第一章8 お会計といきましょうか
カチャリ、と静かにドアノブが回りきり、マホガニー製の重厚な扉がゆっくりと内側へ向かって開かれた。
長官室の床に敷き詰められた最高級の絨毯を踏みしめ、俺はアリアを左腕に抱いたまま、一歩、部屋の奥へと足を踏み入れる。
部屋の最奥、巨大な執務机に腰掛けた男が、鋭い眼光をこちらへ向けた。
豊かな白髪をオールバックに流し、隙のない軍服のような衣装を纏った初老の男。
彼こそが、この街の冒険者と衛兵の頂点――ギルド長官の、オズワルドだ。
「――何者だ。特務部隊の待機室を破り、ここまで上がってきた不届き者は。」
長官の放つ、肌を刺すような尋常ならざる魔力の威圧感。
並の冒険者なら、そのオーラだけで膝を屈して失神しかねない、本物の強者の風格だった。
だが、長官が次の言葉を紡ぐより早く、俺は右手の薬指から外した『魔力遮断の指輪』をレジ袋へと完全に仕舞い込んだ。
──ゴォォォォォンッッッ!!!
その瞬間、長官室の空気そのものが、悲鳴を上げるように激しく歪んだ。
指輪という安全弁を失い、完全解放された俺のオール『941』の理不尽な万能感と、この世界の法則を力任せに書き換えるデタラメな気配が、陽炎のように立ち上る。
「……な、何だこの底知れぬ質量は……!?魔王の降臨か、あるいは……。」
さっきまで威厳たっぷりに構えていた長官の顔が、一瞬で土気色に変わり、その額から大粒の冷や汗が流れた。
そんな緊迫した空気の中、俺は長官に向けて満面の営業スマイルを浮かべ、左手のレジ袋を軽く掲げてみせた。
「どうも、はじめまして、長官。アリアを泣かせた代償、ホン・キホーテの会計より高くつくってことを言いに来ました。」
「ちょっとカナタァァァッ!?何でそんなにかっこいい雰囲気から急に商店街のお買い物みたいなセリフになるの!?」
腕の中のアリアが、今日何度目か分からない悲鳴のようなツッコミを俺の耳元で炸裂させた。
尖ったエルフの耳を真っ赤に染めながら、俺の首にしがみつく彼女の私服姿は、この緊迫した長官室において、あまりにも完璧なデートの絵面だった。
「ア、アリア……お前、ギルドを裏切ったばかりか、そんな正体不明の歩く天災のような男を連れて、私に反旗を翻すというのか……!」
長官は机を叩いて立ち上がったが、その脚は俺の放つ威圧感でガタガタと震えている。
「違います、長官!私はギルドを裏切ったんじゃなくて、カナタがギルドに監禁されそうだったから、ちょっと規則を無視してしまっただけで……!」
アリアは涙目で必死に弁解しようとしたが、長官の視線はアリアの捲り上げられたブラウスの袖、そこに巻かれた『不滅草の湿布』へと向けられた。
「……その腕の傷。我が衛兵の槍によるものだな。アリア、お前を傷つけたことは、ギルド長官として、そしてお前を育てた身として、不本意だった。だが、街の理を乱す怪物を野放しにはできんのだ!」
「長官……。」
アリアの水色の瞳が少し切なげに揺れる。
どうやらこの長官、決して敵などではなく、アリアにとっては恩人のような側面もあるらしい。
じり、と長官が腰の、まばゆい黄金の光を放つ伝説級の聖剣に手をかけた。
「カナタ、危ないわ!長官の光速破斬は、どんな頑丈な盾でも一瞬で両断される伝説の魔法剣よ!」
「大丈夫だ、アリア。俺の防御力も941あるからな。それに、俺の手元には最強の防御である『神の遺物』がある。」
俺はそう言って、さっきから左手に下げていた、あの黄色いホンペンが描かれたホン・キホーテのレジ袋を、盾のように長官の前に突き出した。
「……ふん、ただの白い袋を盾にするか。私を愚弄するのも大概にせよ!」
長官が激昂し、黄金の聖剣を上段へと構える。
まばゆい光の粒子が部屋中に渦巻き、最高級の絨毯がその魔力の余波だけで焦げ付いていく。
