のように浮かぶ人影が——警防団員たちが応援に駆けつけたのだ。
五~六人で手押し式ポンプ車を運んで来る。
「おお、ポンプ車が来たぞ! みんな、頑張れ——っ‼」
「おう——っ‼」
無力感に苛まれていた男たちが咆哮する。
にわかに活気が戻ってきた。
(え……ポンプ車って、手押しポンプ? あんなので、消せるのか?)
友也は、目の前の情景に唖然とした。
まるで茶番だった。懸命の消火作業が、滑稽にすら感じられた。
思わず乾いた笑いが口から漏れる。
だが、手が、足が、小刻みに震えているのが分かった。
その時、背後で声が——チャトの声だ。
振り返ると不安げに友也を見上げていた。
「チャト!」
屈んで抱き上げる。
その小さな身体が震えているようだ。
いや、震えているのは自分なのだろう。
立ち上がろうとした際に、後頭部と背中に激痛が走った。
「ううっ……」
思わずうずくまる。
痛みの中で、友也は確信した。
(間違いない、ここは昭和、戦争の最中だ!)
「大丈夫か?」
背後で野太い声がした。
その声は、先ほど友也を助けた男のものだった。
「怪我をしてるな。立てるか?」
勇元のたくましい腕は、軽々と友也を小脇に抱えた。
「早く治療をした方がいい。離れに行こう」
足を踏み出した途端、友也の意識が薄れて倒れかかった。
項垂れた首筋から流れる真っ赤な血が、光炎に照らされぬめっと光る。
「おい、大丈夫か? おい!」
その時、炎から浮かび上がるように、黒い影が歩み寄ってきた。
「勇元さん、どうした?」
問いかけてきたのは、丸眼鏡をかけた中年の男——警官の馬淵だった。
「怪我人です」
「誰だ?」
「さあ、この辺の者じゃありませんね」
「そうか」
馬淵がのぞき込む。
友也を見据えた馬淵の顔に、にわかに確信の笑みが浮かんだ。
「警防団がポンプを持ってきたんで、消火の方は大丈夫だろう。とにかく、早く怪我の治療を。俺が離れの方に運ぶから、菊枝さんを呼んできてくれ」
「ありがとうございます」
勇元の姿が暗がりに紛れるのを待って、馬淵は耳元で囁いた。
「友也君、ですね?」
「えっ?」
「警察部警防課の警官です、表向きはね。実は、時空管理局監視課の馬淵と言います」
朦朧とする意識の中、突然の言葉に耳を疑った。
「博士から窺っています」
と言うと馬淵は、腕の中にいるチャトに目をやった。
『友也』
チャトが心配そうに見上げている。
「あ……」
『大丈夫?』
「優翔……優翔なのか?」
チャトがゆっくりと瞬きをする。友也はやっと、事の次第を理解した。
「ここは、ここは昭和だよな?」
『うん』
「これは、君の仕業、なんだよな?」
『まさかっ! 友也がこの時代に来るなんて、全くの想定外やで』
「え?」
「お二人とも、とりあえず離れの中に入りましょう。話はそれからで」
意味が呑み込めずにいる友也を、半ば抱えるように離れに誘導した。
中に入るや馬淵は、手短に、諭すように伝えた。
正体を知られると後々面倒なので、事態が落ち着くまでは正気をなくした振りをしているようにと。
また、これからのことは自分に任せて欲しい、とも付け加えた。
友也は、疑念と不安の入り混じった目で見上げた。
馬淵は眼鏡の奥からその目を真っ直ぐに見返し、小さく、だが強く頷く。
そして再び燃え盛る母屋へと、足早に戻って行った。
「はい、これで大丈夫よ」
手慣れた手つきで救急箱の蓋を閉めながら、菊枝が快活な声で言った。
手際がいいはずで、菊枝はれっきとした助産婦の資格を持つ産婆であった。
医療の心得はある。ここらの子供たちも、和正を始めみんな菊枝が取り上げたのだ。
「勇元さんも怪我してるんだから養生してよ」
「はいはい」
額に巻かれた包帯に手をやると、バツが悪そうに苦笑した。
二人とも、幸い大した怪我に至らずに済んだ。
友也は背中と後頭部に軽い裂傷を負い、勇元は額を打ち付け流血するという、その程度である。
「ところで、この子はいったい誰なんだろうね?」
「さあな、気がついたら母屋の方から駆け出して来たんだが」
