第一章9 白紙へ向かうカウントダウン
気づけば、この世界に来てから29日目の朝を迎えていた。
俺は宿のベッドの上で、重い身体を起こしながら、無意識にスマホを開いて今の日時を確認する。
──今の時間は……?4月29日、08時01分。
液晶画面に表示された無機質なデジタル数字を見つめながら、俺は心臓がドクンと嫌な音を立てるのを聞いた。
冷たい汗が、ジワリと背中を伝っていく。
そう、今日は4月29日──。
ついに明日は、俺がこの世界で紡いできた記憶を、すべて失ってしまう忘却の日だ。
「あと、たったの16時間か……。」
部屋の片隅にある木製の机の上には、この1ヶ月で書き古した『黒い手帳』が1冊と、まだ何も書いていない手帳4冊が、端を揃えて綺麗に並べられている。
ホン・キホーテの自動ドアをくぐったあの日から始まり、アリアとの出会い、ポテチのオークション、エナジードリンクでの魔物一刀両断、そしてギルド長官室でのカレーローションピタゴラスイッチ無双。
そのすべてを一文字も漏らさずに書き残した、俺の異世界攻略の記録であり、俺がここにいたという唯一の証だ。
どんな理不尽な攻撃も『防御力:941』で弾いてきた。
ギルドの精鋭部隊も、長官の伝説の聖剣だって、ホン・キホーテのポリ袋とお会計のバグパワーでことごとく崩してやった。
なのに、神様が作ったこの『30日の記憶寿命』という世界のシステムだけは、俺のどれだけデタラメな最強ステータスをもってしても、物理的に殴って破壊することができない。
「……クソが。」
小さく毒づいたその時、コンコン、と宿の裏口のドアが、いつになく優しく叩かれた。
「カナタ、おはよう。入るわよ?」
カチャリと鍵が開く音がして姿を現したのは、透き通るような空色の髪を揺らしたアリアだった。
今日の彼女は、初めて二人で街案内をした時と同じ、私服の淡い水色のブラウス姿だった。
その結び目には、俺が幸運バグの連鎖で手に入れてプレゼントした、あの青い鉱石の髪飾りが、朝の光を浴びて大切そうにきらりと輝いている。
アリアは俺の顔を見るなり、少しだけ眉を下げて、無理に作ったような引き攣った笑顔を浮かべた。
「おはよう、カナタ……。なんだか、いつもより怖い顔をしてるのね。やっぱり、緊張してる?」
「あはは、まあな。明日になったら、俺は君の名前も、この部屋のことも綺麗さっぱり忘れて、また最初の森の真ん中で『ここはどこだあぁ!』って言ってるわけだしな。」
おどけた調子で言ってみせたが、その言葉を聞いた瞬間、アリアの水色の瞳が痛切に、今にも張り裂けそうに揺れた。
彼女は静かに俺の正面まで歩み寄ると、小さな両手で、俺の黒い上着の袖をきゅっと掴んだ。
指先が白くなるほど、強い力が込められているのが伝わってくる。
「……忘れても、いいよ。」
「え?」
「カナタが私のことを忘れちゃっても、この1ヶ月の思い出が全部カナタの頭から消えちゃっても……いいの。だって、周りのみんなの記憶は残るんだもの。カナタが『はじめまして』って言うなら、私が何回だって、その度に『はじめまして、私はアリア!』って、世界で一番可愛い笑顔で、カナタの前に会いに行ってあげるから!」
アリアは水色の瞳に大粒の涙をいっぱいに溜めながら、それでも泣くのを必死に堪えるように、フンスと小さな鼻を鳴らして笑ってみせた。
ギルドの規則を破ってまで俺を匿い、腕に怪我を負ってまで俺を守ろうとしてくれた、どこまでも純粋で心優しいエルフの女の子。
そんな彼女の健気な言葉が、胸の奥に痛いくらいに突き刺さり、同時に、言葉にできないほどの愛おしさが爆発する。