それは、この街の頂点に立つ者が放つ、文字通り国家級の破壊の兆候だった。
「アリア、これが貴様を惑わす怪物の最期だ!」
一閃。
視界が真っ白に染まるほどの圧倒的な光の刃が、俺とお姫様抱っこされたアリア目指して容赦なく振り下ろされた。
「長官、ダメええええええええええええッッッ!!!!」
その瞬間、俺の腕の中でアリアが割れるような叫び声を上げた。
それは、自分たちが斬られる恐怖からではない。
アリアは知っていた。
指輪を外した俺の『攻撃力:941』がどれほど強力で理不尽か。
そして『幸運:941』という世界のバグが発動した瞬間、目の前の恩人がどうなってしまうかを誰よりも理解しているからこその、敵である長官の身を本気で案じた悲痛な制止の声だった。
どれほど冷酷な組織に見えようと、ギルドはアリアを育ててくれた家であり、オズワルド長官は不器用ながらも彼女を導いてくれた親代わりの存在なのだ。
彼に傷ついてほしくない――その一心だけで、アリアは涙を流して叫んでいた。
だが、伝説の聖剣の刃は、俺が突き出したホンペンのレジ袋へと無情にも直撃する。
――ズガァァァァァンッッッ!!!!
長官室全体が激しく揺れ動き、レンガの壁に亀裂が走り、本棚から大量の魔導書が崩れ落ちる。
しかし、巻き上がった光の爆煙の向こうで、長官オズワルドは信じられないものを見たように目を血走らせていた。
「な……何だと……!?私の聖剣が、たかが薄っぺらい袋に防がれた……いや、吸い込まれて……っ!?」
日本の最先端化学技術が生み出した高密度ポリエチレン製のレジ袋。
それが俺のデタラメな魔力941と激しく共鳴し、聖剣が放った膨大な光のエネルギーを、まるで底なしのブラックホールのようにレジ袋の内部へとことごとく吸収し、怪しく発光しながらパンパンに膨れ上がらせていた。
「小癪な真似を!異界の道具ごときが、私の光を吸い尽くせると思うな!!」
オズワルド長官はベテランの意地を見せ、さらに聖剣へと魔力を注ぎ込む。
黄金の輝きがさらに膨れ上がり、レジ袋の表面でバチバチと激しい火花を散らす。
「ちょ、ちょっとカナタ!袋が!あの黄色い鳥の顔が限界まで膨らんで破裂しそうよ!?」
「大丈夫だアリア、俺の世界のレジ袋の伸縮性を舐めるなよ!……って、うお、流石にちょっと熱いな!?」
俺の『幸運:941』の防衛システムが、ここで第二段階の連鎖事故を起動した。
あまりの熱量に耐えかねたレジ袋の表面から、微量な静電気が発生。
それが長官室の天井に設置されていた「全自動・最高級魔導スプリンクラー」のセンサーにピンポイントで誤作動を起こさせたのだ。
――プシューーーーッッッ!!!
天井から、聖水を含んだ冷水が凄まじい勢いで土砂降りのように降り注ぐ。
「なにっ!?スプリンクラーだと!?なぜこのタイミングで……!」
「長官、それ以上踏み込まないで!床が危ないわ!!」
アリアが涙目で叫ぶが、長官の耳には届かない。
降り注いだ冷水が、長官の放つ熱すぎる光の剣圧と激突し、長官室は一瞬にしてホワイトアウトするほどの超高温の濃霧で満たされた。
視界は完全にゼロ。
「視界を奪うか……だが、私には心眼がある!逃がさんぞ、怪物!」
長官は重装甲の足音を響かせ、霧を切り裂きながら、さらに聖剣を引き抜いて神速の連続突きを繰り出してきた。
目にも留まらぬ速度で放たれる、数十発の光の刺突。
「アリア、しっかり掴まってろ!」
「ひゃぅっ!?」
俺は『素早さ:941』をフル解放し、お姫様抱っこのアリアを一切揺らすことなく、スローモーションの世界の中でその猛攻を紙一重でかわし続ける。
俺がステップを踏むたび、かわした長官の剣撃が背後の高級家具を次々と塵に変えていく。
──ドガァン!バキィッ!
