第一章 時空を超えて・・・①
どこまでも澄んだ空を見上げた。
白い雲がひと片ひら、ふた片ひらと、風に流され視界を横切っていく。
いつもなら耳が痛いほど蝉が鳴き叫んでいるのに、何故か全く聞こえてこなかった。
不思議に思い、辺りを見渡す。
目の前には、三方を里山に囲まれた扇方の斜面が広がっていた。
後ろを振り返れば、ゆらゆらと流れる広い川が横たわっている。
いつもと変わらぬ、見慣れた景色だった。
呼ばれたような気がしたので斜面に目を戻す。
正面の里山から、老人が降りてくるのが見えた。
斜面の右端に延びる白い小道を、節目がちにとぼとぼと歩いている。
何か思い詰めたような面持ちだった。
「爺っちゃん!」
大声で叫んだつもりだったが、声は思いのほか小さかった。
なおも歩き続ける老人に駆け寄った。
だが老人は気付いた素振りも見せず、目の前を通り過ぎていく。
その背中に、すがるように声を掛ける。
「ねえっ……」
声は届いていないのか、老人は構わず小道を下り続けた。
その先は、銀色に光る川が行く手を阻んでいる。
言いようのない不安に駆られ、思わず声を荒げた。
「爺っちゃん!」
老人が歩を止め、佇んだ。
近づこうと1歩踏み出すが、それを拒むように肩越しに振り返る。
どんな表情なのか横顔からは窺えなかったが、その瞳は悲しみの色に満ちていた。
やがて老人は肩を落とし、再び銀の川に向かって歩み始める。
引き留めようにも声が出ない。
すがりつこうにも足が動かない。
ただ手の平を握りしめ、溢れ出る嗚咽を堪えているだけだった。
(爺っちゃん、行かないで、お願いだから…………爺っちゃん!)
自分の呻き声で目が覚めた。
目を開けると、見慣れた天井の木目が目に入る。
零れた涙がこめかみをくすぐった。
「またか、また同じ夢か……」
関口友也は、ため息交じりに虚ろにつぶやく。
ここ最近、ずっと同じ夢を見ている。
そう、8月に入った辺りから、ずっとだ。
上体を起こし、手の甲で瞼を拭うと、その夢を思い起こしてみる。
何故いつも、里山から降りて来るんだろう?
そして何故、川へと去っていくんだろうか?
三途の川——いや、そんなのとっくに渡っているだろう。
考えれば考えるほど謎だった。
友也は、この春に大学の文学部を卒業した。
幼いころから読書が大好きで、友達と遊ぶよりは本を読む時間を重んじる少年だった。
物語の中に広がる未知の世界に足を踏み入れ、主人公の目を通して一喜一憂し胸を躍らせる——そんな時間の方が遥かに楽しかった。
だから知人こそ大勢いるが、友人——それも親友なるものは、今に至るまでいた試しがない。
そうかといって〈人間嫌い〉というようなひねくれ者でもなかった。
ただ自分をさらけ出し、一歩踏み込んで人と付き合うのが苦手なだけなのだ。
ゆくゆくは執筆関係の職に就きたいと願っていた。
だがその夢も、突然の事故により打ち砕かれた。
3年前、友也が19の時に両親が亡くなったのだ。
大学2年の時だった。
家族3人でドライブに行った矢先、居眠り運転のトラックと正面衝突をした。
両親は即死、後部座席にいた友也は一命を取り留めたものの、膝関節の後遺症で右足の屈曲が思うように出来なくなってしまった。
今では歩く際に軽くびっこを引いている。
友也に兄弟はいない。
もちろん友達もいない。
肉親の死によって、独りぼっちになってしまったのだ。
この降って湧いた不幸に、友也は自失した。
同時に、運命の悪気ない悪意を呪い、自暴自棄の生活に陥った。
それを救ってくれたのが祖父の関口友作である。
幼少の頃から爺っちゃんと慕っていた友作が、友也との同居を提案してくれたのだ。
〈爺っちゃん〉こと友作は、太平洋戦争が終戦を迎えた翌年の、1946年に生まれた。
その年代の男にしては大柄な方だが、かといって厳つい訳ではない。
少し下がり目の面持ちは柔和な印象を与えていた。
人柄も純朴で、物静かな佇まいが誠実さを醸し出している。
口数は至って少なく、友也に対しても必要以上に干渉しようとはしなかった。
その距離感が、友也には居心地が良かったのだ。
また友也と友作は、容姿、性格とも実によく似ていた。だからこそ馬が合ったのであろう。
爺っちゃんと過ごす時間は特別だった。
友也が唯一心を許せた、類い稀な存在だった。
そんな爺っちゃんの提案は、友也の救いとなったのである。
こうして3年前に、横浜北部の郊外にある友作の家に移り住んだ。
事故の賠償や実家の売却で、当分遊んで暮らせるような遺産は手に入った。
だが引き換えに、未来への夢や希望をすっかり失くしてしまった。
ぽっかりと開いた心の穴を、埋めてくれたのが爺っちゃんだったのだ。
その爺っちゃんが亡くなったのは、梅の花が咲き始める頃だった。
まだまだ生きられたはずなのに、肺炎で呆気なく、80の手前でその生涯を終えたのだった。
(これで、本当に独りぼっちになっちゃったな……)
友也は来る日も来る日も、孤独感と喪失感に苛まれていた。
だが〈人間は忘れる生き物である〉という言葉の通り、悲しみは、日が経つにつれ日常に埋もれてしまう。
心の新傷は、やがて古傷となるものだ。
あれから半年、当時は波立っていた友也の内面も、いつしか平穏なものへと戻っていた。
そんな矢先の、度重なる爺っちゃんの夢であった。