俺はポケットの中で、相棒である『フリクションペン』を強く握りしめ、アリアの目の前でカチリとノックした。
「……アリア。神様のシステムがどれだけ無慈悲でも、俺はただ大人しく忘れるつもりはないよ。」
「カナタ……?」「このペンはね、後ろの半透明のラバーで擦ると、摩擦熱でインクの文字を綺麗に消せるんだ。ルネさんの店で『世界に刻まれた記録を無に還す神神の術式』なんて勘違いされたやつさ。もし明日目覚めた2周目の俺が、記憶を失ってパニックになって、手帳に書かれた異常な現実を信じられなくて、このペンで文字を消そうとしたとしても──。」
俺はアリアの小さな手を、上からそっと包み込んだ。
「俺は手帳の最初のページに、絶対に消せない『覚悟』を書き残しておく。記憶は消せるかもしれない。けど、過去の俺が残したこの想いのバトンだけは、どんな世界の呪いでも絶対に消させやしない。ノートの力で、この世界の歴史を変えてやるさ。」
俺が真っ直ぐに見つめて言い放つと、アリアは驚いたように目を見開き、それからポロポロと涙をこぼしながら、本当に嬉そうにクスリと笑った。
「本当に、最後まで緊張感のない、規格外の迷い人ね……。でも、カナタなら本当にその手帳で世界を変えちゃいそうね。」
「任せとけって。なんてったって俺の幸運値は941だからな。明日、絶対に『はじめまして』から、君をもう一度驚かせてやるよ。よし……暗い顔して部屋にこもってても時間がもったいない。アリア、今日も街に出かけようぜ。残りの16時間、トコトン使い切ってやる。」
「ふふ、そうね!明日になったら私の『はじめまして』の挨拶の練習で忙しくなるんだから、今のうちにカナタとの時間を1秒だって無駄にしたくないもの!」
アリアは涙を指先で拭うと、いつもの快活な笑顔を取り戻して俺の手を引っ張った。
宿を出ると、四月末の爽やかな風が街の大通りを吹き抜けていた。
オズワルド長官との和解のおかげで、街の至る所にいた漆黒の鉄甲冑の衛兵たちはすっかり姿を消し、中央大通りは平和な活気に満ち溢れている。
「ねえカナタ、まずはあっちの露店に行きましょう!この前ジークさんのところで食べたポム・ベイクの、出来立てのジャムが乗ったやつが売ってるの!」
「お、美味そうだな。よし、俺が奢るよ。」
俺たちが露店に近づくと、相変わらず俺のもう一つのバグステータスである『幸運:941』が、指輪の上からでも容赦なくその理不尽な牙を剥き始めた。
「いらっしゃい!……ってあの時のお兄さんじゃないか!あんた、ちょうど店を開けてから9410人目の冷やかし──じゃなくてお客様だよ!縁起が良いから、この特大ポム・タルト、丸ごと一箱タダで持ってってくれ!」
「え?あ、またですか……。ありがとうございます。」
タダで手に入ったずっしりと重い木箱を抱えながら、俺は苦笑いする。
隣を見れば、アリアが限界までジト目を深めて俺を見上げていた。
「……ねえカナタ。神様の祝福って本当に手加減を知らないのね……。街の商売上がったりじゃない。でも、美味しそうだから今回は幸運値に感謝していただくことにするわ。」
アリアは嬉しそうにタルトの箱を覗き込み、空色の髪の結び目で青い髪飾りが揺れる。
いつもなら「ラッキー!」と大喜びする空間のはずなのに、今日の俺の胸の奥には、どこか冷たい寂しさが居座っていた。
──こんなに世界は俺に都合よく回ってくれるのに、たった1日の記憶すら、神様は守ってくれないのかよ……。
そんな俺のわずかな沈黙を察したのか、大通りの人混みの中で、アリアがそっと俺の手首を掴んできた。
「カナタ、次はあっちの広場に行きましょう!今日は吟遊詩人が来てるみたいよ!」
「ああ、行こう。」