一発の突きが、部屋の隅にあった「巨大柱時計」を直撃して粉砕。
さらに跳ね返った剣圧が、大理石の長官の彫像を真っ二つにスライスする。
しかし、俺の『幸運:941』の因果の捻じ曲げ方は、まだ終わっていなかった。
粉砕された時計の超巨大な真鍮製の歯車が、床に降り注いだスプリンクラーの水と、長官がさっきまで飲んでいたと思われる高級茶の油分の上を、まるでホッケーのパックのように超高速で滑り出したのだ。
──キィィィィィンッッッ!!!
「何っ……!?床が……滑る……!?」
連続突きを放っていた長官の足元を、滑ってきた巨大な歯車が正確にすくい上げる。
いくら宮廷騎士団を率いる伝説の戦士といえど、ローション並みにヌルヌルになった最高級絨毯の上で、超高速の歯車を踏まされては体勢を崩さざるを得ない。
「しまっ――。」
長官の巨体が、大きく後ろへと傾く。
普通の戦闘なら、ここで俺の『攻撃力:941』のカウンターパンチを叩き込めば一撃で終了だ。
だが、俺の手が長官に触れた瞬間、長官の肉体は消滅してしまう。
「カナタ、お願い!長官を殺さないで……っ!絶対に無傷で抑えて!」
「相変わらずアリアは無茶を言うな……。よし、これならどうだ!」
俺は早く戦いを収めるため、左手に掲げたホンペンのレジ袋をさらに長官の前へと突き出した。
体勢を崩しながらも、長官は流石の執念で踏みとどまり、聖剣を横一線に振り抜こうと、今度は魔法だけでなく純粋な戦士としての肉体強度だけで、力任せに俺へと突進してきた。
床のヌルヌルを力技で踏み締め、すさまじい風圧と共に、ひしゃげた胸当てを響かせて迫る初老の英雄。
「うおおおおおッッッ!!」
その必死な、だけどどこか誇り高い長官の姿を見て、アリアは俺の胸元に顔を埋めながら、小さな声で切なげに呟いた。
「長官……もうやめて……。カナタは、格が違うなんてレベルじゃないから……っ。」
アリアは、自分を育ててくれた長官のプライドが、カナタの理不尽なバグによってこれ以上ズタズタに引き裂かれるのを、見ていられなかったのだ。
だが、長官の決死の突撃に対し、俺が左手に掲げていたホンペンのレジ袋が、吸い込んだ光の魔力でついに臨界点を迎えていた。
袋の表面に描かれたホンペンが、まるで神獣のごとく神々しく、どこか怪しくピカピカと明滅し始める。
「おいアリア、これ、マジでそろそろ限界っぽいんだけど……!」
「嘘でしょ!?爆発するの!?」
「いや、ゴムパッチンみたいに……びよーんと伸びて……。」
限界まで膨らみきったレジ袋のポリエステル素材が、長官の突進の圧力を受けて、信じられない角度へとぐにゃりと変形し、長官の聖剣を完全に巻き込んでホールドした。
次の瞬間、世界の因果を司る『幸運:941』が、今日最大のエラー音を室内に響かせる。
――キィィィィィンッッッ!!!
