第三章 河岸の隣組・・・①
中庭に出ると煤臭さが馬淵の鼻を突いた。
焼け焦げた母屋の前に、勇元がもの悲し気に佇んでいる。
視線の向こうには、普段見えないはずの田んぼが横たわり、何事もなかったかのように青い穂を風になびかせていた。
その光景が、ことさら無慈悲な現実を突きつけているようだ。
馬淵は、ためらいがちに勇元の背中に声を掛けた。
「あんまり、気を落とさんでな」
「……」
「じゃあ俺は駐在に戻るが、友也君のことを組長に伝えておいてくれ。まあ特高に睨まれるような人物じゃないだろう」
「ああ、ご苦労様です。伝えときます」
「あと、今回の墜落のことは、くれぐれも口外しないように——とね」
ちらりと一瞥すると、馬淵は脇の小道を自転車で駆け下りて行く。
勇元は軽く頭を下げて、その後ろ姿を見送った。
「箝口令か」
ため息交じりにつぶやくと、母屋に目を戻す。
焼け焦げた残骸は、何度見ても胸に刺さった。
ふっと力なく肩を落とした。
その時、「勇元さーん!」と、凛とした女性の声が聞こえてきた。
馬淵と入れ替わりに小道を登って来たのは、菊枝の娘の涼花だった。
その傍らに、控えめに歩いているのは妹の杏美である。
「これ母が持って行けって」
二人は離れの縁側におひつと皿、そしてお茶の入ったやかんを置いた。
「はい、朝ご飯。母屋が燃えちゃったから困ってるだろうって」
涼花の澄んだ声が、煤けた空気を吹き払う。
何とも心地の良い響きだった。
「ありがとう、助かるよ。今、お勝手を借りようかと思ってたところだ」
「そうだと思いました」
屈託のない笑みを浮かべると、涼花は座敷に視線を移した。
そこには包帯を巻いた見知らぬ男、友也が座っている。
目が合うと、涼花は満面の笑みで会釈をした。
友也の身体に電撃が走った。
慌てて跳ね起きる。
弾みでチャトが放り出された。
——わあ、びっくりした。友也、何すんねん!
——あ、ごめん。
背中の傷が痛んだが、そんなことはどうでもいいぐらい友也は動転していた。
それほど涼花は魅力的だった。
清楚な中にも華がある。
長い黒髪、凛とした佇まい、それはまさしく〈大和撫子〉と言える。
何より、その澄み切った瞳が素晴らしい。
「ああ、こちらは菊枝さんの娘さんで」
「長女の遠藤涼花です。こっちは妹の杏美です」
はにかみながら、杏美が軽く頭を下げた。
「涼花さんに、杏美さん……あ、せ、関口、友也です」
思わず声が裏返ってしまった。
「友也さん——はい、母から窺っています。あの、お怪我はいかがですか?」
「あ、ぜんぜん、こんなの、大したことないんで、ははは」
チャトの視線が突き刺さる。
——なんや、さっきは超痛いって言ゆうてたくせに。
——う、うるさいな。
——相手がべっぴんさんやと、これやもんな~。
——だからうるさいって!