掴まれたアリアの手のひらは、少しひんやりとしていて、だけど驚くほど柔らかく、俺の体温を吸い取るようにじわりと熱を帯びていく。
噴水のある中央広場では、大勢の住人たちが輪を作り、一人の吟遊詩人が爪弾くリュートの音色に耳を傾けていた。
歌われているのは、遥か昔にこの世界を救ったという『異界の迷い人』の伝説のバラードだ。
『30日の夜が満ちる時、英雄は白紙の空へと旅立つ。残された乙女の涙は星となり、何度でも彼を呼び戻すだろう。』
切なくも美しい歌声が広場に響き渡る中、アリアはジッとその詩人を見つめていた。
その横顔は、夕暮れの手前の柔らかな光に照らされて、息を呑むほど綺麗だった。
ふいに、アリアが俺の手をギュッと強く握りしめた。
「……カナタ。もし、本当におとぎ話の通りならね。」
歌声に紛れるような小さな声で、アリアが呟く。
「迷い人が記憶を失うのは、この世界の神様が、その人が強すぎて世界のバランスを壊さないようにするための『安全弁』なんだって。でもね、私はそんなの納得いかない。カナタは世界を壊す怪物なんかじゃないもの。私を助けてくれた、普通の優しい男の子なんだから。」
アリアは振り返り、その潤んだ水色の瞳で、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「だから、神様がカナタの頭を白紙に戻すなら、私は何度だって、その白紙の最初のページに『はじめまして』って書き込んであげる。カナタが残す手帳と、私の記憶があれば、私たちは絶対にまた『はじめまして』から始められるわ。」
「アリア……。」
彼女の言葉は、これから訪れる忘却の恐怖をすべて吹き飛ばしてくれるほど、温かく、そして力強かった。
広場を包み込むバラードの余韻が、夕暮れの空へと溶けていく。
俺はアリアに握られた手のひらに力を込め、その温もりを指先の一つ一つにまで刻み込もうとしていた。
「……ありがとう、アリア。君にそう言ってもらえるだけで、俺は明日、何が起きても怖くないよ。」
「もう、他人事みたいに言わないでよ。明日怖がるのは、記憶をなくしてパニックになる2周目のカナタなんだからね?今のカナタは、その頼もしい背中のまま、私の隣にいてくれればいいから。」
アリアは照れ隠しのようにぷいっと顔を背けたが、繋いだ手だけは絶対に離さないというように、さらに強く握り締めてきた。
広場をあとにした俺たちは、あてもなく街の裏通りへと足を向けた。
夕暮れの気配が少しずつ街を琥珀色に染め始め、露店の隙間からは夕食の準備を始める香ばしい匂いが漂ってくる。
今日という限られた時間が、砂時計の砂のように、容赦のない速度でこぼれ落ちていくのが分かった。
「ねえ、カナタ。もし明日、本当に記憶が消えちゃったら、手帳を読んだあとに一番最初に何をする?」
歩調を合わせながら、アリアが覗き込むように聞いてくる。
「そうだな……。まずは手帳の表紙にある『オール941』の数字を見て、自分の目を疑うだろうな。そのあと、手帳に『アリアという超可愛いエルフの女の子を頼んだ』って書いてあるのを見て、そんな都合の良い話があるかってニヤニヤすると思う。」
「ちょっと!最後のやつは何よ!大体、自分で自分の手帳を読んでニヤニヤするなんて、2周目のカナタも相変わらず変な人ね。」
「変な人なんて言うなよ。1周目の俺が本気でそう思って書き残すんだから、2周目の俺も絶対に同じ反応をするはずだ。だって、俺の本体は記憶じゃなくて、このバグステータスと、君を可愛いと思うこのハートだからな。」
「~っ、もう!そういう恥ずかしいセリフを真面目な顔で言うの、本当にやめてよね!」