レジ袋の内部に閉じ込められた光速破斬のエネルギーと、長官の突進の質量が、袋の驚異的な弾性によって、完璧な放物線を描いて長官自身へと跳ね返るベクトルを計算し尽くした。
「ぬ……っ!?聖剣が、引き抜け……吸い込まれる……っ!?何だこの不気味な鳥の紋章は……!」
「長官、危ないっ!!!目を瞑って!!!」
アリアの悲鳴のような絶叫が響き渡る。
パンパンに膨らんだレジ袋が、限界を超えてパチンッッッ!!!と引き絞られる。
次の瞬間、世界がひっくり返るような大爆発と、レジ袋による理不尽なゴムパッチンの超衝撃が、同時に長官室の中心で炸裂しようとしていた。
鼓膜を直接世界ごと震わせるような、凄まじい衝撃音が爆発した。
レジ袋の内部に閉じ込められていた一閃の膨大な光の指向性と、長官自身の突進による質量。
その二つの破壊エネルギーが、高密度ポリエチレンの極限の弾性によって完全に反転し、寸分の狂いもなくオズワルド長官の顔面へと集中して叩きつけられたのだ。
「ぶ、ふぉっっっ!?!?!?」
長官の口から、人間の限界を超えた、肺の空気をすべて搾り出されたような濁った声が漏れる。
最高級の軍服の硬質なバイザーがガラス細工のように木っ端微塵にへし折れ、彼の巨体が文字通り大砲の弾丸のような速度で真後ろへと吹き飛んだ。
──ドガガガガガガガッッッ!!!
長官の身体は、部屋の象徴でもあったマホガニー製の巨大な執務机を何枚もの薄い板のように巻き込んで粉砕し、そのまま最奥の壁際に置かれていた豪華なソファーへと頭から突っ込んだ。
あまりの勢いにソファーの背もたれがベキベキと音を立ててひしゃげ、長官は頭をクッションの奥深くへ埋めたまま、お尻だけを天井に向けて突き出した、あまりにもシュールな格好のままで完全に硬直した。
室内に、ガシャガシャ、ジャラジャラと、遅れて何かが崩れ落ちる音が虚しく響き渡る。
衝撃波の余波によって、壁に飾られていた歴代のギルドの盾や高価な絵画が次々と床へ落ち、割れた窓ガラスの破片が絨毯の上できらきらと光っていた。
天井のスプリンクラーだけが、何事もなかったかのように冷たい雨を静かに降らせ続けている。
「……ふぅ。よし、お会計完了だな。」
俺は小さく息を吐き、無傷のまま、手元で元の薄さに戻ったホンペンのレジ袋をパタパタと叩いた。
直接、指一本触れていない。
一歩もその場から動いていない。
ただ左手を前に突き出していただけで、ギルド最高権力者の伝説の魔法剣を完全攻略してしまった。
オール『941』の幸運と実戦データは、やはりこの世界の常識を何重にもバグらせているらしい。
「……嘘。嘘でしょ……ギルドの生ける伝説、オズワルド長官が、あの黄色い鳥の袋の一発で撃沈するなんて……。いくら何でも理不尽のスケールが大きすぎるわよ……っ!」
俺の腕の中で、アリアは完全に魂の抜けたような顔でソファーに埋まった長官を見つめていた。
その水色の瞳は驚愕で丸くなり、金魚のように口を小さく開け閉めしている。
だが、彼女は数秒もしないうちにハッと我に返ると、俺の腕から滑り落ちるようにして、大慌てで長官の元へと駆け寄っていった。
床のローションまみれの絨毯に足を取られ、途中で一回転びそうになりながらも、アリアの視線はソファーの長官だけを捉えていた。
「長官!長官、しっかりしてください!息はありますか!?どこか骨は折れていませんか……っ!?」
アリアは涙目になりながら、さっきまで自分たちを地下の牢屋に閉じ込めようとしていた長官の体を必死に揺さぶり、怪我がないかを本気で確認している。
自分を傷つけた衛兵たちのボスであり、ギルドの規則の頂点にいる男。
それでも、自分を育ててくれた恩人である彼に、絶対に無傷でいてほしいと願うアリアのどこまでも純粋で心優しい姿が、薄暗くなった長官室の中で一際眩しく見えた。
「う、ううむ……。ここは、どこだ……。私は一体、何の魔法を喰らったのだ……?」
幸運941の無傷で気絶させるという自動調整のおかげで、長官は鼻の頭を真っ赤に腫らし、目を白黒させながらも、どこも出血することなくむくりと起き上がった。
「よかった……!本当に、どこも大きな怪我はないみたい……!」
長官の無事を確認したアリアは、へなへなとその場に座り込み、本当に心底ホッとしたように美しい水色の瞳から大粒の涙をポロポロと流して胸を撫で下ろした。
