第二章 〈何らか〉の意志・・・①
「勇元さーん、そろそろお昼にしませんか?」
畑で草むしりをする男に声を掛けたのは、この家の主の関口和正だった。
といっても、まだ十九歳の初々しい青年だ。
この男こそが、爺っちゃんの父親——友也の曽祖父である。
ここは横浜市北部の農村、時代は一九四三年——昭和十八年に遡る。
和正の父親は、二年前に太平洋戦争が始まると、すぐに赤紙が来て臨時招集された。
そして南方の国の、どこぞの密林で帰らぬ人となった。
母親の方も産後の肥立ちが悪く、和正を産んで間も無く亡くなっている。
他に兄弟もなく、この歳にして天涯孤独の和正だったが、戦時中ではさほど珍しいことではなかった。
「もうそんな時間か。今行くよ」
首から下げた手拭いで、滴る汗をぬぐう。前かがみで固まった腰を反らし、大きく伸びをした。
真っ青な夏空に、悠々と浮かんでいる白い雲が目に入る。
何という清々しさだろう。
東京での工場勤めでは、味わうことの出来ない光景だ。
井戸水をくみ上げ、顔を洗う。
飛び散るしぶきが、真夏の陽射しに煌めく。
「ん〜、天気もいいし、最高だ!」
この男は、山岡勇元という。
歳の頃は五十過ぎ、和正の叔父——死んだ母親の兄にあたる。
東京の荒川区に在住していたが、昨年四月の空襲で務めていた工場が焼失した。
いわゆる『ドゥーリトル空襲』と呼ばれる、アメリカ軍の奇襲攻撃である。
これによって家も職も失った勇元は、甥の和正を頼ってこの地に転がり込んできたのだ。
「どうですか、だいぶ慣れてきたみたいですね?」
和正が労いの言葉をかける。
それもそのはずで、来たばかりの勇元は農業の経験が一切なく、草むしりひとつ満足に出来なかった。
「そりゃ一年近くいるとね。慣れてみると、案外性に合ってるのかなと」
その言葉に嘘はなかった。
確かに勇元は、ここでの生活に今までにない高揚感を抱いていた。
同じ〈もの〉を作る仕事でも、日がな一日、薄暗い工場で働くよりは余程気分がいい。
「そうですか、それはよかった」
屈託のない笑みが、勇元を心地よくさせる。
その爽やかな笑顔の中に、亡き妹の面影を重ね合わせていた。
そして和正の、どこまでも真っ直ぐなところにも、惹かれていたのである。
「さ、食べましょうか」
そう言うと、二人は両手を合わせた。
勇元に家族はいなかった。
浮いた話の一つや二つはあったのだが、へそ曲がりで頑固な性格が災いして、この歳になるまで独り身に甘んじている。
風貌も性格そのままで、鋭い眼光に角刈りの頭、がっしりとした身体は浅黒かった。
「飯が終わったら、俺は下の田んぼを見るんで、勇元さんは鶏の面倒をお願いしますね」
「おう、分かった。だけど和正は本当によく働くな」
「働かなきゃ食ってけませんからね。俺だけじゃないですよ。みんな必死です」
確かにそうだ。
この集落の人たちは本当によく働く。
しかも集落六軒が寄り添い、皆で協力し合っているのだ。
この青年が若くして仕事をこなせるようになったのも、ひとえに集落の協力があったからこそだ。
この地域組織のことを〈隣組〉といった。
「ごめんなさいよー。和ちゃん、お裾分け!」
中庭から大声が聞こえてきた。
隣に住む遠藤菊枝である。
歳の頃は四十半ばで、四角い顔をしたぎょろ目の女だ。
だがよくよく見ると、これでなかなか愛嬌がある。
夫は日中戦争が始まった六年前、早々に駆り出されて大陸で戦死したらしい。
あとに残されたのは菊枝と娘二人——名を涼花と杏美といった。
もちろん皆、隣組の一員である。
「こないだ採れたカボチャを煮たんでね、持ってきたわ」
