第二章 〈何らか〉の意志・・・⑤
勇元が養鶏場に着いた頃には陽もすっかりと昇り、集落にはいつもの静けさが戻っていた。
背負った籠を下ろすと、丸まった腰を伸ばし大きく伸びをする。
青く澄んだ夏空が目に飛び込んだ。
涼風が爽やかに通り抜ける。
辺りのきな臭ささえ無ければ、いつもと変わらぬ日常だった。
籠の中には、先ほど集めてきた屑野菜や雑草がいっぱいに詰まっている。
これを鶏たちに食わせなければならない。
いくら悲しいことがあったとはいえ、鶏は生き物だ。
餌を与えなければ死んでしまう。
畑の野菜たちも同様である。悲しんでいる暇など農家にはないのだ。
「ほら、待たせたな。たんと食べろ」
勇元は鶏たちを鶏舎から出すと、運んできた屑を何カ所かにばら撒いていった。
すると先を争って自由に好きなものを貪り始める。
餌をついばむ鶏たちを見て、勇元はこの一年間を思い出していた。
農業などやったこともない。
それを一から教えてくれたのが和正だった。
五十過ぎの男が、若干十九歳の甥っ子に指導される——普通ならプライドが傷つきそうなものだが、勇元は違った。
全てのことが新鮮で、毎日が楽しくて仕方なかったのである。
『勇元さーん、そろそろお昼にしませんか?』
『飯が終わったら、俺は下の田んぼを見るんで、勇元さんは鶏の面倒をお願いしますね』
『どうですか、だいぶ慣れてきたみたいですね?』
『そろそろ鶏たちの名前も覚えましょうか』
あとからあとから屈託のない和正の笑顔が浮かんでくる。
不意に熱いものが込み上げ、勇元の目を潤ませた。
(ああ、もういないんだな。救ってやれなかったか……)
押し寄せる喪失感に、大きくため息を吐く。
ぼーっと宙を見つめていると、雄鶏の雄叫びが一面に響き渡った。
見ればひときわ大きい雄鶏が羽を広げている。
総大将のショーグンである。
『あいつ、こっちが落ち込んでると激飛ばしてくるんですよ』
和正がそう言って笑っていたのを思い出した。
思わず苦笑する。
(俺も檄を飛ばされちまったか……)
ともすれば萎えそうになる気持を振り払い、真っ青な空を見上げた。
白い入道雲が、覆い被さるように浮かんでいる。
その圧倒的な存在に、全ては些事だと笑い飛ばされているような気がした。
勇元は両手で頬を叩き気合を入れると、空の籠を担いで離れへと戻っていった。
土間に入ると、待ちかまえたように馬淵が話し始めた。
「勇元さん、今話を聞いてたとこなんだけどね、この友也君は和正の父方の親戚らしい。昨夜、弘明寺から訪ねてきたそうだ」
「ほう、正治さんの血筋か。だから関口なのか。で、なんでまたここに?」
「大きな声じゃ言えんがね、やはり昨年の空襲でやられたらしい。ご両親を亡くしてな、本人も足を負傷したそうだ」
背負っていた籠を放り投げるように下ろすと、驚いた顔を馬淵に向けた。
「東京の荒川以外にも、空襲はあったんですか?」
「これもここだけの話だが、爆撃機は全部で十六機だ。国の方々に被害があったらしい」
「なんと、それでここに……親御さんも亡くなったとは」
勇元は、友也に気遣うように座敷の淵に腰掛けると、背中越しに問いかけた。
「しかし、来た途端この騒ぎじゃ、気の毒だったな。やはり食うに困ってか?」
馬淵の頬がぴくっと動いた。
チャトがすかさず膝に乗り、友也を見上げる。
——ゆっくりでええで。焦らんとな。
チャトの頭を撫でると、友也は一呼吸おいて、伏し目がちに答えた。
「……はい、仕事なんてありませんから」
「そりゃそうだ。で、畑を手伝いにか。農作業の経験は?」
「弘明寺でちょっとだけ農家を手伝ってましたけど、そこも生活が厳しくて」
ぼそっと答えたその横顔は、今にも消え入りそうな面持ちだった。
——ええで、その調子や!
「まあ、どこも同じだろうさ」
勇元はふっと笑うと、ため息交じりにぼやいた。
そう、どこも同じなのである。
戦争が長引き、深刻な食糧不足に陥った。
国は〈食料供出〉とのたまい、農家から作物を安価で買いたたく——強制的にである。
とても赤の他人を養う余裕などないのだ。
「で、ここで厄介になろうと思って?」
「はい、でも大変なことになっちゃって……」
チャトが合いの手を入れるようにミャーと鳴いた。
その声に気付いて振り返る。
友也の膝に座る、茶トラの子猫が目に入った。
「ん、その猫は?」
「来る途中に出会って、ここまでついて来ちゃいました。昨夜二人で、チャトって名付けたんです」
「……チャトか」
安心したように丸まる子猫を見て、勇元の表情が和らいでいく。
その無垢な姿が、打ち沈んだ心をじわじわと和ませていった。
勇元は、改めて友也の横顔をじっと見据え、知らず知らずのうちに、和正の面影を重ねている自分に気が付いた。
友也にしても和正にしても、若くして両親を亡くしてしまった。
偶然とはいえ同じ境遇の若者を思うと、不憫でならなかったのだ。
「よしっ」と膝を叩くと、やおら勇元は立ち上がった。
「それじゃあ徐々に仕事を覚えて貰おうか。ここでの農作業はきついぞ」
「大丈夫です」
「そうか、頼もしいな。だがその前に、まず腹ごしらえだな」
ことさら明るく声を上げ、母屋へと向かう——が、不意に舌打ちをして立ち止まった。
「そうだった。朝飯を作ろうにもお勝手は燃えちまったんだ。こりゃ、参ったな……」
そう、台所は昨夜、母屋とともに燃えてしまったのである。
「しばらくの間、菊枝さんとこのお勝手を貸してもらうしかないか」と、ぶつぶつと独り言ちながら中庭に出ていった。
その後ろ姿に視線を送りつつ、馬淵が声をひそめる。
「先ずは出だし良好ですね。友也君の弁もなかなかのものだ」
『ほんまや、大したもんやで』
友也は浮かない顔で目を伏せた。
二人に褒められはしたが、朴訥な勇元を騙したと思うと、心の咎めがチクリと刺さるのだ。
そんな友也を気にするでもなく、馬淵は顔じゅうでにんまりと笑うと、中庭へと勇元を追いかけた。
チャトはというと、膝の上から顔を向け、『なあ友也、今こんなこと言うたら不謹慎なんやけど、なんかおもろなってきたなぁ!』と悪戯っぽく、声を出さずに鳴いた。
こうして、望む、望まないに関わらず、友也の奇想天外な物語が始まったのである。