そんな彼女の頭を優しく撫でてやりたい衝動を抑えながら、俺はゆっくりと長官の前へと歩み寄った。
ポケットから、あの『黒い手帳』と『フリクションペン』を取り出す。
「長官、お怪我がないようで何よりです……。それじゃあ、改めて『お会計』といきましょうか。」
粉砕されたマホガニーの木片が床に散らばる中、俺は長官の目の前で、フリクションペンのノックをカチリと鳴らした。
静まり返った室内に、そのプラスチックの小さな駆動音だけが妙に大きく響く。
「な、何だその奇妙な魔鉄の筒は……。私にさらなる呪いをかけるつもりか……!?」
オズワルド長官は、ソファーの背もたれに背中を預けたまま、まるで本物の魔王を目の前にしたかのように激しく身を引いた。
宮廷魔導師すら一瞥で平伏させるはずの街の最高権力者が、市販の百数十円の文房具に本気で怯えている。
そのあまりにも滑稽な姿に、アリアすら涙を拭うのを忘れてポカンと俺たちの顔を交互に見つめていた。
「いや、ただのペンですよ、長官。魔鉄でもありません。お互い無駄な血は流したくないでしょう?だから、ごく簡単な取引を提案しに来たんです。」
俺は床に落ちていた、長官のサインが書かれた『旧区画強制捜索の命令書』の羊皮紙をスプリンクラーの水溜まりから拾い上げ、長官の目線の高さへと掲げた。
「条件は三つ。今すぐこの旧区画の強制捜索命令を全面撤回すること。二つ目に、俺を匿ったアリアの規則違反をすべて不問に処すこと。そして最後に――俺たちの前に、二度とギルドの追手を差し向けないこと。これだけです。」
「っ……。断ると言ったらどうする?たとえ私がここで倒れようとも、我がギルドの総力を挙げれば、お前のような正体不明の怪物を――。」
「断るなら。」
俺は長官の言葉を遮り、もう片方の手で『黒い手帳』を開いた。
まだ1文字も書かれていない、真っ白なページを長官の目の前に突きつける。
「この手帳に『ギルド長官オズワルド、激辛スパイスで愛国心がバグった部下たちと、全裸でギルド万歳と叫びながらスープの海に溺れる』って、お前のこれからの人生の歴史を事細かに書き残します。」
「な、何だと……っ!?」
オズワルド長官の顔が、今日一番の屈辱と混乱で青白く引き攣った。
「俺はこの街の人間じゃない。30日で記憶が消える呪いがあるなら、忘れないようにここに全てを記録するだけだ……。俺がこれをどこに隠すか、長官に見つけられますか?もし数日後、記憶を喪失した俺がこのノートを拾って、そこに長官のスープ全裸劇が書かれていたら、俺はそれを街の広場で大声で言い触らすかもしれない。さあ、どうします?」
俺は営業スマイルを崩さないまま、フリクションペンの先を手帳の白紙ページへと近づけた。
いつでも書き始められるぞ、という無言のプレッシャーだ。
だが、俺の目の前で、長官の目線は俺の手元――フリクションペンの後ろについている「半透明のラバー」へと完全に釘付けになっていた。
長官の額から、大粒の冷や汗がポタポタと絨毯へ滴り落ちる。
──……待てよ。何で長官、こんなにガタガタ震えてるんだ?
俺は内心で首を傾げていた。
俺としては、単に弱みを握って脅しているだけのつもりだった。
この手帳はホン・キホーテの文房具売り場で5冊束になって売られていた、ただの記憶喪失対策のメモ帳だ。
これに何を書いたところで、現実に影響を与える力なんてこれっぽっちもない。
しかし、オズワルド長官の脳内は、すでに俺の想像を遥かに超えるレベルでパニックを起こしていた。
情報収集のプロであるギルド長官の元には、ルネの店からの極秘報告がとっくに届いている。
あの店で、フリクションペンで擦られた羊皮紙の文字が『跡形もなく消滅した』という、この世界の魔法体系では説明のつかない異常現象。
ルネさんがそれを『世界に刻まれた記録を無に還す神聖魔法の術式』と結論づけていた、あの報告書だ。
長官の視点からすれば、目の前の男が持っているのは、ただのメモ帳ではない。
突然始まったポテチ一袋を賭けたオークションで白金貨1枚の値がつき、エナジードリンク一本でアリアが国家級の魔物を一刀両断したという、現代日本のアイテムが引き起こしてきた数々の前科。
それが長官の老練な知性を完全に狂わせていた。
──まさか……この男が持っているあの白い冊子は、あの『神聖の魔筆』で書き込まれた内容を“世界の因果”として固定し、歴史そのものを上書きする未知の神の遺物なのか……?