菊枝は中庭に面した縁側に腰掛けると、皿いっぱいのカボチャを差し出した。
「ありがとうございます。どうですか、今年の出来具合は」
「まあまあね。採って十日ほどだけど、甘みが今一かね。秋くらいにはもっと甘くなるんじゃない?」
「そうですか。じゃあ、遠慮なく」
皿を受け取り食卓に置くと、さっそく一口食べてみる。
「お、結構いけますよ。勇元さんもどうぞ」
勧められるまま、口に運んでみる。
「うん、美味い。カボチャもだけど、味付けがいいな」
「あらやだ、勇元さん、お上手ね」
そう言うと嬉しそうに笑う。
その顔も、実に愛嬌に溢れていた。
「いやいや、本当に美味いよ。なあ」
和正はこくこくと頷くと、二切れ目を頬張りながら一気に呑み込んだ。
「そうだ菊枝さん、採れたやつ保存するんでしょう? あとで取りに行きますよ」
「じゃあ俺がリヤカーを持っていこう」
「あら、悪いわね。いつも助かるわ」
カボチャは当時の重要な保存食である。
収穫したのちにしばらく日陰で干しておいて、それから室に入れて保存するのだ。
関口家では、里山に横穴を掘り防空壕にしている。
入り口は間口、高さともに二メートル、奥行き六メートルはあるだろうか。
この戦争が始まった頃に掘ったのだが、未だに避難したことはない。
もっぱら野菜の貯蔵庫として使っている。
洞の中は地中と同じなので、季節に関係なく十五度くらいの温度が保てる。
貯蔵には持って来いだ。
「追熟するから、秋にはもっと甘くなるわね」
「その頃には薩摩芋の出番だな」
「あら、勇元さんも、すっかりお百姓さんっぽくなったわね」
弾ける笑い声が庭先に溢れていく。
『お百姓さんっぽくなった』という言葉を、嬉しく思う勇元だった。
関口家の敷地は、三方を里山に取り囲まれた、なだらかな斜面にあった。
谷戸という地形である。
この斜面の右端を通る小道以外は全て関口家の敷地で、代々ここで農業を営んでいる。
その敷地の下の方に、和正が暮らす母屋があった。
食事が終わると、和正は母屋を出て小道を下った。
母屋の一段下には田舎道が通っている。
里山沿いに走る、幅三メートル足らずの町道だ。
もちろん舗装などされていない土道である。
町道を横切ると、和正は目の前の田んぼを見渡した。
青々とした穂が、風に吹かれてゆらゆらとたなびいている。
思わず口元が綻んだ。
道沿いに流れる用水路を飛び越え、畔を歩く。
畔には枝豆や大葉がぐるりと植えられ、どれも食べ頃である。
もちろん農家の貴重な食料だ。
畔の突き当りは土手になっていて、その向こうに比較的大きな川が流れていた。
和正は土手を一気に駆け上り、田んぼを振り返る。
土手の真下から右手——川の上流に向かって青田が連なっていた。
広大な面積だが、これも隣組で共同管理をしている。
「うん、出来は上々だな」
和正は大きく伸びをして里山に目を向けた。
緑に覆われた里山は、陽射しを浴びて熱く息づいている。
耳に飛び込む蝉の大合唱が、夏の盛りを伝えていた。
「今年は豊作間違いなしだな」
小さく頷き、満足気に額の汗をぬぐった。
里山から繋がる谷戸の斜面は、大きく三段に別れていた。
一番上に養鶏場、中段には畑が広がり〈上の畑〉と呼んでいる。
一番下の段に母屋がある。
母屋の向こうには、中庭をはさんで勇元の住む離れがあった。
中庭の左にも畑があり、ここを〈横の畑〉と呼んでいる。
さらにその左は里山の斜面になり、この山肌に防空壕が掘られていた。
中庭に出た勇元は、手渡されたメモ書きに目を通した。
そこには鶏たちの名前と特徴が列挙されている。