アリアは耳の尖った先まで真っ赤に染め上げ、掴んでいた俺の手を前後にぶんぶんと振った。
その子供っぽい仕草がたまらなく愛おしくて、俺の胸の奥の寂しさは、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
歩いているうちに、俺たちの足は自然と、旧区画の細い路地裏へと向かっていた。
ギルドの特務部隊に追い詰められ、ジークさんとマルタさんに助けられたあの場所だ。
古い工房の前に差し掛かると、中から鉄を叩く規則正しい音が響いていた。
「ジークさんたち、今日も元気に仕事してるみたいだな。」
「ええ。長官が捜索命令を撤回してくれたおかげで、この区画の人たちもみんな安心して暮らせるようになったわ。全部、カナタがあの袋で長官を止めてくれたおかげね。」
「止めたっていうか、幸運バグの自爆に巻き込ませただけなんだけどな……。」
苦笑いしながら工房の扉を見つめていると、不意に、アリアがその場に立ち止まった。
夕陽が路地の隙間から差し込み、アリアの空色の髪を黄金色に縁取っている。
彼女は俺の黒い上着の裾を再びきゅっと掴むと、小さく息を吸い込んで、真剣な眼差しをこっちに向けた。
「ねえ、カナタ。2度目の『はじめまして』のときのために、2人だけの『秘密の合言葉』を決めない?」
「合言葉?」
「ええ。いくら手帳に私のことが書いてあっても、明日目覚めたカナタは、私のことを少しだけ警戒するかもしれないでしょ?だから、私がその言葉を言ったら、カナタが『あ、こいつは本当に俺を助けてくれたアリアなんだ』って一発で信じられるような、世界で私たち2人しか知らない言葉。」
アリアの提案は、実用的なようでいて、どこかロマンチックだった。
過去の自分から未来の自分へ送る、手帳とは別の暗号。
「良いな、それ。じゃあ……何にする?『お会計といきましょうか』にするか?」
「それじゃあただのカナタの格好良い決めゼリフじゃない!もっとこう、私たちらしい……そうね、あのルネさんの店でのやらかしとか、特務衛兵と戦ったときのこととか……。」
「待て待て、それは2周目の俺に最初の瞬間から黒歴史を植え付けることになるから却下だ!」
二人で路地裏の夕暮れの中、ああでもない、こうでもないと笑い合いながら合言葉を考える。
その時間が、たまらなく愛おしく、同時に切なかった。
最終的に決まったのは、俺たちのすべての始まりであり、この世界の理不尽な強さの根源となった、あの数字だった。
「よし、じゃあ合言葉は『銅貨9枚と、鉄貨41枚』。俺がこれを聞いたら、記憶がなくても『俺のバグステータスの合計値だ!』ってなって、君を百パーセント信じるよ。」
「ふふ、決まりね。『銅貨九枚、鉄貨四十一枚』。2周目のカナタがどんな顔をするか、今から楽しみだわ。」
アリアは満足そうに微笑むと、青い鉱石の髪飾りにそっと触れた。
夕陽はすっかり地平線の向こうへと沈み、街の空は深い群青色へと染まり始めている。
大通りから少し外れたこの路地裏には、冷え込んできた夜の風が静かに吹き抜けていた。
普段なら、そろそろ宿へ戻ろうと声をかける時間だった。
だけど、俺の足は一歩も動かなかった。
アリアもまた、宿のある方向とは反対の、まだ仄かに明かりの残る大通りの方をじっと見つめている。
「ねえ、カナタ。私、まだ……帰りたくないな。」
アリアが俺の顔を見上げ、少しはにかむように言った。
その水色の瞳には、夜の街の光が小さく反射している。
「ああ。俺も同じことを考えてた。あと数時間しかないんだ、部屋でじっとしてるなんて御免だからな。」