「和ちゃんの知り合いかい?」
勇元に分かるはずもなく、ただ首を傾げるしかなかった。
しばらくの間、二人は横たわる友也を見下ろしていたが、やがてどちらからともなく母屋の方に視線を移す。
中庭の向こうでは、弱まったとはいえ、まだ所々メラメラと燃えている。
男たちの叫び声が、どこか遠いところから聞こえてくるようだ。
「……和ちゃん、大丈夫かね?」
菊枝の不安げな言葉は、明らかに肯定を期待していた。
勇元は沈鬱な面持ちで母屋を見据えたが、すぐさま諦めたように首を振り、掠れた声でぼそっと言った。
「いや、あの有様だ。助からんだろう」
二人の吐息が、薄暗い明りの下に、音もなく沈み込んでいく。
菊枝は何か言いたげだったが、やがて居たたまれずに立ち上がると、「そんな殺生な!」と吐き捨て、救急箱を小脇に抱えて出ていった。
勇元は掛ける言葉も見つからず、ただ見送るしかなかった。
「勇元さん!」中庭から声がした。先ほどの馬淵のものだ。
「そろそろ鎮火する。消えたら安否確認だ」
「分かりました、今行きます」
やおら立ち上がると、勇元は重い足取りで離れをあとにした。
気配が無くなり、友也はひっそりと目を開けた。
視界いっぱいに、チャトの顔が飛び込んでくる。
『友也、大丈夫?』
「めっちゃ痛い……」
『でも、そんなんで済んでよかったやん』
確かにそうとも言えるのだろうが、頭と胸元に巻かれた包帯が痛々しい。
「治療するとこ薄目で見てたけど、オキシドールに赤い薬だけだもんな。何あれ?」
『マーキュロクロム液——通称赤チンや。有機水銀を使用しとるから、友也の時代では製造中止になっとる』
友也の口から、うめき声とともにため息が漏れた。
『この時代、あるだけマシやと思うわ』
「……そっか」
ひとしきりの沈黙の中で、これまでのことを思い起こしてみる。
「いつからチャトの中に?」
『ついさっき。戦闘機が墜落して、慌てて飛んできたんや』
「なんで俺はここに? 優翔がリープさせたんじゃないの?」
『さっきも言うたけど、ちゃう。想定外やって。それにリープやない、タイムスリップや』
「どう違うの?」
『リープは自分の能力や意志によるもんやけど、スリップは偶発的な事故とかやから、意志とは関係あれへん』
「じゃ、誰が?」
『そんなの分かれへんし』
「博士のくせして」
『無茶言ぃなや。そやけど、まあ、察しはついてるけどな』
「なに?」
『確証がないから言われへん』
「ケチ!」
『だって研究者やもん!』
その時、母屋の方で歓声が上がった。チャトがトコトコと縁側に向かい外を窺う。
どうやら鎮火したようだ。これから、安否確認が行われる。
重苦しい空気が流れる中、チャトがおもむろに振り返った。
『もうちょいしたら勇元さんも戻ってくる。たぶんこれからのことは、馬淵さんが上手くやってくれはるやろ。けど、友也も覚悟しとってな』
「どういうこと?」
『簡単には元の世界に戻れへんってことや』
「えっ、タイムマシンがあるじゃん!」
『何らかの大っきな意思でタイムスリップしたんや。僕らがどうこうするべきことやない。その〈何らか〉が動いて事が完結しぃひん限り、友也は戻らへん方がええ——と思うねん』
「そんな……」
チャトは友也に詰め寄り、ことさら語気を強めた。
『大丈夫や、僕もいるし馬淵さんも協力してくれはる。せやから覚悟を決めて』
「馬淵さん……か」
痩せ型で爬虫類系の顔をした馬淵を思い出す。
丸眼鏡のせいでおっとり見えたが、切れ長の目をした、狡猾そうな印象だった。
「あの人も優翔と同じ時代の人なんだよね。時空管理局って言ってたけど、この時代じゃ警官なの?」
『警察部警防課に潜り込んでんねん。防空や消防も担当する部署やで。何でもな、近代政府の主要機関には、必ず時空管理局に通じている部署があるらしいんや。だから入り込むのは簡単なんやて』
「ふーん」
眼鏡の奥で目を細め、にやりと笑う馬淵の顔を思い浮かべた。
どうやら、信頼するしかないようである。