先ほどの和正との会話を思い返して、思わず苦笑した。
『そろそろ鶏たちの名前も覚えましょうか』
『名前? 鶏に名前がついてるのか……何のために?』
『状態を把握してみんなで共有するためです。それに、一緒に暮らしてるんですからね』
『……』
メモ書きには雄鶏から記されていた。
「ショウグン——総大将、一番大きい。ムサシ——副大将、次に大きい。コジロー——同じく副大将、三番目に大きくて鶏冠が少し欠けている。ベンケイ、ウシワカ、サスケ……ははっ、はははっ、あっはっはっは、こりゃいい、最高だ!」
腹がよじれるほど笑った。これまでの人生で、一番笑ったかもしれない。
笑いが収まらないままメモをポケットに突っ込むと、ぼそっと呟いた。
「しかし、こりゃ大変だ……」
勇元は気合いとともに籠を背負うと、養鶏場まで小道を登っていく。
籠の中には、葉かきや草むしりで出た屑がいっぱいに詰まっている。
午前中に横の畑で作業をした成果だ。
結構な重さである。
これを鶏たちに食わせるのだ。
鶏というのは相当な雑食だ。
草や野菜くず以外にも米ぬか、大豆の搾りかすなど家庭から出る生ごみは何でも食べる。
魚の骨や貝殻を細かく砕けば、貴重なカルシウム源にもなった。
加えて地中のミミズ、バッタや蝉などの虫も大好物である。
こうして色々食べて、良質の卵を産むのだ。
ここの養鶏は放し飼いである。
敷地は百五十坪ほどで、その周りを高さ九十センチほどの竹柵で囲んである。
敷地の左の里山側には、金網で覆われた二十坪ほどの鶏舎がある。
夜はそこに移して、野良犬や野良猫などの害獣から守っていた。
こうして鶏たちは、ゆったりとした土地の中で、ストレスなく育てられていた。
放し飼いの鶏は、概ね三日に一個くらいの割合で卵を産む。
数こそ少ないが、その卵はいい値で売れた。
蕎麦一杯が十六銭のこの時代で、なんと一個二十五銭ほどにもなる。
米や野菜よりも、遥かにいい稼ぎになったのだ。
養鶏場にいる約五十羽の鶏のうち、雄鶏は九羽だ。
勇元は、運んできた屑を何か所かにばら撒いていった。
すると鶏たちは、先を争って自由に好きなものを貪り始める。
だがよく見ると、餌を突いているのは牝鶏だけで、雄鶏は食べようとしない。
頭を上げて、辺りをきょろきょろとしている。
「そうか、見張っているのか」
いくつかの群れに別れていたが、そこにはバランスよく雄鶏も混ざっている。
各群れの雄鶏が周りを巡回し、外敵が来ないか見張っているのだ。
鶏舎に近い群れの雄鶏が、ひと際大きかった。
「なるほど、あいつがショウグンか」
他の群れの中心にも、ひと回り大きい雄鶏がいる。
「あっちがムサシで、あの鶏冠が欠けてるのがコジローだな」
その時勇元は、名前の必要性を理解した。
それまでは全部ひっくるめて〈鶏たち〉だったのが、名前を覚えたことで今やその距離がぐっと縮まっている。
親しみさえ湧いていた。
たかが鶏と思っていた奴らが連携して共生している——だが人間も同時にここで共生しているのだ。
そのことに気付き、勇元は驚くとともに感動を覚えた。
この日、何とか雄鶏を見分け、名前を覚えることに成功した。
鶏冠が大きい分、雄鶏の方が見分けやすかった。
その点牝鶏は、少々難易度が上がる。
「オイラン、コマチ、ヒミコにベンテン……って、しかしまあ、よく付けたな。これを40羽以上覚えるって、あはは……これは明日からの課題だな」
菊枝の言った『すっかりお百姓さんっぽくなったわね』という言葉を思い出し、今度は苦笑いを浮かべる勇元だった。