チャトは悪びれるでもなく、ミャーと悪戯っぽく鳴くと、尻尾をピンと立てて涼花に近寄っていく。
「わあ、かっわいい!」
最初に反応したのは妹の方だった。
「ほんと、可愛いわね! 友也さんの猫ちゃんですか?」
二人は縁側に腰を掛け、代わるがわる頭を撫でる。
チャトが嬉しそうにその手にじゃれついていた。
「チャトって言います。昨日ここに来る途中、くっついて来た野良猫で」
「あら野良ちゃんなの。でも名付けたってことは、飼うんですよね?」
「あ、はい」
「和正と名前を付けたらしい。友也は和正の、父方の親戚なんだ」
不意に涼花の顔が曇った。
「あら、そう。和さんと……」
低く掠れた声が、涼花の口から零れ出る。
力なく立ち上がると、ふらふらと母屋の残骸に歩み寄った。
消え入りそうな後ろ姿から、悲哀が色濃く滲み出ている。
中庭は瞬時に気まずい空気に覆われた。
とても言葉を交わすような雰囲気ではない。
勇元は、うかつに和正の名前を出したことを悔いた。
思えば、涼花が膝をついて泣きじゃくっていたのは、まだほんの数時間前なのだ。
途切れた会話に乗じて、どこからともなくキジバトの呆けた鳴き声が聞こえてくる。
勇元が何とかその場を取り繕うとしたが、涼花は遮るように「お食事が終わったら、また取りに来ますね」と、目を伏せたまま足早に去っていった。
「お姉ちゃん……」
思わずあとを追ったが、すぐに諦めて立ち止まる。
「気丈に振舞ってるけど、さっきまで泣いてたの。和兄があんなことになっちゃったから。ごめんなさい、また来ます」
「あ、いいよ。終わったら俺が持って行くから」
杏美は軽く頭を下げると、姉のあとを追って小道を下って行った。
勇元は二人を見送りながら、「こりゃ不味ったな」とため息交じりに頭を掻いた。
和正を失った悲しみは、何も勇元に限ったことではない。
皆それぞれに、大なり小なり抱えているのだ。
「涼花さん……」
人知れずその名をつぶやく友也も、涼花の胸中を思うと胸が痛んだ。
凄惨な現場を目の当たりにした割には、今一つ現実味が湧かなかい友也だった。
だが思えば、人ひとりが非業の死を遂げたのである。
その波紋はそこかしこに、確かに残されているのだ。
そのことを、改めて思い知らされた瞬間だった。
それぞれの想いが渦巻く中、それらを断ち切るように、勇元がぼそっと言った。
「さあ、せっかくの朝飯だ。頂こう」
それは質素な食事だった。
麦飯のおにぎりにかぼちゃの煮つけ、薩摩芋の葉と蔓の佃煮である。
どれも友也にとっては初めてのものだった。
だが、妙に美味かった。
友也は貪るように食べ続けた。
目を細めて見ていた勇元が、「そんなに美味いか」と不思議そうな顔をする。
「はい、むちゃくちゃ美味いです」と、口いっぱいに頬張り、もごもごと答える。
先ほどまでの重苦しい空気が徐々に薄れていった。
腹を満たせば心も満ちるのである。
人とはそういうものだ。
「あ、チャトの食べるものが……」
不意に思い出し、声を上げた。
「なあに猫だ。ネズミに雀、蛙、バッタ、食うもんならたんとある」
——うげっ、マジか——っ⁉
優翔の素っ頓狂な声が友也の脳内に響いた。
込み上げる笑いを堪えながら、お茶を飲む。
「あ、このお茶は?」
「ん、ドクダミ茶だが」
「ドクダミ茶⁉」
「なんだ、向こうじゃ飲まんのか? ここらじゃ、これが普通だ」
「あ、いや、あんまりお茶は飲まなかったんで、ははは」
しどろもどろに誤魔化す。
危ない危ない——危うくボロを出すところであった。
勇元はそんな友也を気にもせず、指についた飯粒をしゃぶると茶を一気に飲み干す。
そして茶碗をことりと置いて、深いため息を吐いた。
「こうやって畑を相手にしてるとついぞ忘れちまうけど、間違いなく戦争の真っ最中なんだなあ」
すかさず優翔が——ほんまやな、ここに来るまでは絵空事のように思てたけど、これは紛れもない現実や——と、まるで勇元と会話をしているようにしみじみと同意した。
気がつくと、いつの間にかチャトの姿が消えている。
——あれ、チャトは?
——ご飯を食べに行ったんちゃう。
——一緒に行かないの?
——無理や! ネズミ食べるとこ見たないしっ!
その吐き捨てた言葉に、思わず吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。




