第一章 時空を超えて・・・②
旧盆に入った今も、うだるような猛暑と蝉の大合唱だけは衰えを知らない。
家の中に、おりんの音がちーんと響き渡った。
線香の紫煙が、エアコンの風に揺らめいている。
「悪かったなあ。葬式から何から、すっかり任せっきりになってしまって」
「ホントにごめんね。でも助かったわ」
仏壇に手を合わせていた叔父と叔母が振り返った。
「いえ、仕方ないですから」
爺っちゃんの次男で、今は亡き親父の、ただ一人の弟である。
商社に勤めている叔父一家は、ここ2年ほど海外勤務でシンガポールに在住していた。
バリバリの商社マンだ。
爺っちゃんが亡くなった時も、ちょうど東南アジアを股にかけたビッグプロジェクトの最中で、帰国が叶わなかったのだ。
「俺は相続を放棄するからさ、この家と親父の遺産はお前が継いでくれ」
「え、いいんですか?」
「それが一番、お義父さんが望んでることだと思うの」
「……分かりました。それじゃ、手続きは僕が進めます」
と答えたが、相続の煩雑さを思うと気が滅入った。
だが大学を卒業した今も、何の意欲も湧かずにプータローの日々を過ごしている。
これといってやることもない。
少しは暇つぶしになるだろうと、半ば投げやりに思う友也だった。
爺っちゃんの家は横浜郊外といっても、十分に田舎と呼べる環境にある。
その敷地も広大だ。
三方を里山に取り囲まれた、ゲレンデのようななだらかな斜面——いわゆる谷戸という地形である。
この斜面の右端を通る小道以外は、一面が関口家の敷地なのだ。
ここで代々、農業を営んできたらしい。
喧噪も少なく適度に自然に囲まれたこの環境は、今も昔も変わることなく、友也にとって心休まる場所だった。
初めて訪れた時から、まるで故郷に帰って来たような、デジャヴュともいえる不思議な感覚に捉われたものだ。
爺っちゃんは仕事を退職したあと、自給自足に近い生活を始めた。
敷地の畑で野菜作りを再開し、中庭にも鶏を放し飼いにして卵を産ませた。
そんなことをせずとも老後はのんびりと暮らせたはずなのに、爺っちゃんは何故かこの生活にこだわった。
21世紀の今、もちろん電気やガスなどのライフラインは整っている。
だが敢えて、薪を使う五右衛門風呂や薪ストーブを愛用した。
そのために、わざわざ母屋の横に風呂小屋を建てたくらいだ。
亡くなった両親や叔父夫妻も、爺っちゃんのこの生活にはほとほと呆れていた。
だが友也は、子供の頃からこの野趣溢れる生活が大好きだった。
休みのたびに訪れては、爺っちゃんとともに過ごした。
それはまるで冒険小説の1ページのように、友也の心をときめかせたのだった。
叔父と叔母は線香だけ上げると、慌ただしくシンガポールに戻っていった。
そしてまた、いつもの静かな夜が訪れた。
簡単に夕食を済ませ、友也は仏壇にあったハーモニカを手にした。
爺っちゃんが遺してくれた遺品である。
上下2段のクロマティックシングルと呼ばれるもので、下段が正常配列、上段が半音上がった音になる。
きわめてスタンダードなモデルであるが、友也はこの素朴な音色が好きだった。
子供の時から手ほどきを受けていた。
爺っちゃんの吹くハーモニカが大好きだったのだ。
おもむろに吹き始める。
『埴生の宿』——爺っちゃんに習った曲の中でも一番のお気に入りだ。
もともとはイギリス民謡で『Home! Sweet Home!』というタイトルだが、日本では明治の頃より『埴生の宿』で親しまれている。
貧しいながらも、野山に囲まれた我が家を愛しく思う——そんな哀愁に満ちた、望郷の念溢れるメロディーだ。
ハーモニカの音色は、次々と懐かしい情景を思い起こさせた。
爺っちゃんと畑を耕し野菜を育てた。
庭で飼っている鶏たちの世話をした。
薪割りが上手くなったと褒めてもらった。
鯉釣りにも行った。
釣った鯉で料理も作った。
夏休みや冬休みが待ち遠しくて仕方なかった。
そんな掛け替えのない思い出たちだった。
吹き終えたハーモニカをじっと見つめる。
随分と年季が入っていたが、手入れはしっかりと行き届いている。
爺っちゃんの人柄そのままだった。
見つめるうちに目頭が熱くなり、その輪郭が滲んでいく。
「爺っちゃん、俺はこれからどうすればいいんだろう……」
口をついた独り言が線香の残り香と相まって、ことさら寂寥感を掻き立てた。
いたたまれずに窓を開ける。
網戸越しにモワッとした熱気が入ってきた。
中庭の闇からコオロギの声が聞こえてくるが、それが何ともアンバランスに感じた。
暦の上ではもう秋なのに、まだまだ夏は終わりそうにない。
窓を閉めようとしたその時、かすかに鳴き声が聞こえてきた。
虫の声ではない。か細くて高い声だ。
「猫?」
しばらく様子を窺ってみる。
だが、再び声が聞こえてくることはなかった。