「じゃあ……夜の街へ行きましょう!ギルドの監視もないんだし、普段は冒険者が怖くて行かないような、大人の人たちが集まる夜市に行ってみたかったの!」
アリアは俺の手をきゅっと握り直すと、まるでイタズラを思いついた子供のような笑顔で歩き出した。
向かったのは、中央広場からさらに奥に進んだ場所にある『ランタン通り』と呼ばれる区画だった。
昼間はひっそりとしているその通りは、夜になると無数の魔法光のランタンで埋め尽くされ、怪しくも美しい光の海へと姿を変えていた。
露店からは肉を焼く香ばしい煙が立ち上り、酒瓶を片手に笑い合う冒険者や商人たちで溢れかえっている。
「うわあ……!すごい、本当にランタンがいっぱい……!」
アリアは目をきらきらと輝かせ、ランタンの赤い光に照らされた空色の髪が、まるで幻想的な精霊のようになびいている。
人混みに押されそうになったアリアの肩を、俺は『素早さ:941』の精密なコントロールで、ぶつからないようにそっと引き寄せた。
「ほら、迷子になるなよ。」
「っ……!も、もう、子供扱いしないでよね。これでも私は現役のギルド冒険者なんだから……。」
アリアはそっぽを向いたが、引き寄せられた距離のまま、俺の黒い上着の袖をそっと掴んで離さなかった。
通りを歩いていると、ひと際きらびやかな露店が目に飛び込んできた。
そこには、この世界の珍しい果物を凍らせた『星屑飴』が並んでいる。
「おっ、あれ美味そうだな。アリア、食べてみようぜ。」
「えっ、でもさっきタルト貰ったばかりだし……。」
アリアが心配そうに言うのを他所に、俺が店に一歩近づいた瞬間、案の定、俺の『幸運:941』の自動防衛システムが、夜の街でも容赦なく発動した。
「へいらっしゃい!……ってお兄さん!あんた、今夜うちの店が仕入れた最高級の魔果実を見に来てくれた、記念すべき千人目のお客様だよ!運が良いから、この一番大きい星屑飴、2本ともタダで持っていきな!」
「……またですか。ありがとうございます。」
手渡された、ガラス細工のようにきらきらと光る氷の飴玉をアリアに差し出すと、彼女は言葉を失ったように呆然とそれを見つめていた。
「……カナタ。もう驚かないわ。世界がカナタに甘すぎるのにも、この1ヶ月で完全に調教されちゃったもの。いただきまーす。」
アリアは諦めたように笑うと、飴を小さく口に含んだ。パチパチと口の中で弾ける魔法の果実に、「おいしい……!」と頬を緩ませる。
俺たちはランタンの光の下、夜の街をゆっくりと歩き続けた。
時が止まればいいのに、と本気で思った。
だけど、スマホの画面に映るデジタル数字は、無慈悲に1分、1秒と刻み進んでいく。
賑やかな夜市の喧騒の裏で、俺の胸の奥には、少しずつ冷たい砂嵐が吹き荒れ始めていた。
明日になれば、この飴の甘さも、ランタンの光に照らされたアリアの笑顔も、俺の頭からは綺麗に消え去ってしまうのだ。
「ねえ、カナタ。次はあっちに行ってみましょう!」
アリアは『星屑飴』の串を片手に、ランタンの光に浮かぶ怪しげな露店の一角を指差した。
そこは大通りから一歩外れた、怪しげな小瓶や、歪な形をした魔獣の骨などが乱雑に並ぶ、いかにも『夜市』らしい魔道具の露店だった。
「へい、お二人さん、寄ってきな。今夜は滅多に手に入らない珍品が揃ってるぜ。」
フードを深く被った怪しげな店主が、しゃがれた声で俺たちを呼び止める。
アリアは興味津々といった様子で、棚に並ぶ色とりどりの小石を覗き込んだ。
「これ、ただの石に見えるけど……もしかして全部、属性付きの魔鉱石?」
「お嬢さん、目がいいねえ。そいつは低級だが、武器に埋め込めばちょっとした魔法効果が付与できる優れものさ。どうだい、1本お買い上げは?」