それは、長官が恐怖のあまりたどり着いてしまった、完全なる誤解だった。
カナタが「手帳に書き残す」と言った言葉を、長官は「手帳に書いた不条理な内容が、世界のシステムによって強制的に現実の歴史へと書き換えられる」という意味だと本気で勘違いしてしまったのだ。
隣にいるアリアにいたっては、長官が何を勘違いして怯えているのかを察したのか、まるでカレーローションのときのやらかしを思い出したように、顔を真っ赤にしながら必死に笑いを堪えてぷるぷると肩を震わせている。
「そんな……そんなふざけたことが許されるはずが……!歴史を、個人の意志で書き換えるなど、それは神への冒涜だぞ……!」
案の定、オズワルド長官は一人で勝手に底なしの罠にハマっていた。
彼は誇り高き騎士であり、この街の秩序を守ってきた英雄だ。
命を落とす覚悟はあっても、己の尊厳がこれ以上ないほど全裸でスープに汚される未来――しかもそれが「世界のシステムによって強制的に確定される」という絶望だけは、どうしても受け入れるわけにはいかなかった。
「選んでください、長官。旧区画の罪なき人々を守るために捜索を諦めるか、それとも、部下たちと全裸でスープまみれになるか。俺の指先が動く前に、決めてくださいね。」
俺はわざとらしくペンのノックをもう一度カチリと鳴らし、手帳の白紙にペン先をトントンと当てた。
心臓はバックバクだ。
もしここで長官が「そんな脅しに屈するか!殺せ!」と捨て身の特攻を選んできたら、俺の攻撃力941が暴発して長官の肉体を消滅させてしまう。
アリアを悲しませないためにも、この心理戦、絶対に一歩も退くわけにはいかない。
「ま、待て……!待ってくれ……っ!」
オズワルド長官の口から、悲鳴のようなかすれた声が漏れ出た。
長年の戦場で培ってきたはずの冷徹な判断力は、目の前の青年が持つただの手帳という名の未知の概念を前に、完全に破綻していた。
全裸でスープの海に溺れる因果を世界に刻まれるくらいなら、今ここで首を跳ねられた方がどれほど名誉ある死か。
俺の手元でカチカチと静かに鳴るペンのノック音が、長官にとっては世界の破滅への秒読みに聞こえているに違いない。
「長官……。」
その時、座り込んでいたアリアがそっと長官の破れた袖口を掴んだ。
アリアの水色の瞳からはもう涙は消えていた。
ただ、かつて自分を育て、ギルドの戦士として導いてくれた親代わりの男を真っ直ぐに見つめる、どこまでも真摯で優しい光だけが宿っていた。
「お願いです、長官。カナタの言う通りにしてください。旧区画の人たちは、誰もギルドに刃向かおうなんて思っていません。みんな、ただ毎日を必死に生きているだけの、普通の人たちなんです……。私を育ててくれた時の長官なら、彼らの不器用な優しさを、本当は分かってくれているはずです。」
「アリア、お前……。」
「私はギルドの規則を破りました。でも、後悔はしていません。カナタは怪物なんかじゃない。私を救ってくれて、そして今、誰も傷つけずにこの話し合いの席を作ってくれた、ただの優しい迷い人なんです。だから……これ以上、誰も傷つけないで。」
アリアの、胸の奥底から絞り出すような切実な願い。
それは長官室の冷たいスプリンクラーの雨を溶かすほどに、どこまでも暖かく、そして重かった。
オズワルド長官は、アリアの腕に巻かれた『不滅草の湿布』を見つめ、それから俺の持つ手帳へと視線を戻した。
彼の大きな拳が、水浸しの絨毯を掴んだままギリギリと音を立てて震えている。
「……わかった。私の負けだ。」
長い沈黙の後、長官は深く、深くため息をつき、椅子の背もたれに力なく身体を預けた。
