第三章 河岸の隣組・・・③
その夜、ひっそりと仮通夜が行われた。
隣組の面々が、せめても遺骨に手を合わせようと、順繰りに勇元たちの住む離れを訪れる。
皆押しなべて和正の人となりを称え、早すぎる死を悲しんだ。
同時に、突然降りかかった災いに慄いた。
明日は我が身かも知れないのだ。
そういう時代である。
また友也への興味も相当にあった。
すでに菊枝や恭平らから聞き及んではいたが、このタイミングで現れた青年を、隣組としていかに迎え入れるかが気になるところである。
「じゃあ勇元さん、また明日の朝に来るからよ。納骨が終わって、盆が明けたら忙しくなる。しばらくはうちの恭平を貼り付かせるから、こき使ってくれ」
恭平の父の坂本順平が立ち上がる。
順平は、河岸の隣組長だった。
「いや、本当に助かるよ。和正がああなっちまったから、途方に暮れてたんだ」
そもそも隣組というのは、円滑な近所付き合いや相互扶助が目的の末端組織である。
だがそれは表向きで、その実は戦時中の〈国民の統制〉という狙いがあった。
政府の指示の迅速な伝達、食料や物資の配給、消火訓練などを共同で行わせた。
また一人ひとりの行動や思想も互いに厳しく監視させた。
特に異分子の潜入、つまりスパイへの警戒も行わせたのだ。
ここでいうスパイは敵国のそれではない。
反戦思想などを持つ反動分子——思想犯のことである。
「友也さんも来た早々災難だったな。ま、ゆっくりでいいから仕事を覚えてくれ」
「はい、ありがとうございます」
どうやら友也に対するスパイ容疑は晴れたようである。
関口家の親戚で、警官の馬淵からも聴取はされている。
また先の空襲での被災者だということが、大きな判断材料となった。
順平が離れを去ってしばらくすると、最後の参列者が来た。
「こんばんはー」
土間に入って来たのは、涼花と杏美だった。
友也の胸がトクンと鳴った。
「涼花、杏美、今朝がたはありがとうな」
二人は「とんでもないです」と、口を揃えて答える。
その後ろから、佐藤梢が続いた。
「勇元さん、この度はご愁傷さまです」
「おお梢も。しばらく見ないうちに、すっかり大人っぽくなったな」
「そりゃそうよ、こう見えて、今では立派な職業婦人だもん」
梢はけらけらと笑ったが、すぐに神妙な面持ちに戻った。
そして涼花を振り返り、ペロッと舌を出す。
「もう、梢ったら」
「ごめんなさい、つい……」
「いいさ、和正も湿っぽいのは好まんだろう」
梢は佐藤家の長女で、この春に高等女学校を卒業したばかりだ。
涼花と同じ女学校で、一年後輩にあたる。
卒業後は、川向こうにある電機会社に就職し、そこで事務員をしている。
今で言えばOLだが、当時は職業婦人と呼ばれた。
チャトは先程から座敷の奥にちょこんと座り、放心したように梢を見入っていた。
明らかに様子がおかしい。
優翔の熱に浮かされたような言葉が、友也の脳内に聞こえてきた。
——友也、どないしょう……このお姉さん、めっちゃ好みなんやけど。
思わずチャトを二度見した。
——はあ? 好みって、ぜんぜん年上だろう。
——年とか関係あらへん。しゃあないやん、ときめいてしもたんや。
聞こえてくる優翔の声は切実だった。
猫の癖に潤んだ目——どうやらすっかり首ったけのようである。
改めて梢を見直してみる。
なるほど、優翔が舞い上がるのも分かる気がする。
涼花と違い、どちらかというとボーイッシュで、弾けるような笑顔が魅力的だ。
〈美人〉というよりは〈可愛い〉というのがお似合いの、愛嬌溢れる女性であった。
すかさずチャトの猛アピールが始まった。ミャーオミャーオと甘えた声を出し、座敷の淵に歩み寄る。
「チャト——」
真っ先に駆け寄ったのは、やはり杏美であった。
淵に座り、さっそく頭を撫で繰り回す。
だがチャトの視線は梢に釘付けだった。
「あら可愛い猫ちゃん」
「チャトよ」
「へえ、チャトっていうんだ」
梢も傍らに座ってチャトの頭を撫で始める。
部屋中に聞こえるほど、チャトの喉がグルグルと鳴りはじめた。
——まったくもう、子供の癖に色気づいちゃって。
くねくね転がりながら甘えている——その姿を見て、半ば呆れて苦笑する友也だった。
不意に梢が声を上げた。
「あれ、このうち、猫なんて飼ってたっけ?」
「ここに来る途中、友也さんにくっついて来たんだって」
「へえー」
涼花の言葉で、梢の視線が友也に移る。
慌てて真顔に戻り、「あら、ご挨拶が遅れました。佐藤梢です」と、軽く会釈した。
「あ、初めまして。関口友也です」
「お話は涼ちゃんから聞いてます。お怪我の方は、もう大丈夫なんですか?」
「はい、もともと大したことなかったんで」
梢はにっこり笑い、「それなら、よかった」と、再びチャトに視線を移した。
友也はそっと涼花を窺い見た。
くねくねと転がるチャトを、口元に笑みを浮かべて見ている。
朝方見せた悲哀の色は、今は影を潜めているようだ。
「さあ三人とも上がって、線香をあげてやってくれ」
勇元に促され、涼花たちは座敷に上がると順に焼香をした。
目の前の骨箱には、変わり果てた和正が入っている、はずだ。
それが、何かの悪い冗談に思えてならない。
つい昨日まで、元気に働き、爽やかな笑顔を振りまいていたのに、帰らぬ人となってしまったのだ。
信じられない、信じたくない——そんな悲しみの共鳴が、線香の煙とともに部屋中に渦巻いていた。
「父が戦死してもう六年ほどになるけど、まだ人が死に続けてるのね。和さんのお父さんも、和さん自身も。いったい、いつまで戦争が続くのかしら」
涼花から零れ出た本音には誰も答えない。
否定も肯定もしなかった。
この時代では、決して口にしてはならない言葉だ。
だが誰しもが強く思っていることでもある。
戦争というものを知らない友也や優翔にすら、その悲痛な思いはひしひしと伝わっていた。
夜風に乗って、里山から梟の鳴き声が聞こえてくる。
その物悲しい声が、人知れず和正の死を悼んでいるようだった。