アリアがどれにしようかと真剣に悩み始めたのを見て、俺もなんとなく棚の隅に置かれていた、埃を被った小さな鉄の小箱に目を留めた。
鍵もかかっていない、古びたただの鉄箱だ。
俺がそれに指先で触れようとした、まさにその瞬間だった。
「おいおいお兄さん!触っちゃダメだ!」
店主が突然、血相を変えて叫び声を上げた。
「え?何かまずいやつですか?」
「まずいなんてもんじゃねえ!そいつは呪いの『爆魔箱』だ!下手に衝撃を与えたら、このランタン通りが丸ごと木端微塵になるほどの超高濃度魔力が暴発するって代物で、俺も処分に困ってそこに置いてたんだよ!頼むから触らねえでくれ!」
「いや、もう触っちゃいましたけど……。」
俺の指先は、しっかりと箱の蓋に触れていた。
アリアが「ヒッ……!?」と短い悲鳴を上げて飛び退く。
気まずい沈黙が流れる中、俺の指先から、またしても『幸運:941』の理不尽な自動防衛システムが、目に見えない波動となって箱へと流れ込んでいった。
チーン、というマヌケな金属音が路地裏に響く。
「……あれ?」
店主が恐る恐る目を開けると、爆発するはずの鉄箱の蓋が勝手にパカリと開き、中から眩い黄金の光が溢れ出した。
呪いの魔力が完全に中和され、反転した結果、中に眠っていた本物の財宝が覚醒したのだ。
「ば、バカな……!100年間、誰も解けなかった古代の破滅呪いが、ただのデコピンみたいな接触で完全に解呪された……!?中から出てきたのは……伝説の『深海真珠のブレスレット』じゃねえか!」
店主は泡を食ってひっくり返り、神を見るような目で俺を見上げてガタガタと震え出した。
「お、お兄さん……いや、お命を救っていただいた大魔導士様!この露店ごとアンタに差し上げますから、どうか俺の命だけは助けてくだせえぇ!」
「いや、店はいらないです……。このブレスレットだけ貰っていきますね。」
俺は箱の中から、夜の闇でも優しく青白く光る、美しい真珠のブレスレットを拾い上げた。
隣を見れば、アリアがもはやジト目を通り越して、宇宙の真理でも悟ったかのような虚無の表情で俺を見つめていた。
「……カナタ。あなた本当に世界の法則に愛されすぎじゃない?あのおじさん、腰が抜けちゃってるわよ。それで、その綺麗に光るブレスレットはどうするつもり?」
「ほら、アリア。やるよ。」
俺はアリアの細い手首をそっと掴むと、その青白い真珠のブレスレットを滑り込ませた。
淡い水色のブラウスと、結び目の青い髪飾り。
そこに加わったブレスレットは、驚くほどアリアによく似合っていた。
「えっ……!?こ、これ、私が貰っちゃっていいの?だって、国家予算が動くレベルの宝物よ!?」
「いいんだよ。タダで拾ったもんだし、何より、綺麗な女の子に付けられてる方が、真珠だって嬉しいだろ。」
「~っ!またそういうことをサラッと言うんだから!」
アリアは顔を真っ赤にしながらも、手首のブレスレットを嬉しそうに何度も見つめ、それから愛おしそうに胸元に抱きしめた。
夜市の賑わいをあとにした俺たちは、街の喧騒から少し離れた、小高い丘の上にある広場へと辿り着いた。
ここからは、ランタン通りが無数の星を散りばめた天の川のようにきらめき、街全体が静かに息づいているのが一望できた。
夜風が吹き抜け、アリアの空色の髪が優しく揺れる。
アリアは広場の白い石造りのベンチに腰を下ろすと、手首のブレスレットをそっと撫でながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、カナタ。私ね……本当は、少しだけ怖いの。」
「アリア……。」