その顔には、街の最高権力者としての威厳ではなく、一人の疲れた父親のような、どこか安堵したような表情が浮かんでいた。
「旧区画の強制捜索命令は、即刻撤回する。アリア、お前の規則違反も不問だ。衛兵の槍で負傷したのだ、治療のための特別休暇扱いとしよう……。そして、カナタと言ったか。お前に対するギルドの追跡も、すべて白紙に戻す。だから……その因果を弄ぶ魔筆を、今すぐ仕舞ってくれ。」
「毎度あり。お会計、確かにいただきました。」
俺は満足してフリクションペンをポケットへと仕舞い、手帳を閉じた。
心臓のバクバクがようやく収まっていくのを感じながら、俺はアリアに向かってニッと笑いかけた。
アリアは呆れたように、だけど本当に心底ホッとしたように、美しい瞳を細めて小さく微笑み返してくれた。
一歩も動かず、直接傷つけることもなく、旧区画の優しい人々と、アリアの居場所を守り抜いた。
「感謝する、カナタ。……アリアを、頼んだぞ。」
背後から聞こえた長官の小さく、重みのある言葉に、俺は振り返らずにひらひらと手を振って応えた。
壊滅した長官室をあとにし、俺たちは夕闇が包み込む街の路地裏へと戻ってきた。
街に鳴り響いていた緊急事態の鐘の音はすっかり止み、いつもの穏やかで少し賑やかな夜の静けさが戻っている。
「ありがとう、カナタ。私のために、長官を傷つけずに、みんなを守ってくれて……本当に、ありがとう。」
アリアは宿の裏口の前で足を止め、俺の黒い上着の袖をきゅっと掴みながら、消え入りそうな声で呟いた。
空色の髪に挿した青い髪飾りが、月光を反射してきらりと優しく光る。
「気にするなよ、約束しただろ。アリアのことは、俺が絶対に守るって。」
「……うん。約束、守ってくれたね。」
アリアは嬉しそうに微笑むと、少し名残惜しそうに袖から手を離し、「また明日ね!」と夜の街へとパタパタと帰っていった。
彼女の背中が闇に溶けて見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
宿の静まり返った部屋に戻り、ベッドにどさりと横たわる。
心地よい疲労感の中で、俺はポケットからあの『黒い手帳』を再び抜き取った。
街は救われた。
アリアも無事だ。
完璧なハッピーエンド。
だけど、俺の胸の奥には、冷たいタイムリミットのカウントダウンが確かに刻まれていた。
記憶寿命30日。
今日で、この世界に来て16日が経った。
ついに半分を超えた。
あと14日もすれば、俺の頭からは、今日の激しい戦いも、アリアの流した涙も、彼女の柔らかな手のひらの感触も、すべてが綺麗に消え去って、真っ白な『はじめまして』に戻ってしまう。
「……消させないさ、絶対に。」
俺はフリクションペンを強く握りしめ、真っ白なページの1行目に、力強く決意のインクを滑らせ始めた。
『4月17日。今日、アリアを泣かせたギルド長官のオズワルドを、レジ袋のバグで完全攻略した。アリアは敵である長官の身すら案じる、どこまでも心優しい最高に可愛い女の子だ。彼女の腕の怪我を、俺の手で握って励ました。あの少しひんやりとした手の温もりを、絶対に忘れるな。14日後の俺へ。もしお前がすべての記憶を失い、世界のすべてがお前を忘却の底へ突き落とそうとしても――この手帳の記録だけは信じろ。アリアを、絶対に一人にするな。お前が彼女のヒーローになるんだ。』
さらさらとインクが走る音だけが、静かな室内に響く。
迫り来る忘却の呪いに抗うため、俺は未来の自分へ宛てた最初の、そこで一番大切なバトンを、白い紙の上に固く、深く、刻み込み続けた。
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