第二章 〈何らか〉の意志・・・②
南から北へと流れる川が、里山沿いに、東へとほぼ直角に向きを変える。
その内側の一角が、隣組の集落である。
川の曲がり角から、百メートルほど南に戻ったところに橋が架かっていて、そこに船着場があった。
河岸と呼ばれるところである。
昔からここを拠点として舟運が行われていた。
よってこの隣組は〈河岸の隣組〉と呼ばれている。
橋の袂には、隣組の直営する市場もあった。
和正のところのトマトや胡瓜、茄子といった夏野菜も、実ったものから順次収穫してこの市場に出荷する。
それを里山の南側や、川向こうに住む住民に販売しているのだ。
もちろん卵もである。
お盆前のこの時期が、農家にとっての繁盛期ともいえよう。
「和正、もうこれで全部か?」
中庭で叫んだのは、同じ隣組の坂本恭平である。
和正と同じ十九歳で、幼なじみになる。
恭平の一家は市場に荷を運ぶ荷舟を生業としていたが、トラックなどの陸送が盛んになってきたため廃業し、現在では農業を専業としていた。
「おう、それで全部だ」
「了解。よし亮太、行くぞ」
「はーい」
亮太と呼ばれたのは、四歳年下の清水亮太だ。
亮太の家は農業をやりながら、ツトッコ屋も営んでいた。
ツトッコというのは藁で作ったビール瓶の緩衝材である。
だが戦争とともに受注が全く無くなり、今は清水家も専業農家となっている。
「あと、これ、持ってってくれ」
和正はそう言うと、ザルに入れた卵を差し出した。
「わあ和兄、ありがとう!」
「亮太、一人一個っつだからな。ちゃんと恭平んちと分けんだぞ」
「分かってるって」
まだ十五歳という、あどけなさが残った亮太の丸い顔が破顔した。
「よう恭平、亮太、ご苦労さん」
離れからひょっこり顔を出した勇元が、二人に労いの声を掛ける。
「その卵な、カグヤとオツボネ、バアヤが産んだんだけどな、ヒメとオジョウのも入ってるぞ」
「えっ、ヒメとオジョウ、産むようになったんだ⁉」
目を見開いて驚く恭平が、感慨深げに卵を見つめた。
「孵化したのが三月だから、やっとだな」
「ついこないだまでヒヨコだったのにね!」
亮太も嬉々としている。
「それより勇元さん、あいつらの名前覚えたんだ?」
「ああ、やっとな。大変だったよ」
頭を掻きかき苦笑いしているが、まんざらでもない顔である。
ようやくこの若者たちと、対等に話せることに喜びを感じる勇元だった。
ガラガラと音を立てて、恭平と亮太が、リヤカーに積んだ野菜を市場へと運んでいく。
これでやっと一段落——河岸の隣組も、盆の入りを迎えるのであった。
ひと休みしたのち、和正は離れを訪れた。
「勇元さん、墓参りに行きませんか?」
「墓って、親父さんのか?」
「親父もですけど、代々の墓です」
「そうか、そりゃ行かないとな」
「この一年、それどころじゃなかったですからね」
慣れない田舎暮らしに畑仕事だ。
疲れ果てて墓参りどころではなかったのである。
「近いのかい?」
「そこの里山の中腹です」
脇の小道を上まで行くと里山に突き当り、つづら折りの山道に差し掛かる。
里山自体はそれほど高くもなく、丘と言っていいくらいだ。
それでも坂は結構急だった。
左に登り、右に折り返した突き当りの中腹が、代々の墓になる。
下に広がる関口家の敷地を、眺めるようにして墓は建てられていた。
「ほう、いい眺めだな」
「でしょう? このまま登って行くと、ちょうどこの真上くらいが〈見晴らしの丘〉っていう広場なんですよ。そこの眺めはもっといいです」
野草の花束を供え、線香に火をつける。
ついた火を消すと紫煙が立ち上り、風にたなびいて山間を流れていった。
「早く親父の遺骨が見つかればいいんですけどね……」
ため息交じりにそう言うと、和正はしゃがんで両手を合わせた。
その言葉に、勇元は衝撃を覚えた。
そうか、遺骨はまだ戦地に野ざらしになっているのか——ついぞ忘れかけていたが、まだ戦争の真っ最中なのだ。
どこか遠くの地で、今も戦い、非業の死を遂げる兵士たちが大勢いる。
物や食料が手に入りにくいだけで、ことさら戦争を意識することもない毎日ではあったが、戦争は間違いなく〈現実〉として隣り合わせているのだ。
押し寄せる実感に、思わず息が苦しくなった。
勇元も両手を合わせ、手厚く祈りを捧げる。
瞑った瞼の奥に、忘れかけていた空襲の爆撃音と、業火に包まれた工場の残像が蘇った。
その夜、勇元は妙に寝付けなかった。
農家の朝は早い。
日の出とともに起きる。
仕事は重労働である。
だから夕食が済み、ひと息つく頃には睡魔が襲ってくる。
それが日常だ。
だが今夜は違っていた。
久しぶりに畑仕事を早く終えたせいだろうか。
墓参りに行って、思うところがあったからだろうか。
眠ろうとすればするほど目が冴えていく。
何度も寝返りを繰り返し、悶々としていた。
やっとうとうととして来た頃に、耳慣れない音が眠りの邪魔をした。
蜂の唸るような音が、中庭の方からかすかに聞こえてくるのだ。
しばらく聞き耳を立てていたが、音は一向に止む気配がない。
それどころか、心なしか大きくなったような気がした。
胸騒ぎに煽られ、勇元は身を起こした。
縁側に出て、目を凝らす。
だが見えたのは、月明かりに照らされた、いつもと変わらぬ中庭だった。
ほっとしたのも束の間、向かいの母屋から飛び出してくるものが見えた。
「……猫?」
犬ではない、確かに猫だ。それも子猫が、狂ったように鳴き叫んでいる。
続いて青年が——和正か?