「明日になったら、カナタの目から私の姿が消えちゃうんじゃないかって。ううん、姿は見えるだろうけど、その瞳の中に、私と過ごした1ヶ月がなくなっちゃうのが……それが、たまらなく寂しいの。」
アリアは膝の上で両手を強く握り締め、肩を微かに震わせた。
強がって「何回だって会いに行ってあげる」と言っていた彼女の、それが偽らざる本音だった。
俺はアリアの隣に静かに腰を下ろした。
そして、ポケットからあの一冊の『黒い手帳』と、相棒である『フリクションペン』を取り出し、二人の間のベンチの上にそっと置いた。
「アリア。この手帳には、君が俺の袖を掴んだ時の強さも、君の耳が真っ赤になった時の可愛さも、全部書き残してある。」
俺はフリクションペンのノックをカチリと鳴らした。
「2周目の俺がどんなにマヌケで、記憶を失ってパニックになっていても、この手帳を開いた瞬間に、魂のレベルで君に一目惚れするはずだ。だから、君は何も怖がる必要はないよ。」
アリアは顔を上げ、潤んだ水色の瞳で真っ直ぐに俺を見つめた。
「……本当に?また、私を見つけてくれる?」
「ああ。神様の作ったシステムなんて、俺のバグステータスと、この手帳で何度だってハッキングして書き換えてやるさ。俺たちの合言葉は、なんだっけ?」
「『銅貨9枚と、鉄貨41枚』……。」
「そう。その数字を聞いた瞬間、俺は世界の誰よりも君の味方になる。約束だ。」
アリアは涙をポロポロとここぼしながら、だけど本当に安心したように、心からの笑顔を咲かせた。
「ええ……!約束よ、カナタ!」
街の明かりが少しずつ消え、夜の帳が最も深くなる頃、俺たちは宿の裏口へと戻ってきた。
「じゃあ……また明日ね、カナタ。明日の朝、宿のロビーで待ってるから。」
4月29日23時45分。
アリアは名残惜しそうに手を振ると、夜の闇へとパタパタと駆けていった。
その背中が見えなくなるまで、俺はその場で見送っていた。
静まり返った宿の部屋に戻り、ベッドにどさりと横たわる。
スマホの画面を見る。
──今の時間は、23時55分。
満了の午前0時00分まで、あと5分。
世界のシステムが、俺の脳内にある30日間の記録を消去するための準備を、着々と進めているのが感覚で分かった。
頭の芯がジワリと熱を帯び、視界の端がモヤのように白く霞み始めていく。
「……消させないさ、絶対に。」
俺は身体を無理やり起こすと、木製の机の前に座り、まだ真っ白な新しい『黒い手帳』を引き寄せた。
カチリ、と静かな室内にフリクションペンのノック音を響かせる。
2周目の俺が、迷わずにこの世界をハッキングするための、最も熱くて理不尽な、俺たちの歴史を書き残すために。
俺は意識が遠のく境界線の中で、白紙の1ページ目の1行目に向けて、力強くペン先を突き下ろした。
そこからの数分間は、迷い人の代償と、俺の意地との張り合いだった。
指先が鉛のように重くなり、数秒前まで覚えていたはずのアリアの細かいセリフが、インクが滲むように頭の中から消えていく。
それでも俺は、歯が砕けるほど奥歯を噛み締め、残された全ての筋力と素早さをペン先に込めて、ただひたすらに文字を殴り書き続けた。
『アリアというエルフを信じろ。俺の全てを懸けて守った女の子だ。』
視界はもう、完全にホワイトアウトしかけている。
スマホの画面が、無慈悲に反転する瞬間が目の端に見えた。
──00:00。
カシャリ、と頭の中で何かが綺麗にリセットされる音がした。
握りしめたフリクションペンの感覚すらも失われ、俺の意識は、底の見えない真っ白な忘却の底へと急速に落ちていった。
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