いや、違う。
見知らぬ青年は、庭に出るなりふらふらとよろめき、地面にうずくまった。
「あっ」と、思わず声が口を突いて出る。
助けに出ようかどうしようかと躊躇っていると、青年はやおら立ち上がり、子猫を抱えて、覚束ない足取りで小道に出ていった。
胸騒ぎが膨れ上がり、勇元の呼吸を妨げる。
しばし呆然と見送っていたが、はっと我に帰り、慌ててあとを追いかけた。
刹那、聞こえていた音が轟音に変わった。
音に目を向ける。
視界に飛び込んできたのは、なんと月光に輝く銀翼の戦闘機だ。
(て、敵の空襲?)
いや警報は鳴っていない。
海軍か? 陸軍?
判断がつかないまま状況を窺う。
だが、何かがおかしかった。
機体からは何の意思も感じられず、ただゆらゆらと揺れているだけである。
しばらく西に向かって飛んでいたが、やがてくるりと反転しその腹を月光にさらした。
そして大きく左に旋回すると、二回、三回と回転しながら急激に高度を落とし始める。
(そ、そんな、まさか!)
なんと機体は、こちらに落下してくるではないか!
恐怖が全身を貫いた。
あの時の——東京空襲の大惨事が記憶に蘇る。
勇元は咄嗟に地面を蹴ると、声を限りに叫んだ。
「危ない、逃げろ! こっちだぁ————っ!!」
青年の腕を引っ掴み、防空壕へと走った。
背後に迫り来る轟音。
戦慄が足元から這い上がる。
防空壕に逃げ込こもうとした、ちょうどその時、爆発音とともに熱風が襲った。
背中を蹴飛ばされたかのような衝撃に、身体がふわっと浮き上がり、次の瞬間、地面にこっぴどく叩きつけられた。
思わず呻き声が零れ出る。
薄れる意識の中で、疼く痛みと湿った土の匂いが、妙に生々しく纏わりついた。
この時、勇元は〈死〉を実感した。
背後から呻き声が聞こえてきた。
目を開けると、洞の壁面がオレンジ色に揺らめいている。
記憶が曖昧だ。
何故ここに——頭を起こす。
激痛が走った。だが、生きている。
さらに身を起こして振り返った。
勇元に覆いかぶさるようにして、見知らぬ青年が倒れている。
その背中越しから目に飛び込んできたのは、業火だった。
畑の向こうに、メラメラと立ち上る激しい炎——轟々と音を立てて燃え上がっているのは、母屋だ。
「か、和正……」
勇元は我に返った。
「和正、和正——っ!」
青年の身体を脇に押しのけ、力なく壕を出る。
待ちかまえていたように、熱波が勇元を襲った。
弾ける火の粉が宙を舞い、茅葺の天竹が次々と破裂している。
その爆音が耳をつんざき、いやが上にも恐怖を煽った。
母屋に近づくにつれ、焼けつく熱さが肌を刺す。
ガソリンの刺激臭と、硝煙の匂いが鼻を突いた。
何もかもが悪夢のようだ。
だが表皮を襲う火熱だけが、これは紛れもない現実なのだと伝えている。
横の畑を抜けた瞬間、息を呑んだ。
中庭に転がっているのは、無惨にも焼け焦げた戦闘機の尾翼だった。
間違いない、米軍のものだ。
米軍機がここに墜落した——ここは今、戦争の真っ只中なのだ。
絶望を振り払うように、あらん限りの声で叫んだ。
「和正——————っ!」
その絶叫を、紅蓮の炎がせせら笑う。
勇元は、もつれる足を奮い立たせ、井戸端へと走った。
バケツに水を汲む。頭から被ると、もう一度水を満たし、母屋まで走る。
だが熱さで容易に近づけない。
ありったけの力で水を撒いたが、届かない——井戸に戻り、再びバケツに水を汲む。
ポンプのハンドルが、きしむように悲鳴をあげている。
くそっ、埒が明かない——そう思いつつも他に手段がなかった。
募る焦燥感に、気力が失せていく。
その時——どこからか「勇元さ——ん!」と呼ぶ声が聞こえた。
顔を向けると、下を走る町道から、隣組の男たちが見上げていた。
皆、防空頭巾をかぶり、手に手にバケツを持っている。
「何があった?」
「空襲か?」
「離れは無事か?」
思い思いに騒ぎ立てる男たちに、勇元は母屋を指さした。
「和正が、和正がまだ中にいる!」
釘付けになった視線の先には、業火に包まれた母屋が揺らいでいた。
凍り付いた空気を、打ち破るように怒声が飛んだ。
「ぼーっとしてんじゃねえ! 消火するぞ! 恭平、水掛けやれ! 亮太はバケツを戻せ! 早くしろ!」
仕切ったのは、恭平の父の坂本順平だった。
男たちは井戸端によじ登り、母屋まで列を作る。
「回すぞ——っ!」
バケツリレーが始まった。
ポンプ係が水を入れる。順にバケツを回し、恭平が水を撒く。
終わったバケツを亮太が走って井戸に戻す。
いつもの訓練通り、何度も何度も繰り返す。
いったいどれだけの水を撒いたのだろうか。
だが炎は一向に収まる気配もない。
明らかに焼け石に水である。
誰しもが無力感に苛まれていった。




